50年くらい親しんできた音楽/ジャズとカナダ・アメリカフォーク系

音楽はかれこれ50年ぐらい親しんできた。ポピュラー音楽のこの50年の発展・変遷は著しいものがある。51年前の1964年にぼくは小学校2年生。東京オリンピックが10月で、三波春夫の「オリンピックの顔と顔、それトトントトトント」(東京五輪音頭)とやっていた同じ年に、マイルス・デイビス 、(マイルスコンボの一員として)ハービー・ハンコック、ウイントン・ケリー、デイブ・ブルーベック、デューク・エリントンなど錚々たるミュージシャンたちが初来日している。この賑やかさは驚き。

戦後の日本人にとっては、ジャズが身近になった背景にはいくつかの理由があるだろう。まず第一に安価に家庭でFEN(極東の米軍放送)が流す最新ジャズを聴ける環境があったこと。ぼくの田舎は山に囲まれていたけれど夜は810MHzが聞こえた。横須賀を中心に関東では日本人と進駐軍のミュージシャン(その後西海岸で活躍するハンプトン・ホーズが有名。当時の日本人たちはHawesをホースと聞いて、馬さんというニックネームで呼んでたそうです。)同士の交流がその後の秋吉敏子や渡辺貞夫などのモダンジャズ先駆者を生み出す土台となった。ちなみにいわゆるビートルズなどのBritish Invasion後一変したロックの分野ではモダンジャズにしばらく遅れて1972年頃からミュージシャンの来日が増えてきている。日本初のロック・プロモーターとしてUDOが設立されたのが1972年。札幌オリンピックの年だね。トワ・エ・モワの「虹と雪のバラード」です。札幌オリンピック後の春に高校入学してほどなくしてから狂っていたニール・ヤング初来日が1976年3月10日(武道館!行きました!)。この辺の「カナダ&アメリカ・フォークミュージック」に由来するミュージシャンたち」はジャズと共にずっとぼくの音楽人生の重要な位置を占めてきて、今ではみんな大御所になっているので、このブログでもちょっとずつ書いていきます。

今年の山楽レビューと来年のプラン:南ア椹島までの狭隘クネクネ県道について

年末年始は何事についても今年のレビューと来年どうするか、ということを考えるタイミング。今年の山楽については(1)北海道の200名山が完了できたこと、(2)白樺荘ベースで大無間山と椹島ベースで笊ヶ岳をそれぞれ日帰り、合計3泊で完了できたことがアチーブメントだったかな、と思っています。とくに大無間山を崩壊著しい鋸歯尾根を使わずに北東尾根利用で(webに情報を掲示してくださった皆様に感謝)行くことができたことはうれしい。だって単独行だし、ルート自体に物理的リスクが高いものをわざわざ選択したくないから。反省点としてはルート確認が難しい場合に利用しているガーミンGPS(日本正規代理店のものはバカ高いので米国出張時に買った英語版OREGON 450を日本語化)が、畑薙第二発電所からの送電線がGPS電波を干渉して、数十メートルルート誤差を生じさせていたため、第二鉄塔からうろうろした挙句、明神橋そばの送電鉄塔巡視路取付きに降りるルートを外してしまい、ルートを探しあてるまで45度くらいの急傾斜のザレをヒーヒー上り返すはめに。高電圧の送電線の場合GPSは狂うことがあるので、視界が利かない時は特に注意しなければならないと思います。

小無間北東尾根1805Mピーク
小無間北東尾根1805Mピーク

来年は残雪期オンリーの北陸の笈ケ岳と毛勝山(最近は夏道で12時間コースもあるようだけど標高差1600メートルはうーんキツイ。大無間も同じくらいだけど。)をゴールデンウィークあたりに完了して、あとは奥大日岳、雪倉岳の北アルプス2峰、上河内岳、池口岳の南アルプス+深南部各1つで200名山完了。

ところで、南アは存在感のあるいい山が多いのは魅力だけれど、椹島までのアプローチが嫌いだよホントに。まだ、長野側の易老渡の方が個人的には好きだなあ。易老渡も何年か前の台風豪雨の復旧作業員の方に死者が出たり、路肩が崩壊したりしてよく通行止めになっていたけど。いずれにしても体を楽にしてかつ時間と行動の自由を確保したいからレンタカーしていくのが最近のパターンで、井川湖御幸線(県道27号)は狭隘クネクネが延々と続く路線で3年前の聖・赤石・荒川三山縦走のアプローチのときに夜かつ雨模様のときに走行することになってホトホト死ぬ思いをしたので、今年は同じく狭隘でも路線バスも走っている県道189号線(三ツ峰落合線)の方がまだいいかと(でも山越え峠道でこちら側がガケになっている場面で対向車線にダンプが急に見通しの悪いカーブから出てきたり!ギエー!)。でも地元ではおばちゃんもこの狭隘クネクネ道路を平均60キロで走っているので驚異。慣れるものなんだろうな。