マイルスの問わず語り 小川隆夫著「マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと マイルス・スピークス」

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫さんが、ご自身のマイルス・デイヴィスとの20回近くにも及ぶインタビューをまとめた「マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと マイルス・スピークス」(河出書房)を出されたので早速読んだ。素晴らしい内容だ。ジャズに少しでも興味のある人は必読!

晩年の約5年間のマイルス・デイヴィスに、始めは突撃取材し、自宅アパートや滞在先ホテルのスイートルームで(ハイアット・リージェンシー東京、1980年代当時はホテルセンチュリーハイアット、がほとんど場合の定宿だったようだけど)好物のチキンとペリエをルームサービスでとってくれて(そういうところに人間の本質が出るよね。仕事と仕事仲間に対する暖かい誠実な姿勢が)問わず語りに回想を話してくれる。それを少しずつ積み重ねていった。

マリブの別荘で行った最初のインタビューの雑談中に小川さんが整形外科医であることを知り、1972年の交通事故の後遺症による足・腰のしびれ・痛みについて、マイルスが小川医師からリハビリメニューをもらってその後本人も必死に取り組み症状が改善されたあたりから、「それなら誰にも書けない本を書けよ。ずいぶんと間違って伝えられているからな。」(本書182ページ、以下同じ)という信頼関係が構築された。本当に小川さんも整形外科医かつジャズ愛好家であったことを、われわれは感謝しなければいけないよね。小川さんでなければできなかった仕事だ。

このインタビュー集で個人的に感銘を受けたところは、「その時代の最高にヒップな音楽をやりたい」「ジミの音楽は、それまでのロックともソウル・ミュージックとも違っていた。まったく新しい音楽だった。オレも自分のスタイルで新しいことをやりたかったから、ヤツの音楽はいい刺激になった。なにか新しいものをクリエイトしている人間は光り輝いている。ヤツがそうだった。そして、オレはいつも光り輝いていたかった」(119)「自分がわかってないヤツとは一緒に演奏できない」(171)などなど。それと、マイルスは父は歯科医、祖父は会計士という裕福な家に生まれ、基本的には不自由のない環境で育った当時としては極めてまれな黒人だったが、それでも警察に車を止められ、自分の車なのに盗んだ車じゃないかと疑われることがしょっちゅうだった、と言っている。

キャメオのラリー・ブラックモンLarry Blackmonと共演(1988年アルバム「マチズモ」オープナーのイン・ザ・ナイト)していたことを小川さんは知らなかったって書いているけど、ぼくはなんとなく覚えてます。ABCテレビのニューヨーク・ホット・トラックスNew York Hot TracksかVH-1なんかでラリーが可愛い赤い股間のパッド(!)を身につけたキャメオのミュージック・ビデオがよく流れていた。直前の1987年11月にライクーダーのゲット・リズムのプレスリー・カバーの「オール・シュックアップAll Shook Up」でボーカルしているよね。

ぼくもブラックモンがなぜマイルス?というのはもちろん知らなかった。小川さんのインタビューでブラックモンの親父がマイルスのボクシングのコーチだったつながりが明かされている。いろんなつながりがあるものだ。縁は異なもの。

New York Hot Tracksの映像はいくつか(シャカ・カーンのI Feel For Youなどが入っている)VHSをデジタル化して)いまだに持っていますが、Web上で探したら・・・ありました!いやあ、懐かしい。1985年版だけれども、マドンナの出世作「ボーダーライン」が2分25秒くらいから始まります。その直後にホイットニー・ヒューストンのこれも出世作「すべてをあなたにSaving all my love for you。」時代だなあ。RUN-D.M.C.も後ろの方に出てくるし。30年前のコマーシャル付きなのが尚更いいですねえ。(ごめんなさい、一人で盛り上がってしまった!)

マイルスについては、1949年5月にパリの国際ジャズ祭でタッド・ダメロン・グループで演奏した旅で出会ったジュリエット・グレコとの熱愛、それにより改めて目を開かされたアメリカにおける黒人としての実存、1960年代の公民権運動へのベネフィットコンサートによる支援、上記の警察にしょっちゅう車を止められたなどの人種差別の個人的経験、ナット・ヘントフなど一部の例外を除きジャズ批評を完全拒否(オレの音楽を知りもしないで批評なんかするな)したこと、などなど、興味深い事実がたくさんあり、本書でも多くの点についてそれなりに語られてはいるけれど、これらについてはここでは触れない。

小川さんのインタビュー集が出たので、ぼくも昔の資料を改めて見ていたら、1985年のニューヨーク・タイムズ・マガジンのアミリ・バラカAmiri Baraka(1934~2014、詩人、60年代はリロイ・ジョーンズという名前で活躍していた人)(wiki)によるインタビュー記事があった。(写真)小川さんも最初のインタビューの際に偶然知り合ったという、当時のマイルスお抱えフォトグラファーのアンソニー・バルボザAnthony Barboza(小川さんとの写真は本書3ページにある)による眼光鋭いマイルスの写真で始まる。

amiribarakainterviewmilesnyt-magazine-1985

この記事の中では、ガレスピー、マックス・ローチなどのマイルス評が紹介され、当時最新作のデコイでマイルスが当時最先端のメディア手法であるミュージック・ビデオを作ったことについても触れている。いつでも最先端にいようとし、そして現実にそれを実行した人、マイルス。また、バラカは「まだ25歳のガキでジャズ批評家になりたかった」彼が1960年にヴィレッジ・バンガードにマイルス・コンボ(コルトレーンが抜けてバラカの地元ニューアークのダチでもあるハンク・モブレーが入っていた)を聴きに行き、楽屋でマイルスに話を聞こうとして、「うるせえな」とあしらわれ、マイルスに「もしオレが有名なジャズ批評家なら話してくれんだろ?」と反発した経験を披歴しているのが面白い。

レッテル張りを否定し、ジミ・ヘンドリクスやプリンスなどとの交流を通じて自らをポップの(ジャズの狭い世界ではない)革新者として人生を全うしたマイルス。本書は、少年時代からニューヨークに出てきて、チャーリー・パーカーと同居しながらの追っかけ、「クール」時代、50年代、60年代の黄金クインテット、モード、フュージョン、エレクトリック・マイルスなど重要な節目節目のマイルスの思考と経験が詰まっている「問わず語り」が記録されている。英語版が出たら(出すんでしょ?小川さん)世界のスタンダード・マイルス・レファレンスの一つとなるだろう。

マイルスが死んでもう25年が経つ。65年という人生は、現代日本の高齢化社会では、年金受給年齢に達したに過ぎないし、ぼくもほとんどそこに近い年齢になってしまったので、凡人だがやるべきことをやろう、と身が引きしまる思いです。ありがとう、マイルス。

付録)

なお、バルボザのブログサイトでは、マイルスのいろんな写真が見られます。おすすめ。

バルボザの祖先はケープ・ヴェルデ(旧ポルトガル領、現カーボベルデ共和国。アフリカの西の太平洋に浮かぶ島)からの移民。ケープ・ヴェルデのルーツと言えばホレス・シルバーもそうだよね。ポルトガル系のルーツから当然カソリックの家柄であることが想定できる。少なくともホレス・シルバーはそうだ。ホレス・シルバーにはケープ・ヴェルデ生まれの父にインスパイアされたCape Verdean Blues (ブルーノート1965)という作品もある。

で、バルボザのサイトからの発見。三楽オーシャンの焼酎「VAN」のコマーシャルにマイルスが出てたんだ!旧メルシャン、現キリングループ。TDKに出てたのは知っていたけれどもね。

 

 

 

 

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