グラミー賞セシル! ベスト・ジャズ・ボーカル・アルバム! それと12歳の神童ジョーイ・アレキサンダー

セシル・マクロリン・サルヴァントがベスト・ジャズ・ボーカル・アルバムをフォー・ワン・トゥー・ラブFor One To Loveで受賞した!前作Woman Childが2014年のグラミーの同部門にノミネートされて今回2回目での受賞。順調だね。これほどの才能に日本のメディアは鈍感だなあ。ウェブを検索しても、ほとんど動きが見えない。なぜなんだろうか。ま、日本のメディアがどうであれ、この人はいずれさらに磨きをかけたボーカリストになるだろうね。

「フォー・ワン・トゥー・ラブ」のジャケットの絵は自分で書いたもの。絵をコンサート移動の間の息抜き(evacuationと表現しているから、文字通りの意味は「容器などを空にすること」「排出」。頭にたまったイメージを排出する、という感じだね。)に行っている。

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今回のグラミーの2部門にノミネートされたインドネシア・バリ島生まれの神童ジャズピアニスト、ジョーイ・アレキサンダー(Joey Alexander)もセンセーションだった。どちらも受賞には至らなかったけれど、ベスト・インプロバイズド・ジャズ・ソロはジャイアント・ステップスGiant Steps(いうまでもなくコルトレーンの)、ベスト・ジャズ・インストルメンタル・アルバムはこの曲を含むマイ・フェイヴァリット・シングズMy Favorite Things。YouTube音源があるから見て聴いてください。カウンターメロディもハーモニーもモチーフ展開もインタープレイもリハーモニゼーションもタイムもフレージングもぜーんぶある。この年でこの全部ができているのは神様からの贈り物だ、と言っているコメントがある。元祖ジャイアント・ステップスのピアノは30歳のときのトミー・フラナガン、別テイクのシダー・ウォルトンだって26歳だよ。聴いたらわかるけれど、たしかに驚異!ベースソロに渡す前の6分30秒から~7分10秒までのソロの充実、4小節交換のアイディアの多様性、うーんすごいぞ。演奏後のニカニカ笑顔がまた可愛いですぞ。この男の子(としか言えないよね)はこれからどんなことになるのだろうか。

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祝グラミー賞3部門受賞!                       アラバマ・シェイクス            Alabama Shakes

この時期に毎年選出されるグラミー賞。「レコード・オブ・ザ・イヤー」から始まって各音楽ジャンル(これがかなり細かい。ルーツ・ミュージックとか、アメリカーナとかアメリカン・ルーツ・ソングとか)と映画、音楽ビデオなんかも含め83ものカテゴリーがあるからとても幅広いものなんだけど、アメリカーナもそうだけど、なじみがなくどういう定義かよくわからないカテゴリーもたくさんある。小澤征爾がオペラ録音部門で『ラヴェル:歌劇《こどもと魔法》』がノミネート8回目で、かつ今まではすべて海外での録音だったが、今回はサイトウ・キネン・フェスティバル松本(2015年にセイジ・オザワ松本フェスティバルに改称)でのまつもと市民芸術館での日本発の録音で初の受賞。食道がんの手術から復帰してすぐの公演だったし、長年地元を挙げて小澤征爾とサイトウ・キネンをサポートしてきた松本市や周辺のみなさんは特に感慨深いものがあるだろうね。小澤征爾が約30年も音楽監督をつとめてきたボストン交響楽団がレジデント・オーケストラのタングルウッド音楽祭のように、松本がジャズ・ポピュラー音楽を含めて広く音楽に親しむことができる音楽の祝祭空間の土地になってほしいね。アメリカのニューイングランド(ニューヨークから北東の各州)の夏の風物詩になっているよね。

本題に戻ろう。

ベスト・ロック・パフォーマンス及びベスト・ロック・ソングでアラバマ・シェイクスAlabama ShakesのDon’t Wanna Fight(ブリちゃーん、最高!)。ベスト・オルタナティブ・ミュージック・アルバムはこの曲を含むサウンド&カラーSound & Colorが受賞。2012年10月にアラバマ州タスカルーサでニール・ヤングが40年ぶりという公演をした際の前座を務めたことをニュースで知って、おお、面白いやつらだなと思っていて(その直前の8月にニール・ヤングはクレージー・ホースとのしばらくぶりのツアーのこけら落としをコロラド州デンバーで行った際の前座にアラバマ・シェイクスをピックし、この時は3回目だったのは後で知った)、ファーストアルバムをアマゾンで仕入れ、はまっていて、直後の2013年1月の初来日のときに恵比寿のリキッドルームに聴きに行って大満足だった。祝グラミー3部門受賞!

Don’t Wanna Fightの音源は著作権上YouTubeでは見られない(アップしては削除されての繰り返し)からこれをみてください。

タスカルーサって街はアラバマがフランス・スペインの領土からアメリカの州になってしばらく州都だった、由緒正しいところ。現在のアメリカ50州は買収(ルイジアナ州とアラスカ州)や戦争の結果やらでだんだん現在の姿になったもの。アラスカとハワイはつい半世紀前の1959年に正式に州になった。で、タスカルーサにはJVC(日本ビクター)の磁気ディスクの工場があったよな、たしか・・・と調べたら2年前に売却して今は現地資本になっている。80年代後半にジャパン・アズ・ナンバーワンとおだてられた日本企業が我先に生産拠点を「労賃の安く、労組問題もない」南部諸州に置くということで、当時ゼネコンの米国法人に勤務していたこのぼくも、アトランタ、メンフィス、チャタヌーガあたりに仕事に行っていたのでした。各州の経済開発部門が日本企業に対して誘致活動をしていたのでそういうツアーにも参加させてもらって視察をさせてもらったこともある。アラバマ州の北のテネシー州は視察もあり実際にプロジェクトも受注したので、5、6回は出張し、パパブッシュ大統領時代の小泉首相のプレスリー詣でで有名になった旧プレスリー邸グレースランドにも行ったし、140年前から続くと言われている「カモの行進」で有名な老舗ホテルThe Peabodyにも泊まったし、週末にメンフィスからミシシッピ州ジャクソンまでドライブしてディープサウスの雰囲気を味わったりしていた。このあたりの南部はドライ・カウンティ(酒類の購入が曜日・場所で制限されている郡)があり、特に日曜の販売は禁止)が結構あるので、外で買ってホテルの冷蔵庫に入れてテレビの野球中継を見ながら飲むという、普通の欧州の都市(プラス、アメリカのニューヨークや西海岸の都市)でできることができなかったなあ。そういうときに限って、なおさら飲みたくなるんだよねビールは。ポテトチップスで。体に悪いけど。

Peabody Ducks(ピーボディ・ホテルの名物カモの行進)

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また、思い出しちゃったけれど、ビクターはアラバマ、今は亡き三洋電機はアーカンソー州だったなあ。ビル・クリントンが州知事だった時代に、三洋がそもそもの進出のきっかけとなったシアーズブランドのテレビ製造(相手先ブランドによるOEM生産)についてシアーズから取引を切られるということになりアーカンソー東部の工場の閉鎖を検討していた際に、クリントン州知事がアーカンソー生まれの成長小売業者ウォルマートを紹介し、三洋はその後のウォルマートの急成長に乗ってSanyoブランドのテレビやVCRを拡販できた。Sanyoはぼくが住んでいた時代のアメリカでは人気だったな。昔話でした。

なお、タスカルーサにはメルセデス・ベンツの工場があって、生産規模を拡大していて2016年も13億ドルの投資をすると伝えられているから南部での自動車生産の一大拠点になるんだろうね。

一ノ関ベイシー               スイフティ菅原さん

カウント・ベイシーにからんだ話になったから、ベイシーとくれば・・・それはもう・・・ジャズ喫茶とオーディオの世界では神殿級になった一ノ関のベイシー。もう10年くらい前に、ぼくは別に「お参り」するようなポジションにもないから単にふらっと田舎に行く際に立ち寄ったわけだけど、たまたま3人の「お参り」していたおじいさんたちが帰っていって、客はぼくだけになったので、素人風にビル・エバンスのワルツ・フォー・デビーをリクエストしたら快くかけてくださって、JBLの能率100デシベルの2220BウーファーなどのシステムでフルA面を堪能し、ぽつりぽつりとお話しをしていたら、スイフティ菅原さんの実家がぼくの実家の隣町で、菅原さんのお爺さんが地元の高名な教育者で、尋常小学校の教師だったぼくの祖母もその方のことを話していたことがあったので、世間は狭いということがわかり楽しい時間を過ごしたのだった。

ベイシーはジャズ・ミュージシャンにとっても当然別格でワン・アンド・オンリーの存在。今年83歳になったナベサダが小さいクラブで演奏するのはまずないのだけれど、ベイシーでは定期的に演奏している。2004年のベイシーでのライブ録音盤ベイシーズ・アット・ナイトBASIE’S AT NIGHTはいいですね。ジャケットに菅原さんがナベサダと「出会った」(ジャズ・レコードには<リーダーの誰それミーツ共演者としての誰それ>の「出会った」情景の写真をジャケットにしているものがたくさんあって(マリガン・ミーツ・モンク、ファーマー・メット・グライスなんか有名どころだよね)みんな結構おもしろいのだけど、早稲田ハイソサエティ・オーケストラのドラムだった菅原さんは現時点ではクラブ・オーナーとしての立場であって、ナベサダの共演者ではない、しかし音響へのこだわりやジャズへの愛やいろんなものを含めた特別な存在のクラブ・オーナーと「共演する」、という気持ちが表されていて心温まるものがある。

アニタ・オデイのベイシーライブ盤(1978年7月2日録音)もおすすめです。半月くらい前の6月15日に吉祥寺のサムタイムで同じジョン・プールトリオのバックで演奏した録音があるけれど、ベイシーの録音はアニタもおしゃべり炸裂でノリノリ。菅原さんはアニタをベイシーでのライブの前に石巻に連れていき、熱烈なファンとの出会いとか、ライブ前の練習用のピアノを(本人にはわざわざそうしていることなど知らせず)急きょ仙台からそのファンの自宅へ搬送したり心づくしの対応をして、上機嫌でライブに臨めた結果のゴキゲンのプレイになっている。5曲目のキャンドルライト・アンド・ワインCandlelight & Wineなんかバーなんかでうまく歌える歌手ならとってもイイ感じで。アルフレッド・ハーンドAlfred Harned (1903-1994)という作曲家・アレンジャーでボードビルショーのツアーにも参加していたような人の曲。息子のボブもハワイやフィラデルフィアでミュージシャンをしていた人だけれど親父の楽曲権利の管理会社Pink And Blue Music Publishing Companyを引き継いで経営している。こういう人たちがいるのがアメリカの音楽産業の厚さ広さだよね。

ブルーベック・アンド・ラッシング              ミスター・ファイブ・バイ・ファイブ

デイブ・ブルーベックについてさらに発見。

50年の著作権が切れてパブリック・ドメインになった音源を、まあまあの音質で8枚組クラシック・アルバムにまとめてくれて1枚分の2000円くらいで買えるイギリスのミュージックメロン社のReal Gone Jazzシリーズ。カウント・ベイシー楽団の看板シンガーの一人だったジミー・ラッシングJimmy Rushing(1901~1972)(Mr.5×5ですね。この人は小柄な人でかつ超太っていたので、タテもヨコも5フィートだというので、ミスター・ファイブ・バイ・ファイブというニックネームだったのですが)との「ブルーベック・アンド・ラッシング」(1960)という共演盤があるのは知らなかった。オールド・ベイシー時代(第二次大戦後はニュー・ベイシーと区分するのが普通です)のスウィング全盛時代のヒットBlues in the Darkをやっていて、いいねえ。

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ベイシー時代はこれ

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You can depend on me もゴキゲンなナンバー。これは極め付け名演Count Basie (p), Shad Collins (tp),Lester Young (ts) Freddie Green (g), Walter Page (b), Jo Jones(ds), Jimmy Rushing (voc).

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ベイシー楽団時代の名演を集めたJimmy Rushing with Count Basie and His Orchestra: 1938-1945にも当然入っています。

ジミー・ラッシングとの共演盤の頃のブルーベックはポール・デズメンドではなくミヨーの弟子仲間の盟友ビル・スミス(cl)がパリ音楽院、ローマで音楽の研究をしていた時期にスミスの曲の作品をThe Riddle (1960)、Brubeck a la Mode (1960)とNear Myth(1961)の3枚作っている。最初のThe Riddleは全体として中途半端でバランスが悪い感じだけれど他の2枚はどちらもいい。おすすめです。2枚目は「ア・ラ・モード」に引っ掛けているけれど、モード奏法を取り入れるなど意欲的。ブルーベックは2曲目Bach An’allで対位法フレーズを入れたり、ジョー・モレロがピアノ鍵盤をティンパニで叩いたり、ビル・スミスもミュート・アルトを使ったり、適度にアグレッシブでありかつスイングする。

ミヨーの弟子           デーブ・ブルーベック       Dave Brubeck(1920~2012)  

ダリウス・ミヨーの三題話、じゃなくて「三代話」みたいになったけど、ブルーベックがミヨーの弟子だったことは知っていたので、改めて復習と新しい知識を得ようと思う。4歳で母親からクラシック・ピアノを習ったが、父親を手伝いストックトン(日系人の多い土地ですちなみに。ブルーベックは自分のカリフォルニアの家はかなりオリエンタル風だったと言ってる。)の農場に引っ越し、パシフィック・カレッジに入学し獣医師になろうとしたが、教師がお前は音楽に向いているとして、音楽学部に転部。斜視で目が悪く、楽譜が読めなかったため追い出されそうになるものの、対位法や和声では群を抜いているとした教師の応援もあり、音楽教師にはならないと約束させ(学校側は「スキャンダルを恐れて」ということだけど、ひどいもんだ)1942年に卒業。

カレッジを卒業後、陸軍に入隊、1944年にはパットン将軍率いる北フランス戦線に出征。映画にもなった1944年暮れから1945年正月にかけての米軍主体の連合軍対ナチス国防軍のバルジの戦いですね。現地の赤十字でピアノを弾き、目をかけてくれた上官によって最前線での戦闘を免除してもらう。芸は身を助くだね。前線の軍楽隊で演奏しているころにポール・デズモンドと出会う。

1946年に大学に戻り(例のGIビル(復員兵援護法)で軍隊から復員すると大学などの授業料を国が負担してくれて学べる。ジョン・コルトレーンもこの制度を利用してますね。)オークランドにあるミルズ・カレッジMills Collegeでダリウス・ミヨーについて学ぶ。お兄さんのハワードがミヨーのアシスタントだったこともあっただろうね。(おお、今のミルズ・カレッジの音楽学部教授はロスコー・ミッチェルRoscoe Mitchellだよ!アート・アンサンブル・オブ・シカゴの!)ミルズ・カレッジ卒業後、カル・ジェイダーCal Tjaderとのトリオ、ミルズ・カレッジのミヨー弟子仲間のBill Smithなどで結成したオクテットなどで数年演奏、1951年にポール・デズモンドとカルテットを結成。サンフランシスコのブラック・ホークでの演奏、大学キャンパスでのコンサート(オバーリン大学などが有名です。Jazz at Oberlin)で評価を確立、という流れです。タイム誌の表紙を飾るというのは名声の頂点を象徴するわけだけど、1954年にブルーベックはジャズマンでルイ・アームストロング(1949年)に次いで2人目の栄誉に輝いた。その後ブルーベック・デズモンドのチームで世界的に知られるようになり、中でも変拍子のテイク・ファイブ(5/4拍子、ブルー・ロンド・ア・ラ・ターク(トルコ風のブルーな輪舞曲、ですか)は(9/8拍子)を含むタイムアウトTime Out(1959)はジャズのレコードで初めて百万枚のセールを達成した。

Brubeck_TimeMagazine

ブルーベックの師ミヨーへの感謝と尊敬は、長男にダリウスと名付けたことでも知れるけれども、ミヨーはブルーベックに「ジャズはアメリカの風土に根差した音楽だろう?生涯ジャズを続けなさい」と励まされた。前回のポストで、ミヨーの世界遍歴(といっても基本は欧州・南北アメリカだけど)で自らの音楽を豊かにしたことについて触れたけれど、その土地に根差した心の音楽というのがあるのだ、その音楽に耳を傾けよということを教えた。実際にブルーベックは4枚の「どこそこのジャズによる印象」をレコードにまとめて発表している。選んだ国・地域はU.S.A.、ユーラシア、日本、ニューヨーク。日本には1964年春に来日、その印象をJazz Impressions of Japan(1964)という作品にまとめている。ジャケットがいいね。歌川広重の東海道五拾三次庄野白雨に似た雨の描画だけれどちょっと違うね。誰か知ってたら教えてください。この日本の印象アルバムは2001年にリイシューされるまで長く廃盤になっていた。

オープニング・チューンのトーキョー・トラフィックTokyo Traffic は羽田に到着して警察に先導してもらって都心に向かう道路のクレージーな混雑状況が第一の印象だったとしていて、中国風のドラが使われていたりしてクリシェのところもあるけれど歯切れのいいナンバー。3曲目のフジヤマFujiyamaも印象的なメロディ(レッド・ツェッペリンLed Zeppellin の天国への階段Stairway to Heaven のもとになっているというハナシもあるようだけど。うーん確かにそんな感じもするなあ)。ラストのコト・ソングKoto Songは東京、名古屋の公演後に京都で休んだ際に聴いた「2人のジャパニーズガール」の演奏からインスパイアされたもの。全般にクオリティは高いです。

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hiroshige庄野 白雨
東海道五拾三次庄野白雨(歌川広重)

その後大阪公演を終えて羽田に飛んで数時間のトランジットで香港へ。香港からカリフォルニア・ニューヨーク公演のためにアメリカにとんぼ返り、その後1日2回10日間の英国公演。すごいね。

ミヨーのレクチャー・コンサートを聴いた          Darius Milhaud (1892 ~1974)

恵比寿の日仏会館でたまにやる、作曲家のおさらい的レクチャー・コンサートはその作曲家の研究や演奏の先達が行うこともあり、よく行くイベント。今回は「ダリウス・ミヨーとその音楽の魅力」。音楽評論家の野平多美さんがレクチャー、夫君の野平一郎さんがピアノ、ヴィオラの第一人者川本嘉子さんも参加して、というなかなか豪華なものになった。

1974年にこの世を去ったダリウス・ミヨー。徴兵年齢に達していたフランスの男性の半分が戦死したと言われている、人類始まって以来の災厄となった第一次大戦後に、フランシス・プーランク、ジョルジュ・オーリックなどと印象派に代わる新しいフランス音楽を担う若手「6人組」としてパリの音楽シーンに登場していた。若いころから慕っていた郷里の詩人フランシス・ジャムの計らいで詩人・外交官ポール・クローデルに私淑。(クローデルは大正10(1921)年から約5年は駐日フランス大使。ロダンとの愛が有名なカミーユ・クローデルは4歳上のお姉さん。映画にもなりましたね。)第一次世界大戦下の1917年にはブラジルの文化大使となったクローデルに誘われて秘書としてブラジルに同行。フランスへの帰途の途中にニューヨークのハーレムでジャズも聴いている。このときの経験が、対位法、西欧中世のポリトーナル(多調)の基盤に加え、ミヨーの音楽にブラジルの音楽(ブラジルのショパンと言われるナザレーの演奏に触発され、ショーロやタンゴの旋律を引用して作った「ブラジルの憂愁」やアメリカのジャズ(アルトサックスのソロを室内楽の編成でジャズオーケストラの作品とし、パリの1923年の初演時には大酷評(!)された「世界の創造」)と彩りとリズムを与えた。1923年のパリはまだジャズが輸入された直後だったから先進的過ぎたんだろうね。

ミヨーは南仏の自然を愛し、気持ちの優しい、誠実で誰にでも穏やかに接する人間だったといわれている。2008年に105歳で大往生を遂げた奥さんのマドレーヌはいとこだったため(結婚前も結婚後もマドレーヌ・ミヨー!)、ミヨーが子供のときからのいろんなエピソードを残してくれている(注)。ミヨーの生家はアーモンドの輸入業者で、家は出入りする運送業者や商人たち、車や機械のいろんな「豊かな音」に満ちていたこと。ユダヤ人だったミヨーがナチス・ドイツの危険から逃れるためにリスボン経由アメリカに逃れたときも、入国ヴィザにおける制限事項として財産を持って入国してはいけないという条件を「文字通り」に理解し一文無しの状態でニューヨークに渡ったため、翌日から音楽を演奏するなどして移動資金を手に入れなければならなかったこと。西海岸までレンタカーしてトンデモ珍道中だったこと、など。それでも誰にでも好かれる性格も幸いしてか、西海岸のミルズ・カレッジでの教師の職を友人が見つけてくれて、第二次大戦終結の1946年に帰国しパリ音楽院の作曲家教授に就任してからもミルズ・カレッジでの教授を継続しデイブ・ブルーベックやバート・バカラックら多くのアメリカ人作曲家・ミュージシャンを育てた。

2014年に没後40周年を記念して、ダリウス・ミヨー没後40年記念ボックス(10CD)が発売となって、お得にいろんな作品に接することができる。野平・川本デュオの熱演は素晴らしいものだったので多くの人とシェアできないのは残念だけれど、当日の演目「第2ソナタ」と「4つの顔」(このアルメニア人のホブハニシアンの演奏もいいね。最初のLa CalifornienneとラストのLa Parisienneが特に素晴らしい)、それとこれもぼくの好きな「ブラジルの憂愁」(サウダージ!です)を、YouTube音源から。「ブラジルの憂愁」のブラトキは子供の時からの先天的な病気で白内障となりそのハンディを公にしないで若い頃から世界各地で演奏していたが、44歳で手術が成功して視力を回復した、という人。

「ブラジルの郷愁」Saudade do Brasil Op.67(1920) Marcelo Bratke(p)

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「第2ソナタ」ヴィオラとピアノのためのOp.244 (1944)Tomas Tichauer(vla), Barbara Civita(p)

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「4つの顔」Op.238 (1943) Gor Hovhannisyan(vla), Gary Kirkpatrick(p)

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(注)Conversations With Madeleine Milhaud: Roger Nichols (1996)。この本の6年後の102歳(!)のときのインタビュー映像もあるので、興味がある方はどうぞ。これ。

セシル・マクロリン・サルヴァント           Cecil McLorin Salvant

このバレンタイン・デー・ウィークエンドにニューヨークのリンカーンセンターで公演していたセシル・マクロリン・サルヴァント。1989年マイアミ生まれ。8歳でマイアミ合唱協会で歌い始め、2007年には法律を学ぶためにフランスのエクサンプロバンスに移るが、同時にミヨー音楽院にも顔を出してジャズも勉強して、あれよあれよという間に2010年、最近はジャズ・ミュージシャンの登竜門として確立した感のあるセロニアス・モンク・コンペティションで優勝。父はハイチ人の医師、母はグアドループ出身のフランス系混血。

3年くらい前のニューヨーク・タイムズ紙にセシルの紹介記事があったのでおさらいしてみた。昨年の最新作「フォー・ワン・トゥ・ラヴ」For One to Love発表後のユニオン・スクウェアのJazz Standardでのギグ(8月末)の批評記事も併せて参考にした。誰が彼女の才能を見つけたのか興味があるし。両親の祖国とマイアミという環境はいわゆるジャズの伝統的COEであるニューヨークとも現在の欧州COEのイタリアでも北欧でもない。クレオール的なもの(混血志向)があるのかなというカン。

ミヨー音楽院のジャズ教師のジャン・フランソワ・ボネル(sax.cl)になんか歌ってみろと言われ、Body and Soul を披露したところ、ボネルが彼女の才能を見抜いた。サラ・ボーンのBrazilian Romanceは母親が家でかけていたため諳んじていたけれども他の先人たち、ビリー・ホリディもエラもベッシー・スミスも知らなかったため、先生はこうした先人たちの音楽を教え込み、4か月後には地元 エクサンプロバンスで最初のギグ。

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彼女のマネジメントを行っているエド・アレンデルという人が、顧客は他にウイントン・マーサリスだけだ、というのが弱冠26歳だというセシルのすごさを物語る。マネジメントを行う人=マネジャーなんだけれど、マネジメントの巧拙(プラス運もあるが)でミュージシャンもアーチストもせっかくの才能を発揮できないまま埋もれてしまうことも多いだろうし。

ニューヨーク・タイムズ前述記事は、「音楽的才能がある若いミュージシャンの成長の尺度はものまねをいかに抑えられるかという点にあって、サラ・ボーンのように、ビリー・ホリディのように歌えることに全く問題はないのだが、彼女の他のミュージシャンと違うところは、まったく別の路線からジャズに来ていること。昨年の最高の音楽は英国のジョージ・ベンジャミンの歌劇Written on Skinリトゥン・オン・スキンだという。」(このオペラは2012年エクサンプロバンス音楽祭で初演され全欧で評判となったもの。従来のオペラの境界を拡大した意欲作とされている。)ははーん、やっぱりね。

上記最新作を聞いてみる。あ、サラ・ボーン、お、ビリー・ホリディという瞬間瞬間があるけれども、そのうちそれだけではない力強いもの、たおやかなもの、いろんな表現が一つ一つ軽々と広々とデリバーされているのかな。ニューヨーク・タイムズのshe’s too good not to get better.という評価がまったく妥当なものだということがわかる。ダリウス・ミヨー、フランシス・ジャムを生んだエクサンプロバンスの開放性と、自分のハイチ、グアドループというクレオールの(カリビアンにはコロンブスの新大陸「発見」当時からの歴史的背景から現在でも英、仏、蘭などの海外県・領土があり、住んでいる人たちはこうしたフランス人やオランダ人と現地人(現地人自体がアフリカや他のカリビアン諸国から連れて来られた人たちとの混血)との混血なので初めから、いろいろなものを「混血」していくことに慣れているのか。最新作でもう一つうれしい驚きはバルバラ(1930~1997)の名曲Le Mal de Vivreを歌っていること。

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この名曲は、大学で仏文を勉強したフランコフォル・アメリカンのステーシー・ケントも全曲フランス語のアルバムRaconte-Moi(2010)に収録。

セシルはまだ27歳。すでにすごいけれども、これからさらにどんなすごさを身に着けていくのかなこのシンガーは。

大館ミントンハウス      ファン交流       弘前大学フランコフォニーの親分さん

ミントンハウスのファンつながり。

弘前大学の人文学部准教授でフランス語教師をしつつ、りんごつながりでブルターニュのシードルづくりの人たちとつながりなどの中心的役割を果たしている熊野真規子さんのことを聞いたので、ファンレターを出した。ぼくもフランスにはお世話になっているクチなので(アンドレ・ブルトンを中心とする、第一次世界大戦における人間同士の殺戮に対する絶望から生まれた運動としてのシュールレアリスムを勉強していたので。師匠はプルースト研究者だが。)、かつ日本では文科省が「文系」(いまどき「文系vs理系」などというガラパゴス世界観は日本くらいじゃないのかな?)学部は「経済成長に役に立たない」から「基本的に廃止せよ」とのお達しを出している昨今、かつ日本ではアメリカ経由の世界観リスク観しか大メディアでは報じられないため、自ら積極的に欧州などのメディアをきっちり見聞きしておかないと、いつか来た道になると思っている。日本で垂れ流されている情報(特に地上波TVの言説・グルメ・お笑い関係の情報は)はそもそも一億総○○にするためのものであるのは言うまでもないと思うので、相手にしてはいけない、マジで。

フランコフォニーFrancophonie(世界中の様々な文化圏に属する、民主主義や人権といった普遍的な価値観とフランス語とを共有すること)を手段として、気づきやつながりを創造していっている人たちへエールを送りたいなあ。

弘前の伝統もある(太宰も、ハイカラ好きも、フレンチ・レストランが異様に多い街であることも、そして世界に冠たるリンゴも)。目の付け所は良かったね、だけで終わらせてはもったいないね。イノベーションをおこそう。

「皆さんが見つけた、弘前にあるフランスに関わりあるものや人を教えて下さい」という取り組みも、イノベーションにつながるね。Allez!

大館ミントンハウス   佐東画伯       兼マスター兼オーナー

昨年11月のパリのテロ事件の直後にミントンに行ったときに、マスターの佐東さんと、ふとしたことでパリの話になった。ぼくもパリは出張含めて何回行っているのかな、5回か。サン・ドニ近辺でのテロだったから、昔からイスラム系の人たちが多い物騒な地区ではあったし、佐東さんもちょうどパリに行っていたことは知っていたので、大丈夫でしたかと聞いたところ、作品をサロンに出展したので行っていたのだとのこと。もう何年も入選作を出展している常連なのだ。今年はニューヨークにも進出するとおっしゃっている。ぼくもニューヨークは7月ごろに行こうかと企んでいるところ。

佐東さんのサロン出展作品をいくつか紹介。どれも鮮烈な水彩=Water Colorだ。

M.Akira SATO_Salon D'automne 2012M.Akira SATO_Salon D'automne 2013 M.Akira SATO_Salon D'automne 2015

 

 

デクスター・ゴードン    最後の映画「レナードの朝Awakenings(1990)」つながりで         ランディ・ニューマン   

デックスの死後公開された最後の映画は、嗜眠性脳炎患者にパーキンソン病要の薬を応用して目覚めさせる実際の試みを医療フィクションものに仕立てた「レナードの朝」で、役はミュージシャンのロランド。医師役はロビン・ウィリアムズ(注)で、ランディ・ニューマンが音楽担当。病院に父親を見舞いに来ていたポーラが好きになり、レナードが勇気を出してポーラに心のうちを打ち明け、彼女の手を取ってダンスをするシーンで流れるDexter’s Tune という死ぬほど美しい曲がある。これはランディ・ニューマンのソングブックvol 1のオープナーIt’s Lonely At The Topのイントロとして使われているけど。

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ランディ・ニューマン(1943~)はLA生まれのシンガー・ソングライター。70年代からイーグルズ、ジャクソン・ブラウンらと親交がある、この人もミュージシャンズ・ミュージシャン。最近は一家の伝統芸?(伯父、叔父が映画音楽の大作曲家)である映画音楽中心に活動していて、トイ・ストーリーの「君はともだち」なんかも文句なしの名作。

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ぼくは1980年にBorn Again(カバーが目がグリーン$$のいで立ちのランド(と仲間内では呼ばれるので、ぼくもそう呼ばせていただくとして)がバンクランプのあるデスクで執務している。デスクに飾ってある家族の写真にも妻・子供2人全員の目がグリーン$$になっている!)を買って、しょっぱなのMoney That I Loveの強烈なアイロニーにまず参り、Ghostsの静謐で美しい虚無に参り、以来ずっとファン。

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映画音楽というのは、視覚と聴覚と記憶と想像力を、刺激するものなのだろうし、そういう視点でランドはものすごくエモーショナルな作品を作る天才。彼のウィットが聴いた皮肉は英国人にはさらに受けると見えて結構英国に仕事に行っていて、2008年のツアーでロンドン東部にあるロンドン交響楽団のセント・ルークス(18世紀の教会を音楽ホールに改装)で行われたLive in Londonでもお客さんを大いに笑わせている。このスモールライブでも演奏したが、The Guardian 紙の日曜版Observerの企画How I Wrote(「名作のいきさつ」シリーズでしょうか)に呼ばれて夜行便で会場に着き、あー声がガラガラだよ、よれよれの表情だよなー、などといらついて、メーク担当に頬紅塗ってよ、まだ昼前だから雰囲気でないな、シャブはないの?などと回りを大笑いさせて、ピアノに向かって、この曲。ランドの腫瘍内科医の弟アランAlanから23歳のアメフトのスターが脳腫瘍で治療の甲斐なくあっという間に天に召されたことを聞いて作った曲なんだって。人はある年齢になってからは乗り越えられない悲しみというのがあるって、演奏前に話しかけます。泣けます。

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(注)2014年にうつ病で自死したと報道されていたが、つい3か月くらい前に夫人のスーザンさんが、うつ病が主原因ではなくレビー小体型認知症への闘いの結果の自死だと明かした。この映画とロビンの死に因縁めいたものを感じる。