40年ぶり位の高尾山

GWの笈ヶ岳山行の前に、少しばかり足慣らしをしようと思い、大学生の時に行ったきりだった、高尾山に行ってみようと思い立った。20キロ位のルートを考えて、ヤマレコなどを参考に南高尾山稜を城山まで行って高尾山経由1号路で高尾山口まで戻るループで行くことにした。これだと16キロ。ミシュランに載って以降激混みだという情報は聞いていたので、できる限り早朝にスタートすることにして高尾山口に6時半着。草戸山までの道はなかなかいい感じ、トレランの中年男性に抜かれるまで誰一人会わない静かな道。いいねえと思っていたら西山峠あたりから2人づれの老人が何組か、大垂水峠から城山への上り返しはそれなりにきついけれども、いい感じのヒノキ並木(この城山(670m)は小仏峠のそばだから小仏城山とも呼ばれる山だけれど、津久井城があった津久井湖の南の城山(375m)には江戸幕府直轄の「江川ヒノキ」が残っている。この土地はそういう伝統なのかね?)が続いて、11時前に到着した山頂広場では、桜と花桃が満開で美しい。春霞で富士山の眺望は得られなかったけれども、丹沢の山並み、大室山など道志の山々はまずまず見える。早めのランチを終えてさて帰ろうかと下り始めたら、10人、20人の団体さんがどんどん登ってくる。こんにちは攻撃(登ってくる方々は善意で言ってくれているのだけど、こちらは、ひっきりなし挨拶状態になるのです)に疲労しながらも、高尾山頂は40年ぶりくらいに、踏まないとな、それで薬王院も拝んで、と思ってモミジ台では小学校の遠足部隊に遭遇、山頂大見晴台は別の小学校と大人の30人、50人くらいの団体さんが所せましとシートを敷いてがんがんビールを飲んでいる。薬王院から下は中国の方、フランスの方、おしゃべりしながら行列で登ってくるよ。何が何だかワカラン状態です。

というわけで、結論:高尾山は山歩きには向きません。都市公園です。南高尾山稜から、城山までは静かでまあまあの道なので都心からのアクセスが良好なことも含めおすすめできるけれど(途中の津久井湖岸をズーっと続くトラバース道は退屈)高尾山(特に山頂)を通って戻るのはやめて、稲荷山コースで高尾山口駅にもどる、東海自然歩道を千木良(ちぎら)経由相模湖駅に降りる、日影沢を降りて旧甲州街道をのんびり高尾駅まで歩く(これで20キロくらいかな)、というオプションがいいのではないかと思います。

南高尾城山高尾山ループルート
南高尾城山高尾山ループルート
草戸山
草戸山
中沢山の聖観音菩薩とヤマツツジ
中沢山の聖観音菩薩の後ろ姿とヤマツツジ
相模湖と背後の笹尾根の山並み
相模湖と背後の笹尾根の山並み
感じのいいヒノキ林(植林だけど)
感じのいいヒノキ林(植林だけど)
城山山頂広場の桜
城山山頂広場の桜
城山山頂広場の花桃
城山山頂広場の花桃

記録(2016年4月20日: 晴)

高尾山口発 6:50
草戸山(364m) 8:03-8:08
三沢峠(420m) 8:27
西山峠(475m) 8:50
中沢山(494m) 9:20
コンピラ山(514m) 9:37
大垂水峠 10:00
城山(670m) 10:40-11:00
一丁平 11:12
モミジ台 11:30
高尾山(599m) 11:40
高尾山口着 12:40

 

ブライアン・ウィルソン来日公演

世界初のコンセプト・アルバムとして今でもその価値を失わないザ・ビーチ・ボーイズThe Beach Boysのペット・サウンズPet Soundsのリリースから50周年記念となるブライアン・ウィルソン(1942~)の来日コンサートに行った。

ブライアンは父マレー・ウィルソンMurray Wilson (1918~1973)は作曲家、母オードリーAudree(1917~1990)もピアノを弾くという音楽一家に育ったが、ドラッグやなんかで20年以上も落ちていた時代から「奇跡的によみがえった」1988年のソロアルバム「ブライアン・ウィルソン」の後に出した自伝Wouldn’t Be Nice(1991)で、父親に家庭内暴力を受けていた事実を明かしている。Wkiによればブライアンは父親に角材で頭を殴られ、以来右耳聞こえなくなったとされている。また、この父から長男ブライアンに宛てた1965年5月の手紙の草稿?が5年ほど前に発見されたことから、ペット・サウンズの制作に一人でとりかかろうとしていたブライアンの内面がどのようになっていたか、研究が進むことになった。「お母さんがお前たち3兄弟を女の子のようにベタベタの愛情でスポイルした結果だが、お前たちのような犯罪者でろくでなしは少しくらい有名になったとしても地獄に落ちるぞ、グループは解散しろこれが父として至った結論だ」という厳しい内容。フロイト的精神分析アプローチでは面白い題材だろうけど、今回は割愛します。

で、この親のもとブライアンはカリフォルニア州ホーソーンに生まれた。ホーソーンってロサンゼルス国際空港に隣接しているといっていい町。空港から出て東西を走る105号とサンディエゴ・フリーウェイ405のジャンクション(空港からせいぜい5キロ)の南東に位置していて、交通至便のところ。

ホーソーンにはスペースXの本社とテスラ・モーターズの設計部門があるね。ノースロップ(現ノースロップ・グラマン)の工場もある町だからその伝統・技術が生きているんだろう。ステルス爆撃機のB-2はノースロップ・グラマンの製造。1機2000億円かかる。当然世界一高価な飛行機だって。先月「アメリカ戦略軍がアジア・太平洋にB-2を3機配備して北朝鮮を牽制する」というニュースがあったね。ホーソーンにはマリリン・モンローが8歳くらいまで過ごした家もある。IAMNOTASTALKERというウェブ(映画のロケサイトなどを取材するサイトのようだね。サイトネームが「私はストーカーではありません」というのが笑える)に、モンローの子供時代の家が紹介されている。というわけでホーソーンが世界に誇るいくつかのエピソードがある町だということがわかった。

2人の弟デニス、カールと従兄マイク・ラブ、そしてブライアンの高校の友人アル・ジャーディンとビーチ・ボーイズを結成、1964年ころまでにサーフィンとホットロッドを題材にしたロックでブリティッシュ・インベージョン前のアメリカのポピュラー音楽を代表するグループになった。ブリティッシュ・インベージョンというのは、1964年2月のビートルズを先兵にローリング・ストーンズ、アニマルズなどによる英国ロックがアメリカのトップヒットを独占する状況となったため「イギリスの侵略」と言われる。1980年代前半にもデュラン・デュランなどでもう一度ブリティッシュ・インベージョンがあったね。こうした英国勢の活躍に刺激され、プレッシャーも受け(ブライアン自身がビートルズのラバー・ソウル(1965年12月リリース)に刺激されてこれはイカンとして作ったと再発時のライナーノーツに記している)、コンサート活動をやめて乾坤一擲音楽制作に打ち込んで作ったのが「ペット・サウンズ」だったわけだ。ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブ・バンド」(1967年6月リリース)に先立つ1年前。1曲1曲がメンバーそれぞれの手による曲、他人の曲のカバーだったりの寄せ集めだった従来のLPからLPレコード1枚がコアの作者によって一つのテーマなりストーリーで統一感のあるものになった、これを「コンセプト・アルバム」と呼ぶようになったけれど、今でも最高のコンセプト・アルバムの1枚になっている「サージェント・ペパーズ」よりも前にブライアンが実質一人でやっちまったわけだ。

で、今回の公演は、ブライアンが一人で作りあげた「ペット・サウンズの世界」を50周年の今、73歳のブライアンが日本の皆さまにお届けします、その前座と最後にはホットロッドミュージック、ビーチ・ボーイズのサーフロックメドレーを、ということで、東京フォーラムは一応満員になったし(大阪公演のチケットは完売ではなかったからね、懐の深い東京市場ならではだったといえるかな)、アラカンのぼくより下の世代もオールスタンディングで踊れる時間を持った。良くなかったということはなかった。決して。

でも真ん中にキーボードの前に座って、衰えは仕方がない声でGod Only Knows (LPではB面1曲目)を歌うブライアンに、アーチストとしてのブライアンへのリスペクトを持ったし、彼のドラッグやもろもろの変人扱いされる行動なども含めて「過ぎ去ったアメリカ」への遠い歴史感とを、深く感じることはできた。だってもう生では接することはできないかもしれないんだもの。

前座と最後のサーフロック極め付け部分で、マット・ジャーディンのファルセットがうまい、ほかのミュージシャンがそれぞれ技量を発揮した、そんなことは付け足しだよね。人間は有限な存在です。1ファンとして楽しんだ。

このアルバムのライナーノーツに、ブライアンはこうも記している。「リスナーが聴いて、愛されているという感じを受けるサウンド、これを実験したんだ」確かに。サーファー・ガール(1963年9月リリースの同名アルバム、1曲目)の天国にいるようなハーモニー感は不滅だよね。ぼく的にはYour Summer Dreamが一押しです。同じアルバムの最後手前の曲。

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アウンサンスーチーさんが「国家顧問」に!

時事通信ニュースによれば、「ミャンマーのティン・チョー大統領は6日、政権の実質トップであるアウン・サン・スー・チー氏を新設の「国家顧問」とする法案に署名した。」とのこと。

ミャンマー(1989年6月までの旧称はビルマ)は1962年から続いた軍事独裁政権下の実質的な鎖国政策によって、半世紀にもわたり民主化を求める国民の希望が押しとどめられてきた歴史を持つ。昔勤務した会社がビルマでの事業を行っており、その関係でビルマ人の同僚がいたことから、現地でその同僚の知人に会えるという幸運もあってビルマに個人旅行をした経験がある。ヤンゴン中心部から10キロほど北のインヤー湖に女子学生を含む民主派学生多数(200人も言われる)が国軍兵士によって暴行され投げ込まれて溺死などしたとされる治安警察の非道に対して国民が立ち上がり、1988年8月8日の全国ゼネストで運動の頂点となったことで「8888民主化運動」と言われている民主化の動きが3月頃から学生を中心に始まっていた。しかし9月には民主化を圧殺する形で国軍がクーデタを起こし軍事政権が誕生、1962年からのネ・ウィン体制が終わったあとに、別の軍人が政権を奪取したに過ぎなかったように見える状態だった。ぼくがビルマに行ったのはそれから約2年後ではあったが、空港やいたるところに兵士や治安警察がいて、こわーい感じは続いていた。

Wikiは当時の事実関係を次のようにまとめている。「全ビルマ学生連盟は一党独裁の打破を求め、1988年8月8日にビルマ全土で大規模なデモを行うことを呼びかけた。学生主体であった運動に、政府職員・仏僧・軍人・税関吏・教師・病院職員なども含んだ、さまざまな分野の市民が合流した。これに対し、軍部は無差別発砲を行いデモの鎮圧を図った。この年の4月に(危篤の母に会うために<筆者注>)帰国していたアウンサンスーチーは、8月26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で演説を行い、この国の民主化運動を象徴する人物となった。」

アウンサンスーチー(1945~)はビルマの国父であるアウンサン(1915~1947)の長女。アウンサンは英国に対する独立戦争のリーダーであったためアウンサン将軍と呼ばれてビルマ人なら誰でも無条件に尊敬する人物。基本的には絶対に批判や中傷の対象となることはないのである。なお、ミャンマーでは姓名の区別がないため、というよりもファミリー・ネームがないため(仏陀の前に個人個人が独立していると考えるのかな)「アウンサンスーチー」と一語で標記する。アウンサンは父、スーは父方の祖母、チーは母親の名前からもらったとい意味では先祖の名前を忠実にもらっている形ではある。ちなみにお墓というものもないのが普通。生まれた1945年はタモリや吉永小百合、ニール・ヤングと同年。

アウンサンについて知らないと、なぜ彼女がこれだけ注目され期待されるか十分には理解されないかもしれない。アウンサンは対英独立戦争の同志たち(三十人の志士)と共にビルマ独立義勇軍を設立、日本軍と接触し、日本統治下の台湾で日本軍の指導(南機関)によるゲリラ戦の訓練を積んだうえで、英国が敵であることには共通の目的であることから日本軍との連携によって日本の対英戦争を共に戦い英軍を駆逐して1943年に日本の支援下にビルマ国を建国した。その後日本がビルマ戦線でも敗色濃厚になるや機転を利かせて、アウンサンはイギリス側に寝返って日本及び日本が支援するビルマ国に対しクーデタを起こし、連合国側の勝利によってビルマは再び英国領となったうえ、英国は独立を許さなかったため、アウンサンは英領ビルマ政府の国防・外務担当閣僚として対英独立交渉を続ける中、1947年1月には英首相アトリーと1年以内の独立を保証する協定締結にこぎつけたが、1948年1月4日のビルマ独立を見ることなく1947年7月、他の6人の閣僚とともに暗殺された。こうしてみると、使える資源(植民地宗主国英国、その敵である日本)をタイミングを計りながら頭を使って利用して、いかに祖国の独立のために身を捧げたかは明らか。日本の軍部からすれば裏切りになったとしても、である。

こうした偉大な国父の娘であるアウンサンスーチー。母のキン・チー(1912~1988)は独立後の政権で社会福祉大臣及びインド・ネパール大使となったこともある人。この母のもとでアウンサンスーチーはインドのカレッジや英国オクスフォード大学に政治学などを学び、1985年には来日し京都大学で父アウンサン関連の歴史資料の研究をしている。ロンドン大のチベット研究でスーチーの夫マイケル・アリス(1946~1999)と知り合い、その後スーチーと40年来家族ぐるみの付き合いを続けてきた大津同志社大非常勤講師への取材記事が、日本でのアウンサンスーチーを描いていて興味深い。

1988年頃に盛り上がった民主化運動後、アウンサンスーチーの日本語自伝や当時のビルマの実情を掘り下げた名著「誰も知らないビルマ」(藤田昌宏著、文藝春秋)などが出版され、それなりに実態が明らかになったわけだけれど、日本に逃れてきたビルマ人たちも政治難民を申請したがなかなか許可されないことで日本滞在を諦めて米国などに移住していった人たちが多かったことを記憶している。ぼくの友人2名もどちらも米国に移住した。現実に軍事政権から故郷に残した親・親類への不利な仕打ちがされないとも限らない、という不安も絶えずあったと聞いている。

今回の国家顧問職(英語ではstate counselor)の創設は、従来外国籍の子供を持つビルマ人は大統領にはなれないという憲法を改正する時間と手間を考慮して、大統領の上の究極的国家元首職として国家顧問としたことで上院下院とも軍人出身国家議員を抑えて承認した。8888民主化運動から28年になろうとしているが、本当にようやく名実ともにアウンサンスーチーが国の母となることになったわけである。

さて、今回は最後に四半世紀以上も前のビルマ旅行からのスナップ写真をご紹介。定番のシュエダゴン・パゴダ(仏陀の聖髪が納められている。ミャンマー最初の世界遺産ピュー遺跡に続いて世界遺産になるか?)、カンドージ湖のカラウェイクパレス(シュエダゴンが左に見える)、乾燥納豆を売るおばさん(結構うまい!)、超古い懐中電灯(使えるんだろうか、そもそも)を売る露店、強烈に古いラジオを直しているらしいエンジニア君。今は、経済状況も一変して、生活もかなり豊かになっているんだろう。

シュエダゴン・パゴダ
シュエダゴン・パゴダ
カンドージ湖と左にシュエダゴンの尖塔
カンドージ湖と左にシュエダゴンの尖塔
乾燥納豆
乾燥納豆
超古い懐中電灯の露店
超古い懐中電灯の露店
古いラジオを直してる?
古いラジオを直してる?

中岳奈良助沢登山口          アクセス林道状況の探索

日曜は天気もまずまず気温も上がるようだったので、計画していた中岳奈良助沢へ。クマさんなどのリスクヘッジで地元のTくんとタッグを組む予定だったが、彼は家の用事ができたためぼくの単独行となったので、のんびり一人で探索してきた。JR花輪線田山駅そばから県道195、結構有名な花輪鉱山跡(オフィスは新調されて立派なものになっていた)から、さらに奥へ、瀬ノ沢林道出合に到着、その先花輪越に上っている100mくらい先で通行止め。軽トラックが3台止まっている。除雪とかの工事の人かな?と思っていたがぼくが探索行を終えて車に持ったときにちょうど彼らが帰るところだったが、肩に猟銃。あとで聞いたTくんの話だと、いまは狩猟期ではないから、害獣駆除の人たちだろう。春クマと北東北3県境くんだりまで進出しているニホンジカが目的だろうね、と。たしかにこの辺にはカモシカしかいなかったはずなのだけど、今日もシカのケーンという鳴き声がたびたび聞こえたなあ。

で、奈良助沢登山口までの探索行。片道8.4km。長い。今年は雪が少なかったのだけど、どうしてどうして林道の残雪は瀬ノ沢林道に入って100mもいかない最初の橋の(イタヤ沢にかかっている)小繋橋あたりから30センチ、奥に行くにつれて1mくらいまで残雪あり。雪崩で数m盛り上がって道路をふさいでいる箇所が4か所、さらに1か所は長さ20mくらいの倒木がどっかーんと。あれあれ。いたるところに最大直径30センチくらいの落石。動かせる岩は沢に落としたり、脇に寄せたりして林道整備にも精を出しました。朝は0度近くまで冷えたので雪は締まっている個所が多く、ツボ足でもそんなに苦労はしなかったが、帰りは気温上昇で腐れ雪になり疲労度も上昇。でも平年なら残雪も倍はあるはずで、4月上旬のこの段階ではもっともっと難儀したはず。上記猟師さんたちの話でも、冬季の雪崩による倒木で通行できなくなるのは毎年のことらしい。

探索の結果、堰堤までの倒木、雪崩箇所がクリーンにならない限りは車では登山口までのアクセスは無理。Tくんの観測では、倒木のちょっと先の堰堤取水堰から上台の秋田県柴平発電所に水を汲みあげているからその管理のために作業が必要なはずで、倒木がその手前にあるから、除去作業が行われるはず、と。そうだなあ、中岳の登山道は相当のヤブになっていることからすれば体力温存して中岳アタックに臨む必要があるから、登山口まではスムーズに軽トラなどでアクセスしたいところです。いずれにしても、あと1か月は林道の障害物は除去されないんだろうから、6月のタケノコシーズンに合わせて行くとするかなあ。中岳の四角沢あたりから採れるものは「四角のタケノコ」は知る人ぞ知る名品だし。(形が四角なではないよ。当たり前だけど。でも四角な茎だとなんかファンシーだね。)

中岳奈良助沢登山口へのアクセス状況
中岳奈良助沢登山口へのアクセス状況
小繋橋
小繋橋
2雪崩箇所
雪崩箇所(この他に3か所あり)
3倒木
倒木
4郡壁沢分岐
郡壁沢分岐
5奈良助沢分岐(前ノ沢支線)
奈良助沢分岐(前ノ沢支線)
6滝の沢1号橋
立派な滝の沢1号橋
登山口1(2万5千図に記載のあるつづれ折)
登山口1(2万5千図に記載のあるつづら折)
8登山口2
登山口2(806mピークに上がる尾根)

探索行記録

瀬ノ沢林道出合                  10:15

中岳奈良助沢登山口        12:55-13:15

瀬ノ沢林道出合                  15:15

 

Scott LaFaro Remembered on 80th Birth Anniversary

2014 marked 100 years since the start of the First World War, with armies modernized to use then advanced technologies like tanks, armored cars and chemical gas. In Jazz arena, last year was centennial celebration of singers Frank Sinatra and Billie Holiday. This year we have Charlie Christian, then next year we will see Dizzy Gillespie, Thelonious Monk and Ella Fitzgerald, followed by Hank Jones in 2018, Art Blakey in 2019, and here comes Charlie Parker in the following year.

Now, today is the 80th birth anniversary of Scott LaFaro. THE great bass player, who as member of the first trio of Bill Evans(1929~1980), which existed from October 1959 to the last day of his life, completely revolutionized the way the piano trio performed.

Born in Irvington, suburbs of Newark, New Jersey and raised in Geneva, upstate New York, Scotty first studied clarinet and saxophone at Ithaca College, soon he changed his instrument to bass. It seems that the existence of his father, professional violinist, and his respect and love for his father’s passion for musical perfection, may have a major influence on this change to string instrument. He joined the Buddy Morrow Orchestra in late 1955, and he decided to leave it and live around Los Angeles until he returned to the East Coast jazz scene after finishing the gig with Benny Goodman Band in March 1959. Scotty’s days in LA was the groundwork for his later accomplishments as bass player that have never seen before.

Bill, on the other hand, left Miles Davis Band in November 1958, and was seeking for how his own trio should perform and who the members should be and in so doing he was playing for various players including Lee Konitz and Chet Baker. He even taught piano at the legendary Lenox School of Jazz for three weeks in August 1959. He was definitely  “setting the pace”. And there he is, Scotty was on board. The first trio of Bill, with Paul Motian on drums, was fully equipped and played in Tony Scott’s Sung Heroes on October that year. Interestingly, prior to Scotty joining Bill’s trio, the bass player was Jimmy Garrison, who would be playing with John Coltrane.

The aspect that I think important for Scotty to develop his gift to bloom, was that he played with Thelonious Monk in November 1959 at the Town Hall and at Storyville in Boston in January next year, and that he told in an interview that he learned a lot about rhythm when he played with Monk and that it was great experience. (p.111, Jade Visions: The Life and Music of Scott LaFaro by Helene Lafaro-Fernandez ) Wow, we should definitely find whoever has tapes for these incredible sessions!

On Sunday 2, 1961, Scotty was on stage for Stan Getz at the Newport Jazz Festival in Rhode Island. After finishing the gig, he drove his car heading for his parents in Geneva and in midnight on July 6, his car went on the shoulder of the Route 20 and hit a tree and burst into flames killing him and his old pal Frank Ottley instantly. He was only 25, and his future so promising and it is still, after those years, painful and agonizing.

Scotty’s greatness is that he set the norm of the bass player not only in the Bill’s trio but also for any serious bass players in a short time, which is therefore revolutionary. People who respect him include Marc Johnson who himself was on bass for Bill’s last trio. Marc played Scotty’s tune Jade Visions with Dave Catney, and more recently Phil Palombi recorded a tribute to Scott, “Re-Person I Knew”, and he uses Scotty’s 1825 Prescott instrument occasionally; all of these are evidential matters as to greatness of his legacy.

In commemoration of his 80th birthday, I pick as “today’s catch” three tunes of Scotty’s last performance in the 1961 Newport Jazz Festival. These are in “Miles Davis and Stan Getz: Tune Up” coupled with Miles’ 1956 performances in Germany, and the other Stan Getz group members were Steve Kuhn, piano, and Roy Haynes, drums.

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On introducing the second tune, Stan announced that the next is “Where do you go” by Alec Wilder, however you will notice it is not. It is Gigi Gryce’s Wildwood, instead. Jazz fans talked about this mystery and one of them reasoned that this was caused by a slicing error of recording tapes. I listened to Gryce’s Wildwood played by Art Farmer in 1954, and I agree that it is indeed Wildwood. Take a listen to this crispy wonderful work of Art, really.

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On Scotty’s life, his younger sister Helene wrote a great book “Jade Visions: The Life and Music of Scott LaFaro”. There are lots of interesting and heart-warming testimonies by her and Scotty’s friends and colleagues.

 

 

 

スコット・ラファロ生誕80周年

イベント・マーケティングの一つに「周年もの」がある。お店でも「開店○○周年セール」があるし、逆にだましの手口としては延々と続く「閉店セール」もあります。ニューヨーク5番街の42丁目あたりのエレクトロニクスものや靴屋なんかはEVERYTHING MUST GOなどと派手なPOPをウインドウいっぱいに貼って、客寄せしているよね。日本の法令では景表法違反だけれど、この場合でも閉店の意思はある、と抗弁したら行政側もなかなか手を出せないのかな。

さて、一昨年は戦車や毒ガス兵器など科学の発展によって最先端の人殺しの道具も登場し近代戦争の始めとされる第一次世界大戦の100周年、昨年はジャズの世界でフランク・シナトラとビリー・ホリディの生誕100年だった。今年2016年は大物ではチャーリー・クリスチャンが生誕100年、来年がディジー・ガレスピー、セロニアス・モンクそしてエラ・フィッツジェラルド。2018年がハンク・ジョーンズ、2019年がアート・ブレイキー、2020年にようやくチャーリー・パーカー登場、という感じ。

それで・・・今日4月3日はスコット・ラファロの生誕80周年。ビル・エバンス(1929~1980)のファースト・トリオ(「ワルツ・フォー・デビー」など超名盤を世に残してくれた1959年10月から1961年7月まで存在したピアノ・トリオ。ドラムスはポール・モチアン(1931~2011))でピアノ・トリオのインタープレイに革命を起こしたベーシストです。

マンハッタンの対岸のニュージャージー州ニューアーク郊外のアーヴィントンIrvington にイタリア移民の子として生まれ、ニューヨーク州北部のジュニーヴァGenevaで育つ。父親もビッグバンドでプレーするプロのバイオリニストだった。イサカ・カレッジで始めはクラリネットとサキソフォンを学ぶが、2年目にはベースに転向しカレッジをやめて、バディ・モロウBuddy Morrow楽団の西海岸ツアーに参加、1956年9月に楽団をやめて1959年3月のベニー・グッドマンのツアー後にニューヨーク・ジャズシーンに戻るまで、約3年ロス・アンジェルスに滞在。このLA時代がベーシスト・スコッティ(というのがスコット・ラファロの愛称)の土台を築いた時代。

一方、ビル・エバンスは1958年11月にマイルス・バンドを辞めて(翌年3月のカインド・オブ・ブルーKind of Blueの録音には参加している)、リー・コニッツ、チェット・ベーカーなどのバンドで演奏しながら自分自身のトリオがどうあるべきか、メンバーには誰がいいのかと模索しているところで、8月は3週間にもわたり、1960年まで4年間続けられた、かの有名なバークリー音楽院よりも講師の面々の豪華さが今でも伝説となっているレノックス・スクール・オブ・ジャズという学校でピアノを教えるなど、自分のペースを整えている段階ともいえる状態だった。そこにスコッティが参戦したというわけだ。こうして、1959年10月のトニー・スコット(cl)のサング・ヒーローズSung Heroesが公式録音ではビル・エバンスのファースト・トリオの3人が初めてそろった録音となる。ちなみにその直前のビル・エバンス・トリオのベースはその後コルトレーン・カルテットで不動の地位を築いたジミー・ギャリソン。

スコッティがニューヨークに戻ってからの才能開花過程でぼくが見逃せないと思っているのは、1959年11月から翌年1960年1月にかけてモンクのグループで演奏し「素晴らしい経験だった」としている点。前者はタウンホール、後者はボストンのストーリーヴィルで演奏だったことがわかっている。録音した人はいなかったのかなあ・・・これから発掘されないかなあ・・・期待したいなあ。この経験が1959年12月28日録音のポートレート・イン・ジャズに結実したと思うから。

1961年7月2日(日曜日)ニューポート・ジャズ・フェスティバルにスタン・ゲッツ・カルテットの一員として出演したのち、実家のあるニューヨーク州ジュニーヴァGenevaに車で向かう途中の7月6日未明に道路から逸れて木に激突して炎上、同乗者ハイスクールからの  友人フランク・オットリーとともに即死。享年25。クリフォード・ブラウンもリッチー・パウエル(バド・パウエルの弟です)とパウエルの奥さんが運転する車で25歳で交通事故死したが、どちらも天才的なジャズ・ミュージシャンだっただけに、なんか心が痛む。

スコッティの偉業は、その後のビル・エバンス・トリオのベーシストの規範となったのみならず、ジャズ・ベーシストなら誰でも影響を受けるほどの革命を短期間で成し遂げたことた。スコッティを尊敬する人たちの中には、もちろんビル・エバンスのラスト・トリオのベーシストのマーク・ジョンソンMarc Johnson(ビル・エバンスの最後のスタジオ録音で有名なWe Will Meet Againのベーシストで、かつ今のイリアーヌ・イリアスの夫君)がいる。この人はデイブ・キャトニー(p)とスコット・ラファロの名曲Jade Visionsを録音していたりします。残念ながらこのデイブ・キャトニーもAIDS死、33歳。スコッティの没後50年の2011年には、フィル・パロンビPhil Palombiがトリビュート・アルバム「RE:Person I Knew – A Tribute to Scott LaFaro」をリリースするなど、まだまだスコッティの足跡は大きい。この人はスコッティが使っていたPrescott社の1825年製ベースを定期的に借りて演奏していることで有名。

ビル・エバンスがリーダーとなってからのファースト・トリオの公式録音はトニー・スコットとのサング・ヒーローズのちょうど2か月後12月28日の録音のポートレート・イン・ジャズ、その後エクスプロレーションズ(1961年2月2日)、そして1961年6月13日からのヴィレッジ・ヴァンガードでの演奏の最終日25日(日曜日)の昼(日曜は午後のライブがよくあります)と夜のセットを通しで録音していたものをリリースした、「ワルツ・フォー・デビー」と「サンディ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード」のライブ2枚、計4枚しかこの世に存在していなかったが、1992年に1960年3月から4月にかけてバードランドで演奏した際のラジオ音源をCD化したものが発売されファンは大喜び。なにしろポートレート・イン・ジャズから丸々1年以上この偉大なトリオの録音が残っていないのはおかしいじゃないか、ということだったはず。現在も同じ内容の「ザ・1960・バードランド・セッションズ」として入手可能。この合計5枚のアルバム、時間にして1年半この世に存在してそれまでのピアニストが主役でベースとドラムがリズムをきっちり提供する(でもインタープレイは考慮されることはほとんどなかった)ピアノ・トリオの演奏をガラリと変えてしまった、ベースの革命者がスコッティだった。ピアノとベースは対位法で絡みつくように、ドラムスもその2者につかず離れず、またそれぞれのソロの展開も自由奔放の中に相互の対話が維持される、そんなトリオ。

スコッティが参加したビル・エバンス・ファースト・トリオの作品とりわけ、その頂点となったヴィレッジ・ヴァンガードライブ盤2枚のうち、はじめにリリースされたのは「サンディ」の方で、これはスコッティが急死したことを受け、急きょ彼を偲ぶ作品としてfeaturing Scott LaFaroのタイトルを加え、スコッティの自作曲2曲(Gloria’s StepとJade Visions)を含めスコッティのベースがとりわけフィーチャされた曲を中心に、死後3か月後に発売された。日本ではワルツ・フォー・デビーがジャズ入門用のモンスター・アルバムになっていて、ジャケットも印象派風でカッコいいこともあり、こっちの方がはるかに有名になっている感じだがリリースは「サンディ」の4か月後の1962年2月。

今日は、スコッティの死の4日前のスタン・ゲッツ・カルテットでの最後の演奏を聴いてみたい。独立記念日の休みが2日後の7月4日、ロード・アイランドは夏休みリゾート気分満開だっただろうな。ここでの演奏はマイルス・デイビスのドイツでの1956年の録音とカップリングで1994年に発売されている「Miles Davis / Stan Getz ‎– Tune Up」。YouTubeでも聴けるので聴いてみましょう。音は残念ながら良いとは言えないけれど、25歳のスコッティの溌剌としたプレイが聴ける。ピアノはスティーブ・キューン、ドラムスはロイ・ヘインズ。

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スコッティはBaubles, Bangles and BeadsとWildwoodそれぞれでソロがフィーチャされAireginでも快調そのもの。

この2曲目でスタン・ゲッツが次の曲は、と紹介しているのは確かに「Alec Wilder のWhere do you goです」と言っているけれど、演奏されているのはジジ・グライスの名曲Wildwoodなのです。この辺のことを気づいたファンが少し前に話題にしていた。テープを継ぎはぎして作ったライブ音源だからまちがって別のライブのwhere do you goを演奏した際の曲名紹介部分を継いでしまったのではないか、という推定をしている。そうなのかもしれないけど、この世に残ったスコッティの最後の録音の一つだぜ、もうちょっと丁寧にやってくれないかね。

スコッティの人生については2歳下の妹のヘレンHelene LaFaro-Fernandezが2009年に書いた「スコット・ラファロ その生涯と音楽」がていねいに描いており、心を打つ。

上記のスコッティの最後の録音のテープ継ぎはぎミスらしいとされる、Where do you go ならぬWildwoodの本家本元演奏例としては、ジジ・グライスがアレンジ参加のアートファーマー初リーダー作「アート・ファーマー・セプテット」(のちに「ワーク・オブ・アートWORK OF ART」として再発)で聴けます。ちなみにこのアルバムの前半4曲でクインシー・ジョーンズもアレンジ参加している。弱冠20歳。メンバーのほとんどはライオネル・ハンプトンのビッグ・バンドのメンバーだったんだね。クインシーじいさんのほとんど初期のアレンジ作品だね。)このアルバムは初期ハードバップの傑作です。

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