Sharp Eleven featuring Fabio Bottazzo (g, comp)            Live at CoZa-no-Ma, Konandai, Yokohama

I listened Italian guitarist Fabio Bottazzo at this cozy art gallery, CoZa-no-ma in the suburbs of Yokohama. My decision to go to Konanndai for the first time in my life was instantly strengthened by that charity dinner of Amatriciana pasta dishes and wine would be served after the show.

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I have been listening to Fabio for about five years, probably since he began playing in Japan on a regular basis. Jazz clubs and restaurants in Toritsu-daigaku, Kashiwa, Chiba, etc. His website is this.

He is a Padova, Italy native and his relatives and friends live near the region badly hit by the earthquake in August and aftershocks. That is one reason why charity is suitable for this occasion.

It seems that Fabio is very productive this time and he brought a dozen new pieces to the audience. Indeed, I am impressed that his melodic sense advanced greatly in new compositions like Remembering Nino Rota, African November. Dondolando and Paesaggi in Movimento, both of which were his contribution to 2014 album put together by the international group a.s.k. were also lovely tunes.

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He was backed by Hideko Kimura on piano, Kazufumi Tsuchimura on bass and Shinichiro Kamoto on drums. They have been playing with Fabio for quite some time and the interplay of intimately supportive backings and defiant improvisations made listeners feel really good in a crisp November afternoon.

 

The pasta dinner, bucatini all’Amatriciana, was splendid and I had very good time listening to local people talking about good old days of popular drinking spots like Noge and Koganecho. You could do bar hopping with only a couple thousand yen and the bar master would send you off with “Have a good time and be back”. In fact, you would be back to the bar after taking a round of several bars in the same night anyway. Things like that.

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ジョニ・ミッチェル          73歳の誕生日おめでとう!

今日11月7日はジョニの誕生日。昨年の3月に脳動脈瘤で入院。一時は生命の危機だったと言われているが、8月にはチック・コリアのコンサートに姿を現してその場にいたハービー・ハンコックとも会ったりして、脳動脈瘤については着実に健康を取り戻す道筋にある。ジョニは、モルジェロンズ病という病気にもかかっている。これは皮膚の下を何かがはいずり回っているという感覚にとらわれる、カリフォルニアの白人中年女性に多く発症している皮膚病らしい。米国屈指の総合病院の一つメイヨー・クリニックの解説はこれ(英語)。いずれにしても、化学物質が原因とも、認知的なところに原因があるとか、まだよくわかっていない病気。皮膚の下を何かがはいずり回る!考えただけで気が狂いそうになる病気だよね。ただただ、ジョニの心の平安を祈るのみ。

公式Webには、祝福イベントやら、いろんな人の応援メッセージが寄せられている。去年暮れにはシャカ・カーンが、自分は長年のジョニのファンで彼女は自分にとってNo.1アーチストだと言っている。2016年にはジョニのトリビュート・アルバムを計画中、と言っていたので、彼女の公式Webなども見てみたが、まだ時間がかかるようだ。

で、先週のジョニ公式Webに掲載されたリブ・シドールLiv Siddallの一文がちょっと面白かったので紹介しますね。この人は、フリーライターでラフ・トレードの編集長とかやっている。ラフ・トレードは70年代にインディ・レーベルから始めて、今はレコードショップやら物販やら手広くやっているところ。最近はNYのブルックリンにも出店したということだが、ロンドンにイーストとウェストにそれぞれあって、ぼくが行ったことがあるのはイースト店。イーストのトルーマンTrumanビール工場(19世紀には世界最大の規模だったらしい)の古い建物を利用したモールの一角にあって、日本でいえば、ドンキホーテ的な楽しいごちゃごちゃ感の商品プレゼンテーションが魅力の店。インディ系、フォークでもオルタナ系のアーチストの品揃えが豊富で、トレーシー・ソーンTracey Thornの名作デビュー・アルバムA Distant Shoreがあったので買ったんだったな。

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ラフ・トレード ロンドン・イースト店(Webより)

脱線したけど、リブの一文。ジョニの「真に普通でなく、徹底して非妥協的な」(a truly extraordinary and utterly uncompromising life)人生から何を学ぶか、ということ。

  1. 家をあなた自身のものにすること。もしくはただ単に(自分らしい)家を作る。・・・ここでは60年代末にジョニがカリフォルニアのハリウッドの北側のLaurel Canyonで住んだ家に、当時の恋人のグレアム・ナッシュなど多くのアーチストが集まって新しい音楽や芸術を作っていったことに言及している。
  2. 一人でいることは自由であること・・・これは自尊(セルフリスペクト)との関係で、自然にそうなるよね。
  3. 自分自身のスタイルを紡ぎだし、それから離れないこと。・・・リブはジョニの「Laid-back, bohemianくつろいだ、ボヘミアンな」ファッションについて述べていて、こだわりのない、くつろいだ、ボヘミアンな感じを醸し出すためには、物まねじゃだめで、私たち自身が真にこだわらない、ボヘミアンでなければだめだ、と言っているのだけれども、変化・進化(5.の老いによる変化を含めて)を自分のスタイルの中ででどのように消化・昇華するかが次の課題だよね。
  4. 逃げるのはオーケー・・・現代はソーシャル・メディアが地球上を覆っているので、創作活動のヒントを得るために誰にも知られない世の果てに「逃げる」ことがよくあった。ローリング・ストーンズはフランスの古城に何か月もこもったり、ジミ・ヘンドリクスも誰も知られずにモロッコに滞在していた、ジョニもクレタ島のそばのマタラ島に行ってた、という話。これは東洋的な文化でも一時的「隠居」、札所巡礼とか、リフレッシュする、生まれ変わるという願いが人類共通だということだよね。
  5. 老いは祝福、呪いではない・・・リブは女性の見地から、若返り、運動やら高価なトリートメントについて言及して優美に老いるのは難しいが、ジョニは老いることを、物事を見る見方、自由であること、率直であること、を通じて永遠の若さをもたらす、「創造性の進化のステップ」だととらえているとしている。なるほど、いいね。

マイルスの問わず語り 小川隆夫著「マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと マイルス・スピークス」

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫さんが、ご自身のマイルス・デイヴィスとの20回近くにも及ぶインタビューをまとめた「マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと マイルス・スピークス」(河出書房)を出されたので早速読んだ。素晴らしい内容だ。ジャズに少しでも興味のある人は必読!

晩年の約5年間のマイルス・デイヴィスに、始めは突撃取材し、自宅アパートや滞在先ホテルのスイートルームで(ハイアット・リージェンシー東京、1980年代当時はホテルセンチュリーハイアット、がほとんど場合の定宿だったようだけど)好物のチキンとペリエをルームサービスでとってくれて(そういうところに人間の本質が出るよね。仕事と仕事仲間に対する暖かい誠実な姿勢が)問わず語りに回想を話してくれる。それを少しずつ積み重ねていった。

マリブの別荘で行った最初のインタビューの雑談中に小川さんが整形外科医であることを知り、1972年の交通事故の後遺症による足・腰のしびれ・痛みについて、マイルスが小川医師からリハビリメニューをもらってその後本人も必死に取り組み症状が改善されたあたりから、「それなら誰にも書けない本を書けよ。ずいぶんと間違って伝えられているからな。」(本書182ページ、以下同じ)という信頼関係が構築された。本当に小川さんも整形外科医かつジャズ愛好家であったことを、われわれは感謝しなければいけないよね。小川さんでなければできなかった仕事だ。

このインタビュー集で個人的に感銘を受けたところは、「その時代の最高にヒップな音楽をやりたい」「ジミの音楽は、それまでのロックともソウル・ミュージックとも違っていた。まったく新しい音楽だった。オレも自分のスタイルで新しいことをやりたかったから、ヤツの音楽はいい刺激になった。なにか新しいものをクリエイトしている人間は光り輝いている。ヤツがそうだった。そして、オレはいつも光り輝いていたかった」(119)「自分がわかってないヤツとは一緒に演奏できない」(171)などなど。それと、マイルスは父は歯科医、祖父は会計士という裕福な家に生まれ、基本的には不自由のない環境で育った当時としては極めてまれな黒人だったが、それでも警察に車を止められ、自分の車なのに盗んだ車じゃないかと疑われることがしょっちゅうだった、と言っている。

キャメオのラリー・ブラックモンLarry Blackmonと共演(1988年アルバム「マチズモ」オープナーのイン・ザ・ナイト)していたことを小川さんは知らなかったって書いているけど、ぼくはなんとなく覚えてます。ABCテレビのニューヨーク・ホット・トラックスNew York Hot TracksかVH-1なんかでラリーが可愛い赤い股間のパッド(!)を身につけたキャメオのミュージック・ビデオがよく流れていた。直前の1987年11月にライクーダーのゲット・リズムのプレスリー・カバーの「オール・シュックアップAll Shook Up」でボーカルしているよね。

ぼくもブラックモンがなぜマイルス?というのはもちろん知らなかった。小川さんのインタビューでブラックモンの親父がマイルスのボクシングのコーチだったつながりが明かされている。いろんなつながりがあるものだ。縁は異なもの。

New York Hot Tracksの映像はいくつか(シャカ・カーンのI Feel For Youなどが入っている)VHSをデジタル化して)いまだに持っていますが、Web上で探したら・・・ありました!いやあ、懐かしい。1985年版だけれども、マドンナの出世作「ボーダーライン」が2分25秒くらいから始まります。その直後にホイットニー・ヒューストンのこれも出世作「すべてをあなたにSaving all my love for you。」時代だなあ。RUN-D.M.C.も後ろの方に出てくるし。30年前のコマーシャル付きなのが尚更いいですねえ。(ごめんなさい、一人で盛り上がってしまった!)

マイルスについては、1949年5月にパリの国際ジャズ祭でタッド・ダメロン・グループで演奏した旅で出会ったジュリエット・グレコとの熱愛、それにより改めて目を開かされたアメリカにおける黒人としての実存、1960年代の公民権運動へのベネフィットコンサートによる支援、上記の警察にしょっちゅう車を止められたなどの人種差別の個人的経験、ナット・ヘントフなど一部の例外を除きジャズ批評を完全拒否(オレの音楽を知りもしないで批評なんかするな)したこと、などなど、興味深い事実がたくさんあり、本書でも多くの点についてそれなりに語られてはいるけれど、これらについてはここでは触れない。

小川さんのインタビュー集が出たので、ぼくも昔の資料を改めて見ていたら、1985年のニューヨーク・タイムズ・マガジンのアミリ・バラカAmiri Baraka(1934~2014、詩人、60年代はリロイ・ジョーンズという名前で活躍していた人)(wiki)によるインタビュー記事があった。(写真)小川さんも最初のインタビューの際に偶然知り合ったという、当時のマイルスお抱えフォトグラファーのアンソニー・バルボザAnthony Barboza(小川さんとの写真は本書3ページにある)による眼光鋭いマイルスの写真で始まる。

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この記事の中では、ガレスピー、マックス・ローチなどのマイルス評が紹介され、当時最新作のデコイでマイルスが当時最先端のメディア手法であるミュージック・ビデオを作ったことについても触れている。いつでも最先端にいようとし、そして現実にそれを実行した人、マイルス。また、バラカは「まだ25歳のガキでジャズ批評家になりたかった」彼が1960年にヴィレッジ・バンガードにマイルス・コンボ(コルトレーンが抜けてバラカの地元ニューアークのダチでもあるハンク・モブレーが入っていた)を聴きに行き、楽屋でマイルスに話を聞こうとして、「うるせえな」とあしらわれ、マイルスに「もしオレが有名なジャズ批評家なら話してくれんだろ?」と反発した経験を披歴しているのが面白い。

レッテル張りを否定し、ジミ・ヘンドリクスやプリンスなどとの交流を通じて自らをポップの(ジャズの狭い世界ではない)革新者として人生を全うしたマイルス。本書は、少年時代からニューヨークに出てきて、チャーリー・パーカーと同居しながらの追っかけ、「クール」時代、50年代、60年代の黄金クインテット、モード、フュージョン、エレクトリック・マイルスなど重要な節目節目のマイルスの思考と経験が詰まっている「問わず語り」が記録されている。英語版が出たら(出すんでしょ?小川さん)世界のスタンダード・マイルス・レファレンスの一つとなるだろう。

マイルスが死んでもう25年が経つ。65年という人生は、現代日本の高齢化社会では、年金受給年齢に達したに過ぎないし、ぼくもほとんどそこに近い年齢になってしまったので、凡人だがやるべきことをやろう、と身が引きしまる思いです。ありがとう、マイルス。

付録)

なお、バルボザのブログサイトでは、マイルスのいろんな写真が見られます。おすすめ。

バルボザの祖先はケープ・ヴェルデ(旧ポルトガル領、現カーボベルデ共和国。アフリカの西の太平洋に浮かぶ島)からの移民。ケープ・ヴェルデのルーツと言えばホレス・シルバーもそうだよね。ポルトガル系のルーツから当然カソリックの家柄であることが想定できる。少なくともホレス・シルバーはそうだ。ホレス・シルバーにはケープ・ヴェルデ生まれの父にインスパイアされたCape Verdean Blues (ブルーノート1965)という作品もある。

で、バルボザのサイトからの発見。三楽オーシャンの焼酎「VAN」のコマーシャルにマイルスが出てたんだ!旧メルシャン、現キリングループ。TDKに出てたのは知っていたけれどもね。

 

 

 

 

ブルックリン・ビールが日本で買いやすくなる!

7月にブルックリンを歩いて、ブルックリン・ビールを飲んだという記事を書いたんだけど、テレビを見ていたら、キリンビールがブルックリン・ラガーなどで知られる有力クラフト・ビールメーカーのブルックリン・ブルワリー社と提携し、日本で合弁会社を設立の上ライセンス生産すると。10月にはさらにブルックリン・ブルワリー本体に24.5%資本参加することを発表している。(日経記事)1本400~500円で販売するらしい。

上記日経記事によれば「小規模な醸造所で造り、個性的な風味を持つ」クラフト・ビールは「2015年の米国での販売額は223億ドル(2兆3千億円)と11年比で2.5倍となり、市場全体に占める割合は2割を超えた。日本ではまだ1%程度」だから、その成長市場でシェアを取れる。ただ、「シェア一辺倒の姿勢を改め、まず「個性」でブランド力を底上げする新機軸だ」というところは何のこと?という感じ。相変わらず日経さんの大企業ヨイショなんだけど、ヨイショし過ぎて理屈なんかどうでもいい感じか。ブルックリン・ブルワリーの個性ある商品を日本でライセンス料を払って生産・販売することで「キリンのブランド力」が上がるのかね?

まあ、ブルックリン・ラガーファンとしては、近所のスーパーでも買えるようになるだろうからとてもうれしいんだけど、現時点で楽天市場での最安値は税込み1本410円だぞ。

もう少し安くしてくれないかなあ。

これがナイスじゃなかったら、何がナイスだよ? カート・ヴォネガット卒業式講演集

「これで駄目なら 若い君たちへ-卒業式講演集」(カート・ヴォネガット、円城塔訳、飛鳥新社)を読んだ。

前に、デイブ・ブルーベックは、第二次世界大戦の北フランス戦線でパットン将軍率いる「バルジの戦い」の前線の軍楽隊で演奏しているころに、後に長く一緒にコンボを組むことになるポール・デズモンドと出会った、ということを書いた。(これ

ヴォネガットは、なんと!このバルジの戦いでナチス・ドイツ軍に捕らえられて、ドレスデンの捕虜収容所を生き延びた人だよ。

ドレスデンは1945年1月の連合軍による絨毯爆撃によって街が灰燼に帰した。ソ連がドイツに進軍しやすくするという目的でドイツの東部戦線の補給機能を壊滅させるため、結節点のドレスデンを破壊したもの。ドレスデンは交通の要所であり、ロジスティックス上の重要性があったが、「目立った軍事施設もなく、「エルベ河畔のフィレンツェ」の別名の通りドイツ最高のバロック様式の美しい街並みと数多くの文化財が知られており、人々はドイツの中でも「ドレスデンだけは空襲に遭うことはない」と信じていた。ドイツ軍も空襲に対してはほとんど無警戒であった」(Wiki)であったとのことだから、日本でいえば、京都、奈良が東京の補給ラインに直接影響する位置になったという状況と思えばいいのかな。

この大空襲ではソ連の赤軍から逃れてきた多くの難民を含め少なくとも数万人とも言われる死者が出たと言われている。ドレスデン国立歌劇場のゼンパー・オーパーなど多くの歴史的建造物が破壊された。ゼンパー・オーパーは1985年に再建復興され、ドイツ統一後は州立の歌劇場として高い人気を誇っているところだよね。専属管弦楽団はシュターツカペレ・ドレスデン。現在の首席指揮者はクリスチャン・ティーレマン。バイロイト音楽祭の音楽監督だが、サイモン・ラトルの後任として本命視されていた世界最高峰のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督を座をロシア系のキリル・ペトレンコに奪われてしまった、バイロイトでも新世代マエストロとして注目されているボストン交響楽団のアンドリス・ネルソンスが出演を直前にキャンセルしたのもティーレマンとの衝突?があったからだとか、いろいろ話題に欠かない直情派熱血漢?がたまたま11月に来日しますね。(ザルツブルグ・イースター音楽祭in Japan)オーケストラ・プログラムはブロンフマンのピアノでベートーベンの皇帝かあ・・・ちょっと行きたい気がするが・・・。

で、ヴォネガットはドレスデンで捕虜となっていたときにこの空襲を地下食肉倉庫に逃れて九死に一生を得て帰国。この経験が後の「スローターハウス5」という作品となった。映画化もされている。復員兵援護法を利用して(ブルーベックもそうしたよね。広島に原爆が投下された1945年8月6日に海軍に入隊して、訓練後パール・ハーバーにいたコルトレーンもなんかも。)シカゴ大学に学び、作家として名声を博するようになるまでも新聞記者として、またGE(ジェネラル・エレクトリック)の広報、それから様々な仕事にもついて家族を養った。「日々の暮らしの中でのほんのささやかな素晴らしい瞬間に気づき、感謝し、」(本書、11ページ)「これがナイスじゃなかったら、何がナイスだよ?(この時、この場、この瞬間がナイスなんだよ)」(注1)と問うことの重要性を若者たち(を通じて)世の中に語りかけた人。ヴォネガットの叔父が「夏の日に、一緒にリンゴの樹の木陰でレモネードを飲んでいた」(同、47ページ)ときに、言った言葉として紹介される。この本の題がその言葉。

また、次のように、コミュニティ主義者といってもいい思考を分かりやすく語りかける。「君たちは君たち自身のコミュニティを立ち上げたり、つくり直したりすることになるだろう。その運命を楽しむんだ。君にとってのコミュニティは世界の全てに相当する。他の全てはにぎやかしだ。」「マーク・トウェインは、その豊かで満ち足りた、ノーベル賞なんてもらわなかった人生の最期に、人生には何が必要なのかを自問してみた。そうして、ほんの六語で足りることに気がついた。わたしもそれで充分だと思う。君たちにも満足いくだろう。それは隣人からの良い意見(The good opinion of our neighbors)。だよ。隣人というのは、君たちのことを知っていて、君たちに会って話しかけることができるそういう人たちのことだ。君たちは君たちでその隣人の助けになったり、良い刺激を与えることができたかもしれない。そういう隣人というのはマドンナやマイケル・ジョーダンのファンほど多くはいないよね。隣人から良い意見をもらえるには、大学で学んだ特別なスキルを使って、模範となる書物や先人たちが示してくれた良識と名誉とフェアプレーの基準を満たすようにしないといけない。」(同、54~55ページ)(注2)

ヴォネガットは村上春樹が若いころに手本にした作家のひとりとして有名だよね。最近は日本で村上とヴォネガットを語ることもなくなっているけどね。思想と実践の点で、村上とは性質が相当異なっているのかな。ヴォネガットは「従来の宗教的信仰」に懐疑的だったドイツ自由思想の家系の出身であり、信条としては人間中心のヒューマニストなのだろう。(Wiki)彼の作品によく出てくる「拡大家族」については、本書でも「卒業する女性たちへ」の講演でこのように語りかける。

「以前、ナイジェリアで出会った男の話だ。イボ族のその人物には、600人の親族がいて、彼はそのいちいちをよく知っていた。彼の妻はちょうど赤ん坊を生んだところで、それはどんな拡大家族においてもやっぱり一番のいいニュースだった。彼らはその赤ん坊をあらゆる年齢の、大きさの、体形のイボ族の親族全員に見せに出かけるところだった。他の赤ん坊に出会うこともあれば、そう年の離れていないいとこたちに会うこともある。充分に育ってがっちりした体になっていれば、みんなその赤ん坊を抱きあげ、抱き寄せ、そしてホラホラ、可愛いねえ、顔だちがいいじゃないか、と語りかける。君たちはそんな赤ん坊になってみたいと思うだろう?できれば、君たちに魔法の杖を一振りして、君たちを一人残らず、ツボ族やナバホ族やケネディ家の一員にしてやりたいと思うんだよ。」(注3)

ヴォネガットは初期の社会主義労働者リーダー、地元インディアナ州出身の2人のリーダーとしてパワーズ・ハプグッドPowers Hapgood(1899~1949)とユージーン・デブスEugene V. Debs(1855~1926)に強い影響を受けており、本書でも何回か彼らに言及する。ハプグッドはハーバード大学を卒業し労働運動に身を投じ、米国鉱山労働者組合を組織、社会党からインディアナ州知事選挙に出馬し、また、米国最大の冤罪事件と言われるサッコ・ヴァンゼッティ事件(映画「サッコとヴァンゼッティ(邦題は「死刑台のメロディ」)」にもなったし、主題歌「勝利の讃歌」はジョーン・バエズが歌った。)でも彼らを支援した。デブスはアルザスの移民の子に生まれ、鉄道労働者(機関士)となってアメリカ初の産業別労働組合を組織、1900年を皮切りに1920年の大統領選まで5回(1900年を除きアメリカ社会党から)立候補した人。そのうち1906年の大統領選が最高で6%の得票率だったとのこと。(Wiki

本書にまとめられた講演は、古いものは1978年(カーター大統領時代)、1994年が2回、1996年、1999年、2000年、2001年同日のハシゴで2回、最後が2004年。2001年の2回は9.11の1か月後のものだ。

1978年はカーター、1994年~2000年はクリントン、2001年からは子ブッシュが、それぞれ大統領だったときである。ほとんどの公園は大学卒業生に向けたものだが、カール・サンドバーグ賞受賞講演などの2つは、大学に行ってないとか気にするな、と語りかけるもの。

9.11は、イスラム教徒へのヘイトクライムが急増するなどアメリカ人の精神風土に不可逆的な変化を与えた事件だったが、ブッシュは大量破壊兵器があるとして(後にその事実がないことが明かになった)イラク戦争に踏み切った。ヴォネガットのブッシュ批判は激烈である。「イエール大学を出た上流階級にも、ろくなことを言ったり書いたりできない連中がいます。」(同、95ページ)実名を挙げたところでは「大統領のジョージ・W・ブッシュが自分ではっきりと告白したところによれば、彼は十六から四十一の間という結構長い期間、酔っ払いというか、ほろ酔いというか、泥酔というかの状態にいた。彼が言うには、イエスが彼の前に現れて、生意気さ加減を正し、アルコールでうがいするのをやめさせたそうだ。」(同、83ぺージ)ブッシュの飲酒癖は有名で3度の逮捕歴もある。Wikiにはもっと激しいブッシュ批判がまとめられている。

バーニー・サンダースがこれほどの支持を集める現在のアメリカがハプグッドやデブスの社会民主主義の流れを汲み、足元の社会、労働する自分を取り巻くコミュニティ(まち、仲間)を大事にする伝統を現在の文脈で捉えなおそうという運動になっているからであるのではないか。すごく単純な比較をすると、デブスが前世紀はじめの得票率が最高でも6%だったのに比較して、ヒラリー・クリントンと州によってはいい勝負をしたことから、仮に全米がまんべんなく共和党と民主党が互角だったとすれば、サンダースは25%くらいの得票をしていたという見方もできなくはない。それだけ社会民主主義的見方が国民の中に(特に若い層、ジェネレーションX層に)広がっているのは今までになかったことだ。

デモグラフィック(人口動態)の変化もこうした社会的な変化を後押ししていると言われる。アジア系移民、ラティーノと言われるラテン系国民の増加は比較的若い層が中心。若い層は、理想的な思考ができ、自分の夢を語る時間的余裕があるし、この何十年かのパクス・アメリカーナによって国民の教育水準も上がっている。白人層が少なくなる、教育水準が上がると民主党支持者となりやすいのがアメリカだという。先日聞いたウォールストリート・ジャーナルの「米大統領選特集2016」で編集長のジェラルド・ベーカーが2012年までの20年で国勢調査の白人人口比率が87%から73%に減少している、と言っていた。(Huffington Postに吉川敦也という慶応大の学生さんの取材記事があるので参考までに。ベーカーの話でぼくが印象的だったのは、ヒラリーは国民から「信頼されていない」ということ。なんか隠してる、なんか口先だけだ、そんな感じのようだ。最終盤にきてトランプ氏の女性への侮蔑的対応が炎上しているが、そもそも両候補とも人気がないといういまだかつてない大統領選だというわけだ。)

バーニー・サンダースはブルックリンの貧しいペンキ職人の家に生まれ、シカゴ大学卒業後はイスラエルのキブツ(集産主義的協同組合)で数ヶ月間過ごし、その後一貫して「格差が少なく普通の人々が政治的な力を持てる社会の形成」という政治理念を保ち続けた、という。(Wiki)キブツは帝政ロシアの迫害から逃げてきたユダヤ人たちが始めた共同体で、「生産的自立労働」「集団責任」「身分の完全な平等」「機会均等」を4大原則としている。

20年くらい前、当時勤務していた会社で、経理部のフツーの男がある日、イスラエルに行くのでやめます、という挨拶をしたのでびっくりした経験がある。キブツに行くと言っていた。今はどうしてるのかなあ。海外でボランティアをしながら英語を身に着けようというサイトに、キブツを紹介するものがあったので、参考までに。

今回も長くなったけれど、この本で言われる「コミュニティ主義者」ヴォネガットの語りを通じてアメリカと日本の地域社会=コミュニティを考えるきっかけにできると思う。

(注1)この本の題となっているヴォネガットの叔父の言葉、If this isn’t nice, what is? 日本語版は「これで駄目なら」になっているけれど、ピンと来ないのでぼくはこのようにしました。

(注2)日本語版の翻訳をベースにしたけど、「年長者に従う暮らしをするべきだ」となっている部分は、「フェアプレー」も含まれていないし明らかな誤訳なので、「隣人というのは」以降はぼくが訳してみました。

(注3)ここも日本語版の翻訳をベースにしたけど、最後のセンテンスが訳されていないうえ、その直前の問いかけの文章も翻訳はピンと来ないのでこのようにしました。

 

セロニアス・モンク生誕99周年

今週月曜日の10月10日がモンクの誕生日。1917年生まれ。来年は100年だから、たくさんの回顧ものが出るだろうから、天の邪鬼のぼくとしては、99年で取り上げることとする。

1917年はなんといってもロシア革命の年。日本は大正6年だよ。欧州では第一次世界大戦のさなか、3月に社会主義右派によるロシア革命がおこり、国会臨時委員会が暫定政権を樹立、ロマノフ朝が滅亡。その後11月にレーニン率いる社会主義左派ボリシェヴィキの武装蜂起によりソビエト政権が樹立され、1991年まで存続したソビエト連邦の土台となった。世界で初めて社会主義国が誕生した意味は大きなものだった。1919年にはコミンテルン(共産主義インターナショナル:第三インター)が結成されて、世界革命の実現を目指す組織とされた。その後、第二次世界大戦で独ソ戦が勃発し、ソ連がイギリスとともに連合国となったことから「世界革命」は意義を失い、コミンテルンは瓦解した。日本共産党もコミンテルン日本支部であった。片山潜、野坂参三という人たちが日本から世界革命を目指していたわけだ。

当時日本は英国と日英同盟を結んでいたため、1914年にはドイツに宣戦布告しており、英国の要請によって、東太平洋やインド洋、さらにはインド洋経由で地中海にも艦隊を派遣し船団護衛に参加。日本は初めて世界規模の戦争の当事国になっていた。青島はドイツ領だったことで、中国に対し青島におけるドイツ権益の日本への譲渡、大連の租借などを中国に認めさせ、その後の中国への帝国主義的進出の足掛かりを作っていったわけだ。

そんな年に、モンクは生まれた。村上春樹のモンクについてこう書いている。「彼の音楽はたとえて言うなら、どこからともなく予告なしに現れ、何かすごいもの、理解しがたいパッケージをテーブルの上にひょいと置いて、一言もなくまたふらりと姿を消してしまう「謎の男」みたいだった」(セロニアス・モンクのいた風景/村上春樹『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮社、1997年12月))

俳句だね。ミニマルでありかつ宇宙的。

さて、ぼくが最初に買ったモンクのアルバムは、アンダーグラウンド(1968年リリース)。74年ころに買ったんだと思う。高校生。街にミントンハウスというジャズ喫茶がオープンして、マイルスやロリンズやらを聞き始めていたのでモンクもたぶん聞いていたかもしれない。ミントンハウスについては前の記事を参照。

モンクがジャズの仕事を始めたのが1940年代前半のハーレム118丁目と7番街のセシル・ホテルの1階にあったミントンズ・プレイハウスで、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー及びチャーリー・クリスチャンらと共に40年代のビバップ革命を展開した歴史的な場所。テナーサックスのヘンリー・ミントンが開いたクラブで1974年に火災のため閉鎖。その後2006年に「アップタウン・ラウンジ・アット・ミントンズ・プレイハウス」として再オープンしたが現在は再び改装中だということになっている。(Wiki

でもWebを見ると、ミントンズかつセシルとしていろいろライブとショーをやってるね。

今日はMidnight Jazz Breakfast hosted by Carla Hall and Patti LaBelle でなんと金曜日の夜11:30から深夜1:30まで、ABCテレビの料理ショーでも知られたカーラ・ホールCarla Hall となんとR&Bの大御所パティ・ラベルPatti Labelle (マイケル・マクドナルドとのデュエットOn My Ownは大好きだよ。80年代後半によくラジオでかかってたなあ)が共同ホストとして、ニューヨークで最もデカダント(退廃的)なブレックファストを提供します。歴史あるミントンズでライブジャズでダンスしてはどうでしょう・・・ということ。うーむ。なかなか魅力的だね。こんど行ってみたいスポット。退廃的なブレックファストね・・・。

ミントンズとセシルを調べていたら、リチャード・パーソンズという人が2006年にこの2つの施設に投資して現在に至っている。この人はシティ・グループの会長やタイム・ワーナーのCEOも務めた大物。真夜中のミントンズMinton’s At Midnightという歴史あるステージを復活させ、ジャズ・ミュージシャンとヒップホップ・アーチストを結びつける場としたいんだよ、とハリウッド・リポーター誌に語っている。

それで、と。モンクのアンダーグラウンドに戻ろう。ジャズの情報自体はあんまりなかったから、ミントン=モンクという連想があってこのレコードを買ったわけではなく、いわゆるジャケ買い。見てくださいよ。あやしいモンクおじさんが自動小銃を肩に第二次世界大戦のフランスのレジスタンス戦士になっている。ナチスの旗があり、若い女性兵士が後ろに。これはチャーリー・パーカーやモンクのパトロンとなった、ロスチャイルド家の出のニカ男爵夫人の若いころの写真じゃないかということらしい。(ロビン・ケリーの以下伝記による)

メンバーは60年代のカルテットメンバー、すなわちテナーサックスにチャーリー・ラウズCharlie Rouse、ベースはラリー・ゲイルズLarry Galesそしてドラムスはベン・ライリーBen Riley。これはこのメンバーでの最後のスタジオ録音、かつこの後にスタジオ録音した作品は大編成バンドでのMonk’s Blues(1968)とロンドンでブラック・ライオン・レーベルでの録音(1971)のみである。1976年のニューポート・ジャズ・フェスティバルでの出演を最後に引退し、1982年2月17日に脳出血でこの世を去っている。

モンクは1966年7月に旧友バド・パウエル、1967年には、5月エルモ・ホープ、そして7月にジョン・コルトレーンを失い、自身の健康も悪化する精神的にも肉体的にも大変ななかで、このアルバムはUgly Beauty、Raise Four、Boo Boo’s Birthday、Green Chimneysの4曲の新作を含む力作。Boo Boo’s BirthdayのBoo Booはモンクの長女バーバラのニックネームでこの曲もいいが、Raise Fourがいいですねー。フォー(4度)を上げて、つまり5度をフラット(フラッテド・フィフス)のメロディの12小節ブルース。テナーのチャーリー・ラウズは父親が死んでこの時(1968年のバレンタイン・デー)のセッションは欠席したため、トリオでの演奏になっている。

モンクの伝記の決定版はUCLAで米国史出身のロビン・ケリーによるThe Life and Times of Thelonious Monk(2009)。残念ながら日本語版はまだ出ていない。モンク家に残っている大量の楽譜、写真などの記録に初めてアクセスし、家族に丹念にインタビューするなどして10年かけて仕上げた大作。(モンクに関する資料は息子でドラマーのT.S.モンクがクラーク・テリーなどと1983年に設立した非営利団体のセロニアス・モンク・インスティチュート・オブ・ジャズの所有となっている。評議員会会長はハービー・ハンコック。)ニカ男爵夫人との出会いや他のミュージシャンとのやり取り、よき父であり夫であった側面とともにエキセントリックでクレイジーな側面もあったことなど、事実と証言を丹念に紹介していて、従来のモンク伝とは全くレベルと深さが違う。52丁目にあったダウンビート・クラブでマイルス・デイヴィスがモンクからラウンド・ミッドナイトの演奏の仕方を必死に「こんな感じでいいかい?」「いや、だめだな」「これでどう?」「うん、それなら演奏していいよ」と「習っていた」ことなども微笑ましい。おすすめ。

なおロビンの奥さんはリサ・ゲイ・ハミルトンLisa Gay Hamilton。一昨年Redemption Trail(ブリッタ・ショーグレン監督)で主演女優賞を取っているね。ブラック・パンサーのメンバーで殺された父を持つ娘役だということらしい。見てみようかな。

昭和4年生まれのセシル・テイラー ・・・ ユニット構造の征服者!の50周年記念

ぼくの父親は昭和4年生まれで今年亡くなったが、ビル・エバンスもセシル・テイラーも、さらには日本人では秋吉敏子も、ピアノではないが北村英治も、昭和4年。北村さんはぼくの同級生がやってる秋田・大潟村の河内スタヂオでスコット・ハミルトン、エディ・ヒギンズとの共演盤(文句なし。素晴らしい!)なんかを録音していて、秋吉さんについては、長年の支援者のジョニーさんの盛岡の店でのソロライブにも行ったことがある。この2人の日本人ジャズ・ミュージシャンはそれぞれのやり方で日本のジャズを切り開いてこられた方々だ。ビル・エバンスとセシル・テイラーもお互いにまったく違うやり方でジャズの風景を形作ったジャイアンツである。

セシル・テイラーは最近はヨーロッパでの活動が多かったけれど、2014年には京セラの稲盛名誉会長が設立した稲盛財団の京都賞を芸術分野で受賞している。京都賞って従来ノーベル賞がなかった分野について「科学や文明の発展、また人類の精神的深化・高揚に向けての創造的な活動に対する顕彰」をすることで、今や世界的に権威が高いものとなっていると言われている。昨日死んだアンジェイ・ワイダ(1987年受賞)、日本では関空旅客ターミナルの設計で知られるレンゾ・ピアノ(1990)、セシル受賞の前の音楽部門の受賞者はピエール・ブレーズが受賞。

セシル・テイラーがデビューしたのは1956年の「ジャズ・アドバンス」。マイルス・デイビスがプレスティジとの契約を早く履行してコロンビアに移籍するため、例の「四部作」マラソン・セッションを5月と10月にしていた同じ年に、セシルはその後のジャズインプロヴィゼーションの地平を切り開く力仕事をしたというわけだ。オープナーからぶっ飛びます。モンクのベムシャ・スイング。出だしのテーマがなんとなくおとなしめに提示された後、セカンドコーラスから一気にパ-カッシブで眩暈的な世界が提示される。ベースとドラムス(バージン諸島生まれのデニス・チャールズ)が4ビートできっちり運転しているからなおさら、緊張感に包まれる。「スウィング」をタイム(拍)、ピッチ及び強度の統合による「エネルギー」に変えた、とゲーリー・ギデンズは評した(注)が、そのエネルギーがバシバシ伝わる。

ベースはブエル・ニードリンガー。もともとクラシックのチェロを学んでいて60年代以後、ヒューストン管弦楽団でも活躍。フランク・ザッパとも活動していたらしいから、何とも器用でバーサタイルな人なんだね。イェール大学を1年でドロップアウトして(自分の周りにいる人間たちが、マッカーシー委員会による赤狩りの尋問をする側の人間と同じようなやつらばかりだったので、とのことだ)イェールの同窓会でラズウェル・ラッドと会い、その縁でスティーブ・レイシーに、スティーブがセシルをブエルに紹介、という形でつながっている。

セシルとの出会いについてブエルがオールアバウトジャズ誌に語ったところによれば、以下のような感じ。

彼がお父さんと一緒に住んでいた98シェリフ・ストリート(イースト・ビレッジの南側だね)の6階の部屋に階段をよっこら上って行って、確か(ドラムの)デニス・チャールズは居なかったから、スティーブ・レイシーとぼくとの3人。セシルが出会いがしらに「コテージ(別荘)の売り物を知ってるか?」「知らないよ」「ま、いいや、俺たちはこれからそれを演奏するんだからな」って。ぼくは当時すでにストラヴィンスキーとかを聞いていたし、主流ではない作曲家にはもう慣れていたからね。最初の出会いはほんとにいい感じだったなあ。でもオーネット・コールマンが出てきて、セシルへの注目はオーネットに奪われてしまった。オーネットに投資した連中(ジャズ・レビュー誌の共同創始者のガンサー・シューラーとショー・ウェンシ、及びMJQのジョン・ルイス)がいて、そのカネでね。(出所

なお、ショー・ウェンシHsio Wen ShihはMIT卒業の建築士だったそうで、実際にオーネットのマネジャーもしていたようだが、1960年代中頃には消息不明になっていたらしい。名前からして、チャイニーズ・オリジンであることは間違いない。HsioがもともとHsiaoであれば蕭、Wenは文、Shihは士かも。ガンサー・シューラーも、ジャズ・レビューのもう一人の共同創始者のナット・ヘントフも彼について語っていないところを見ると、いわくありげだなあ。

デビュー10年たった1966年には、ブルーノートに2枚の作品を発表。Unit Structures とConquistador!。RVG(ヴァン・ゲルダー)の音だよ!翌67年はセッションの記録がないし、その後もポツポツとフランスなどで演奏したようだけれどスタジオ録音は1978年のCecil Taylor Unitあたりまでなく()、コンサートのライブばかりである。ということもあって、このブルーノート盤がセシル・テイラー音楽の一つの完成形だというのが定説となっている。50年前のセシルの完成形を楽しもうっと!

Steps 階段。階段を登っていくと、風景が変わっていく感じの緊張感と高揚感。

Enter Evening(Soft Line Structure) 夜、入場(柔らかい線の構造)。ケン・マッキンタイア(エリック・ドルフィと一緒にやっていた人だね)のバスクラリネットやオーボエが柔らかいいい感じ。

Unit Structure/As of A Now/Section ユニット構造物/一つの「今」時点では/立面図というネーミングがある演奏。ユニットのマンションといえば、黒川紀章の中銀カプセルタワービルを思い出します。そういえば築地市場の豊洲移転を決めた石原東京都知事が三選を狙った2007年の都知事選挙に黒川紀章も出馬したのだったなあ。このCDジャケットも色とりどりのセシルのキューブが積み重ねられているよね。「今」を数えられる普通名詞として表現したりしているのも世界の多様性認識への希求が見られますね。

Tales (8 Whisps) お話・8つの束 変化の富んだお話の束。エンディングとしてもよくできた小品、といっても7分ですが。最後の束が45秒くらいのピアノソロ。これが絶妙に詠っている。

Conquistador 18分のアルバムタイトル曲。7分ちょい過ぎの静から動に変わるあたりの昇天感がいいなあ。終わりにかけての4分くらいはアラン・シルバのアルコベースとの抒情的対話になっていく。

With(Exit)は19分30秒。ショパンのピアノ協奏曲第1番第1楽章、ベルリオーズの幻想交響曲の最初の2楽章の合計と同じくらいの長さ。ある程度複雑な色彩とフィーリングとトーンを一つの作品とするには、この位の時間が必要かつ十分かもね。33回転LPレコードの片面というのが一つの人間的な単位だったのだろうと思う。今は、ぼくのセカンドハウス用サブPCですらiTunesでたまった音楽量が、(ずいぶん消したんだけど)5万曲200日とかとなっていたりするだけで途方もない感なんだけれど、世界標準では2000万とか3000万曲が定額聞き放題とかなっていて、ただただ絶句。

 

夕方にチェルシーを散歩してChelsea Morningを書いたジョニのアパートを見た。

チェルシーはロンドンにもあるが、ニューヨークのチェルシーは14丁目から30丁目、東は5番街西はハドソン川岸までの地域。南にグリニッジジ・ヴイレッジと接する。地価が高騰してソーホーから移ってきたアーチストのギャラリーが増えた1990年代からニューヨークのアートの中心となった。ジョニ・ミッチェルが一時住んだ1960年代はフォーク(その後のシンガー・ソングライターたちの音楽含め)、ロック及びジャズのメッカだったから、多くのタレントが世界から集まってきた。例えば、ビートルズ解散後のジョン・レノンは人生の最後の10年ほどをヨーコ・オノとニューヨークに住んでいたが、ホテル住まいを終えた最初の住居はグリニッジ・ヴィレッジの105バンク・ストリートのアパート。ミネソタからはボブ・ディラン、カナダからはレナード・コーエンやジョニもグリニッジ・ヴイレッジにやってきた。

レナード・コーエンとジョニとのことについてはちょっとメモしておかないといけない。ベテラン音楽ライターでウクレレ奏者でもあるシルヴィー・シモンズのレナード・コーエンの伝記「I’m Your Man: The Life of Leonard Cohen」の紹介には、この2人は短期間恋愛関係にあって、ジョニはレナードを尊敬し、「読むべき本のリスト」を教えもらったりしたという点で、師弟の交わりのようなものでもあったと。レナード・コーエンはボブ・ディランやルー・リードも尊敬し現在存命の大物ミュージシャンズ・ミュージシャンだけれど、Wikiによると上記シモンズ作の決定版ともいえる伝記は中国語を含む世界18言語で翻訳されているらしく、日本語で出ていないのはまったくもって残念だ!近々ぼくも入手予定です。

チェルシー・モーニングは他のジョニ作品の大ヒット曲Both Sides Nowなどを世に知らしめたジュディ・コリンズが1969年4月にシングル・リリースしていますね。ジョニ自身のアルバムではセカンドアルバムClouds(1969年5月1日リリース)所収。ちなみにジュディもレナード・コーエンの名曲スザンヌなど取り上げてますね。ジュディ・バージョンのチェルシー・モーニングがビル&ヒラリー・クリントンの一人娘チェルシーの名前の由来になったというのは有名な話。

おなじみのオープン・チューニング(この曲はオープンD)のD-28のイントロで歌はこんな風に始まる。

Woke up, it was a Chelsea morning, and the first thing that I saw

Was the sun through yellow curtains, and a rainbow on the wall

Blue, red, green and gold to welcome you, crimson crystal beads to beckon

朝起きると最初に目に入ってきたのは黄色のカーテンを通して朝陽が差して、壁には虹がかかった。ようこそって言ってくれてる・・・。なんと瑞々しい抒情。

ジョニ自身は、この曲について、「フィラデルフィアで友達とスラグ・ガラスを町で拾ったのよ。私はこのガラスとワイヤ・ハンガーでモビールを作って、ニューヨークのアパートに飾った。若くてスイートな時代だったわ。レコーディング契約を獲得する前だったし。スィートな曲だけど、私のベストの曲ではない。純情可憐な少女の作品」とロサンゼルス・タイムズのインタビューに答えている。でも美術学校出だけあって、ジョニの詩はとてもカラフルなイメージに満ちている。スラグ・ガラスっていうのは、ガラス溶融炉の残留カスで、天然のガラスにはない鮮やかな色なのだと。人工のものが天然のものよりも鮮やかだというのも面白いね。

このアパートとは1967年にジョニが引っ越してきた41 West 16th Street。真ん中の茶色のレンガの建物。上品でいい建物だな。この窓から朝陽がさして虹が壁に映ったんだね。ジョニ23歳。デイヴイッド・クロスビーがプロデュースしたSong to a Seagull (1968)でデビューする前年です。

41 West 16th Street , New York
41 West 16th Street , New York, New York

さて、グリニッジ・ヴィレッジの歴史をメモしておこう。

グリニッジ・ヴィレッジは1609年にオランダ東インド会社に雇われたヘンリー・ハドソンが「発見」し、当地に先住民であったマンシー族、モホーク族などのインディアン[1]と毛皮などの交易をし、1623年に正式にオランダ西インド会社が設立され、北は現在のニューヨーク州都のオーバニーから南はペンシルバニア州フィラデルフィアあたりまでの新オランダ植民地ができた。当初はインディアンに支援を受けて交易・入植を拡大したが、17世紀中ごろから武力でインディアンを追い出していくわけですね。第二次英蘭戦争(1665~1667)終結時の講和条約によって北米植民地の新オランダをイングランドに割譲し、当時の国王チャールズ2世の弟ヨーク候が戦線指令だったことからニュー・アムステルダムはニューヨークとなった。なお、現在インディアンの各部族は連邦法によって自治国家としての権限を行使できる。連邦保留地(レザヴェーション)に部族国家、部族学校、医療センター、カジノが建設されている。ニューヨークには全米都市で最大の87,000人のインディアンが住んでいるそうです。(Wiki情報

それからの歴史は端折り、産業革命でハドソン川対岸のニュージャージーで工業生産が盛んになると、マンハッタン中心部だったグリニッジ・ヴィレッジは人口が流出して寂れ、家賃の安い、したがってカネはないが夢はある若者たちの住処となったというわけだ。19世紀末から20世紀中ごろまで芸術家の天国、ボヘミアンの町、と呼ばれ、西海岸のサンフランシスコと並んで反体制文化の東海岸の中心地だった。

また、ニューヨークは世界からタレントが集まってきたのは昔からだけれど、2度の世界大戦、さらにナチスによるユダヤ人迫害が拍車をかけたからなのだろうな、目立つようになったのは。アインシュタインなどの科学者、作家ではハインリヒ及びトーマ・マン兄弟、ブレヒト(最初はスウェーデンに逃げた)など、女優ではマレーネ・ディートリッヒ、音楽ではホロヴイッツ、ワルター、シェーンベルク、ミヨー、映画音楽のコルンゴルトなど錚々たる面々。すごいなあ。

[1] 「インディアン」であって「ネイティブ・アメリカン」とすべきではないという決議が1977年に国連議場でされている。(Wiki)

ブルックリンを散歩して、ブルックリン・ビールを飲んだ!

先週は3年ぶりにニューヨークに滞在した。内部監査の国際大会に出て、2日間は前から行ってみたかったブルックリンを歩いてみた。

ぼくが住んでいた1980年代後半は、アメリカ経済がどん底だった時代。日本人だとわかるとろくなことはないというのが大っぴらには言われないが身を守る智恵、先輩駐在員からは面倒なことに巻き込まれるリスクが場所・時間によってものすごく変化する、その辺の感覚を身につけろと言われたものだった。その点、ブルックリンはブロンクスと並んで常時一人で足を踏み入れてはいけない場所だった。実際ぼく自身、最初にしばらく住んだクイーンズのフォレスト・ヒルズでは、夏の朝5時頃にジョギングして、街角でたむろしていた3人組に、難癖つけられて追いかけられたことがある。必死に走って逃げたので(幸いというか、相手は酒が入っていたから、スピードはそれほどではなかった)事なきを得た。いや、怖かった。

で、30年後、車でしか、かつスタテン・アイランドに遊びに行ったときなど数回しか通ったことのないブルックリン・クイーンズ・エクスプレスウェー(BQE)からの風景ではなく、地下鉄で主要なスポットになっている地域の駅から、まちを、お店を歩いて見て、BQEのすぐ横の下道(したみち)マーシー・アヴェニューも歩いてみた。もともとマンハッタン南部のダウンタウンとブルックリンはホントに目と鼻の先で、地下鉄の2ライン、3ラインのウォール・ストリートの次の駅がブルックリンのクラーク・ストリート。この間2分。世界の富の中心のウォール街からイースト・リバーを渡って隣の町がもうブルックリンなんだよね。なんか新鮮な感じ。

ブルックリンの地図で分かりやすいのはないかなと探したら、これなんかがいいかなと思います。この中のブルックリンの地図。

brooklyn_map

結論から言えば、昔に比べて格段にまちが新しく、きれいになって、ショコラティエや一本200ドルのジーンズを売っているショップやら、サンスイの70年代の名機を展示しているオーディオ店やら、ベドフォード・アヴェニュー駅(地下鉄Lトレイン)を中心としたウィリアムズバーグ地区は日中は大丈夫かな。(上の地図のJMZという地下鉄マークのあるあたり)マンハッタンのダウンタウン対岸の昔から高級住宅地だったブルックリン・ハイツ(2トレインか3トレインのクラーク・ストリート駅やAトレインかCトレインのハイ・ストリート駅でアクセス。上の地図の37のマークあたり)も州の裁判所の建物があるあたりを通ってさらに南のスミス・ストリートをベルゲン・ストリートあたりまで歩いてみたが、ここら辺も日中は大丈夫。昔はクイーンズ中心地のフォレスト・ヒルズあたりでも、日中に大丈夫かなと思って歩いていると、突然街並みが荒れてきて、ジャンキーっぽい人間が公園のベンチにへたり込んでいる、という感じだった。ブルックリンはもともとアイリッシュやポーランドやギリシャの移民の町だったところで、今でもそういうルーツの音楽をやっているカフェがあったりして、夜に行ってみようかなと思ったが、滞在中毎日(!)朝のニュースでブルックリンのどこそこで昨夜殺人がありました、強盗がありました、強姦がありましたと放送しているくらいに依然として夜は危ない町なので、やめました。

それが現実。

ウィリアムズバーグのMikey’s Hook-upにて

Mikey's Hook-up

上段のサンスイの名機AU999が895ドル、下の方のヤマハCA610 IIが645ドル。開店15周年のセール中でした。

さて、もう一つ。ブルックリンといえば、ビールでしょ。

ホテルに投宿する前に、コンビニでビールを仕入れよと思い、近くのDuane Readeドゥエイン・リードに寄ったら、ブルックリン・ビール4種×3本の1ダースセットが20ドル弱で売っていたので買ってタクシーで移動。なお、ニューヨークではドラッグストア業態が品揃えを食料、パーソナルケア用品などにも拡大して日本のコンビニに相当するものになっている。Duane Reade、Rite Aid, CVS/ファーマシーは80年代からあったが、その後ウォルマート系列のWalgreen(Duane Readeを2010年に買収)が店舗を増やしている感じ。

買ったのはこれ、ブルックリン・ボックス・セット。IPA(インディア・ペール・エール)という少しアルコール度の高い種類のビールでホップの風味が強く、ガッツリ味わいがある。ぼく的には緑のラベルのブルックリン・ラガーがバランスがよく飽きがこないので好き、赤いラベルのブルックリン・ディフェンダーは西海岸系のストロングな味でこれもいい。メキシカン料理などにマッチするはず。楽天でも売っていますね。でも値段は6本で2500円。倍以上するね。

BrooklynBeer

 

PokemonGO騒ぎにちょっとコメント

PokemonGOの騒ぎが一段落したのかと思う。

先週ニューヨークに行っていて、久しぶりのメモワールの題材として、当初は考えていなかったけれど当地でもニュースになっていたので、ちょっと書きます。

この超モンスタータイトルのおかげで、「ソシャゲ」(ソーシャル・ゲーム)が一気に沈むことに危機感を感じた(従来のモバゲーなんかからの広告収入が一気に細ってしまう)テレビ業界がネガティブ・キャンペーンを繰り広げたという観測がある。靖国神社でプレイしている人たち、それも外国人が多くいることについての懸念や、しまいには不特定多数が集まる場所はすべてゲーム開発段階からポケモンが現れる場所にしてはいけない、という議論も巻き起こっている。任天堂は7月22日、PokemonGoに係る業績の影響は「ない」と発表したため、ストップ安。7月7日終値14935円から1週間で25,000円、19日ザラバ高値32,700円まで高騰したが、今日も前日比5%を超える安値。

任天堂は権利保有会社のポケモンに32%出資しているだけで持分法適用子会社として応分のライセンス料などを開発会社の米国ナイアンティックからもらえるだけだ。有価証券報告書など開示資料を見ればわかることだけれど、期待だけでこんなに株価が上がってしまったのだろうか?1週間で時価総額が1兆4000億円増えた。個人投資家の中にナイーブな人たちがいたかもしれないが、全体としての動きからはこれは考えにくい。米国で大ヒットしていると爆謄させるネタをばらまいておいて、任天堂決算発表(7月27日)の前に任天堂自身が「業績に影響ない」「今期(2017年3月期)も最終利益350億円に変更なし」とわざわざ発表させ、一転して売り浴びせて「いじくっている」機関投資家の姿が浮かんでくるような気がしますが。米国内での報道にも、「投資家は任天堂がPokemonGoの開発をしたのではないことに気づき、株価は急落」[1]というのもあるにはあるが。

PokemonGoについて以下のような記事も注目。

  • アップルが米メディアに対し、世界数十カ国で公開済みのゲームPokemon GOの最初の1週間のダウンロード数がApp Store開設以来の過去最高だったと認めた。[2]
  • プラットフォーム(TVゲームの場合はゲーム機そのもの。任天堂、セガ、ソニー3強時代はそれぞれのゲーム機で遊べるゲームタイトルの人気が勝敗を分けた。現在はスマホで遊べるゲームが主体なので、アップル、アンドロイドがプラットフォーム)を持つ強みが如何なく発揮される。バロンズ誌によれば、ローンチ10日での市場浸透は2100万人(3億2000万人の米国人口の6%)に達しており、経験則から市場飽和が20%、1人1日当たり5セントを消費するとして今後2年間に30億ドルの収益をもたらすものと予想。[3]

この2つ目の記事にはPokemonGO以前の最大のモバゲータイトル「キャンディクラッシュ」は2013年と2014年のコンバージョン・レートが2%だったとしている。コンバージョン・レートとは課金に移行するプレーヤーの割合。通常は人気タイトルでもこのくらいだったのがその10倍の20%とはただただ強烈。フォーチュン誌によると、アップルのiTunesなどデジタル・ダウンロード収入は2013年で160億ドルを超えているとのこと。[4] アップルは音楽ストリーミングサービス収入がデジタル・ダウンロードを昨年初めて上回ったそうで、その他(従来のMacだとかiPhoneだとかのハードを作っている部門など)の3つが1/3ずつで、この2年ばかりは四半期合計500億~770億ドル位を稼いでいる姿になっている。

3億2000万人の2割の6400万人が時期はちょっとずつずれていくにしても、上記の予想の2年間ずーっとお金払って遊んでくれるヘビーなユーザー、ちょっとやって3か月くらいで飽きちゃうユーザー、その中間くらいの人たちなどなどの経験則に基づいたアサンプションで収益予測をしているはずだからあんまり狂うことはないのだろうと思う。

アップルのCEOティム・クックも笑いが止まらない様子で、昨日の決算発表では、「ポーケマン」とPokemonの「正しい」発音ができず、(ゲームなど若者の文化に疎い)オヤジみたいだと揶揄されていたようだが、[5] この拡張現実(AR)のゲームは信じられらないほどの現象となっていて、アップルは今後もこの分野(デジタルダウンロード)に投資をしていく、としている。拡張現実について、再確認したかったので元ソニーのエンジニアが立ち上げたVR仮想現実技術の会社のウェブをのぞいてみた。

AR(Augmented Reality:拡張現実)とは、「拡張」という言葉が指す通り、現実世界で人が感知できる情報に、「何か別の情報」を加え現実を「拡張」表現する技術やその手法。

他方でVR(Virtual Reality:仮想現実)については、「バーチャル(仮想)」も含めたあらゆる空間表現を、「まるで現実(リアリティ)であるかのように」体験するための技術や取り組みの総称だと。ARとの大きな違いは、「ARが現実世界をベースに、追加情報を付加」するのに対して、「VR(バーチャルリアリティ)は、様々な形で作られた現実のような世界」に、「ユーザ自身が飛び込む」という部分にある、という

ARもVRも人間の認知能力を支援したり刺激したりする重要な役目を果たすものであることはわかるだろう。日々人間は自分の五感で感知する情報(朝起きて、窓の外の天気の具合を見て、ニュースを見て、シャワーを浴び体調をチェックして・・・)をもとに、行動する。認知症や自閉症にもこの分野の技術が予防や治療に役立たせることができるはずである。「ポケモンGOは自閉症に好影響?」という記事を参考までに。

山歩きにARの利用はどうなのかな。今すでに利用されているGPSルートガイドにプラスして何らかの「情報」が価値あるものとなるとすると何か?ライチョウだ、コマクサの群生だ、というような「実際にそこまで行って、そこに実際にある(べき)もの」を体験できることが通常の山歩きの楽しみである場合が多いから、また、プロの山歩きの人は結構自分だけの秘密の場所(マツタケが採れる場所などは特に!)を教えない人も多いから、喜びの源泉となるものは共有されないと考えた方がいいかも。だから、ARは危険個所のデータを山歩き中に気象情報とリンクしてリアルタイムで警報を鳴らすなどの利用がお金が採れるビジネスモデルになるかどうか。でも危険かどうか自分の頭で判断できないようになるのは、逆に恐ろしいことではある。

[1] https://techcrunch.com/2016/07/25/investors-realize-nintendo-didnt-develop-pokemon-go-and-shares-plummet/

[2] https://techcrunch.com/2016/07/22/apple-says-pokemon-go-is-the-most-downloaded-app-in-its-first-week-ever/?ncid=rss

[3] http://blogs.barrons.com/techtraderdaily/2016/07/20/pokemon-go-could-add-3b-to-apples-revenues-needham/

[4] http://fortune.com/2014/04/20/how-much-revenue-did-itunes-generate-for-apple-last-quarter-2/

[5] http://www.marketwatch.com/story/tim-cook-pronounces-pokemon-like-a-dad-but-sees-possibilities-for-apple-2016-07-26

 


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