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ヘルシンキでニューオーリンズ気分

1週間ほどヘルシンキに行ってきた。日本とは国交100年というめでたい年、秋篠宮ご夫妻の訪問の3日位後だったが、別にこれは偶然。北極圏にすぐのところにあるサヴォリンナの15世紀の古城でオペラも観劇したし、途中の道端で野生のブルーベリーも摘んで食べたし、もちろんジャズも楽しめた。
夏の長い夜は、中央駅から歩いて10分くらいのStoryville にてSpirit of New Orleans(SONO)というグループを聴いた。ニューオーリンズ出身のトランペット奏者リロイ・ジョーンズをフィーチャー。このグループではトランペットとボーカルも提供。90年代はハリー・コニックのビッグバンドなどで活躍していたが、ルイ・アームストロングなどニューオーリンズの伝統に根差したジャズを展開している人。
SONOのリーダーはカチャ・トイボラ、フィンランドのトロンボーン奏者。1975年生まれのフィンランド人です。彼女はニューオーリンズ・プリザベーション・ホールで定期的にプレーする最初の女性管楽器奏者と言われている。トラッドなジャズに興味をそそられ、彼女は1990年代からニューオーリンズを度々訪問し、そしてリロイ・ジョーンズと結婚。

ストーリーヴィルのSpirit of New Orleans

2005年にハリケーン・カトリーナがニューオーリンズを襲ったとき、多くのミュージシャンがそうだったように、彼らも厳しい状況が続いたが、徐々に活動を広げていき、SONOとして、そしてニューオーリンズヘルシンキコネクション(NOHC)というユニットとして、カチャの故郷であるヘルシンキで年に数回、そして海外でも(ニュージーランドなど)公演をしている。
肌寒い夏の夕べだったけれど、なかなかのグルーヴイーな演奏で、良かった良かった。なかでも、ピアノの女性がタッチが良く、只者ではないなと思い、ファースト・セットが終わったところで、リーダーのカチャにインタビュー。Digerius のおすすめ10枚にしっかり入っているリータ・パーキだった。最初の1曲でファンになってしまった。

カチャに君たちのグループのお薦めCDを教えてよと言ったら、日本から来たと言ってあったこともあり、2枚のCDを在庫の入っている箱から出してきた。1枚はピアノの渡辺真理さん参加の「マホガニー・ホール・ストンプ」。 究極のCDのタイトル。 これはルイ・アームストロングの最も人気のある曲の一つ。 1929年に大恐慌の年の録音。 エイント・ノーバディーズ・ビジネスAin’t Nobody’s Business(1956年のカーネギー・ホール・コンサートでビリー・ホリデイが歌ったもの)、セント・ルイス・ブルースなどスーパー・クラシックも入っている。 もう一つは、ユニットNOHCによる「パラダイス・オン・アース」。 尾崎ノブがベースで参加。 アルバム・タイトルでオープニング・チューンのパラダイス・オン・アースはカチャのペンによるとっても素敵な心温まる一曲。

渡辺真理は早稲田大学ニューオルリンズ・ジャズ・クラブ出身で、1985年にニューオーリンズに移住し、以来現地で人気を博している。現在Chosen Few Jazz Bandチョウズン・フュー・ジャズバンドのリーダー(「選ばれた数少ない」っていうバンド名はすごいね)。
ニューオーリンズの音楽はとにかく深くて広い。ジャズバンドはまた、ブラスバンド(ダーティ・ダズン・ブラスバンドがすぐに頭に浮かぶ)、マルディグラ・インディアン音楽(現在はニューオーリンズ・ファンクとして知られている。ミーターズが代表的)、プロフェッサー・ロングヘア、アラン・トゥーサント、イギリス生まれのジョン・クリアリーなどのニューオーリンズ・スタイルのピアノ。ニューオーリンズ・ファンクはあんまり知らないが、他の分野はそこそこ聞いている。でもぼく的には、長年の興味はニューオーリンズで子供時代を過ごしたランディ・ニューマンかな。ルイジアナ1927、ニューオーリンズが戦争に勝利する、などの曲。
トラッド・ジャズ(ディキシーランド・ジャズやニューオーリンズ・ジャズを含む総称)では、1960年代からの日本の先駆者、例えば外山喜雄・恵子夫妻はトラッド・ジャズを学び演奏するために“移民船”でニューオーリンズに行っている。トラッド・ジャズのハートとソウルのある本場に学びに行き、地域や音楽に慣れるという伝統があるようだ。外山のような先導者たちの努力と彼らの音楽に対する愛情は、地元のプリザベーション・ホールの関係の人々との信頼の輪につながっているのだろう。なにしろ、外山夫妻はほどなくジョージ・ルイスやキッド・トーマスと一緒に演奏していたのだから。この辺の事情は小川隆夫の「言葉で綴る日本のジャズ」に詳しい。

セットリストとメンバーは
1. Undecided
2. Bye Bye Blackbird
3. On Sunny Side of the Street(以下のvideoは許可取得済。アップロードの制限等技術的問題をクリアしようとしてますが、現状では不鮮明なのでお許しを)
4. Ain’t Gonna Give Nobody None of My Jelly Roll
5. Georgia on my mind
6. It’s Only a Shanty in Old Shanty Town
Katja Toivola (tb)、Leroy Jones(tp, vo)、Riitta Paaki(p), Teemu Keranen(b), Mikko Hassinen(ds)
Storyville, Helsinki, July 13, 2019

Feeling Groovy New Orleans at Storyville in Helsinki

Went to Finland for about a week. I also had a chance to see an opera in the 15th century castle up north, pick and eat blueberries along the wayside, and of course enjoy jazz.
One of long summer nights in Helsinki, I found a performance featuring Leroy Jones, by a group called Spirit of New Orleans (SONO) at Storyville, about a 10-minute walk from Central Station. Leroy Jones is a trumpet player from New Orleans. In the 90’s, he worked in a big band such as Harry Connick’s, and developed a jazz rooted in New Orleans tradition such as Louis Armstrong’s. He also provides vocal in this group. The SONO’s leader is Katja Toivola, a Finnish trombonist born in 1975. She is the first female wind instrument player to play regularly in the New Orleans Preservation Hall. Intrigued by traditional jazz, she frequently visited New Orleans since the 1990s and married to Leroy Jones.
When Hurricane Katrina hit New Orleans in 2005, as many of the musicians did, they had tough time, but then they gradually expanded their activities as SONO, and as a unit called New Orleans Helsinki Connection (NOHC). They have been performing in Helsinki several times a year, and abroad (such as New Zealand).
It was a rather chilly summer evening, and the electric heater hanging on the table was on.

The group delivers all groovy tunes but above all, the woman at the piano has a very good touch, solid and lyric and I interviewed the leader Katja at the end of the set. This piano is Riita Paaki. No wonder her RPT(riitta paakki trio) album are one of 10 picks I got from the Bearded Man recommendation of the jazz and world music record shop Digerius. I fell in love instantly.
Upon my request of the unit’s recommended picks, knowing that I came from Japan, Katja presented me two CDs, one of which is “Mahogany Hall Stomp” with Mari Watanabe on the piano. The title! This is one of most popular tunes by Louis Armstrong. Recorded in 1929 the year of the Great Depression. Other super classics such as Ain’t Nobody’s Business (which Billie Holiday sang at the Carnegie Hall concert in 1956), St. Louis Blues and more. The other is “Paradise on Earth” by the unit NOHC. Nobu Ozaki is at the bass. The title and opening tune of Paradise on Earth is a lovely heart-warming song by Katja’s pen.

Mari Watanabe is from the New Orleans Jazz Club of Waseda University, moved to New Orleans in 1985, and has been a well-received musician since. She is currently the leader of Chosen Few Jazz Band (the name is awesome).
The music in New Orleans is deep and broad anyway. Music includes a brass band (Dirty Dozen Brass Band comes to mind immediately), Mardi Gras Indian music (now also known as New Orleans funk. The Meters are representative), New Orleans style piano such as Professor Longhair, Alan Toussaint, and British-born John Cleary. New Orleans funk I hardly knows, but other fields I have been listening to. My long-time interest is Randy Newman who spent his childhood in New Orleans. He has great tunes such as Louisiana 1927, New Orleans Wins the War, and so on.
In Trad Jazz (a generic term including Dixieland Jazz and New Orleans Jazz), Japanese predecessors from the 1960s, for example, Yoshio and Keiko Toyama went to New Orleans on a “migrant ship”, to study and play Trad Jazz music. It seems that there is a tradition of going to learn and getting familiar with the area and music. The efforts of predecessors like Toyama’s and their love for music are linked to a growing circle of trust with local musicians and people who love Preservation Hall and its culture and history. They played with George Lewis and Kid Thomas. These little but impressive episodes of the Toyama’s are found Takao Ogawa’s ” Jazz in Japan as Witnessed by Great Predecessors “.

Set list
1. Undecided
2. Bye Bye Blackbird
3. On Sunny Side of the Street (videos shown below under permission:video quality is low at the moment because of technical issues, which I am still working on.)
4. Ain’t Gonna Give Nobody None of My Jelly Roll
5. Georgia On My Mind
6. It’s Only a Shanty in Old Shanty Town

Members
Katja Toivola (tb)
Leroy Jones (tp, vo)
Riitta Paakki(p)
Teemu Keranen(b)
Mikko Hassinen(ds)
Storyville, Helsinki, July 13, 2019

2019年になった。今年はウッドストック50周年!We are golden.(2)

1969年8月に開催されたウッドストック・ミュージック・アンド・アート・フェア50周年イベントが開催される。(つづき)


グラミーのウェブサイトでもこのイベントについてカバーしていてそれによれば、現地ニューヨーク州サリバン郡のホテルがどんどん予約で埋まっているんだって。

いろいろ情報をたどってみると、
Bethel Woods Center for the Arts、Live Nation、INVNTが新たな祭典を共同プロデュース」とある。これはINVNTというライブイベントに特化したPRエージェンシーのリリース記事。自社の事業定義を「世界的なライブブランドのストーリーテリング代理店」と称しているところ。ストーリーテリングなわけね・・・ふーん、という感じではある。Live Nationは言わずと知れたハリウッド本社の大手イベントプロモーター・運営会社。

ぼくはニューヨークに住んでいた1980年代後半に、一度跡地を訪問し、いくつかアート・クラフトショップを回ったことがある。当時のレーガン政権時代のアメリカは、日本がいまの中国のように世界市場を席捲していた時代で、日本製品ぶち壊し風景があちこちで事件になっていて、米国経済は不況、このマンハッタンから車で北に2時間ほどの田舎のべセルも眠ったようにとても静かな村だった。

Bethel Woods Center for the Arts(BWCA)というのは知らなかったので調べてみた。ウッドストックが開催されたべセル(Bethel)から20キロほど北に住むユダヤ系ロシア移民の出であるアラン・ジェリー(Alan Gerry、1929年生まれ、うわ!ぼくの父親と同い年)が、自身が創業したケーブルテレビ会社を20年ほど前に大手のタイムワーナーに成功裡に売却、大金持ちになりその後ベンチャー・キャピタル会社を興したり、自分の名を冠した財団を設立などしていたが、1997年に娘のロビンの応援もありこの財団がウッドストックの敷地37エーカーを含む800エーカーの土地を取得。ここに2006年に完成したのがBWCA。こけら落としにニューヨーク・フィルハーモニックとクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSN&Y)が演奏したんだって。NYフィルがNYを代表する交響楽団であるから出演というのはわかるが、CSN&Yにお呼びがかかるのは当たり前だね。いうまでもなくジョニ・ミッチェル作の名曲Woodstockを翌年1970年早々にリリースし、この世にヒッピー文化の一つの頂点としてウッドストックの哲学?を広めたということの立役者だからだね。このWoodstockのラストの拙訳してみました。

By the time we got to Woodstock
ウッドストックに着いたころには
We were half a million strong
私たちは50万人にもなって強く
And everywhere there was song and celebration
どこでも歌と祝賀があり
And I dreamed I saw the bombers
ショットガンに乗って飛んでくる
Riding shotgun in the sky
戦闘機が空に見えた夢を見た
And they were turning into butterflies
そして私たちの国の上で
Above our nation
蝶々に変わっていく

We are stardust
私たちは星屑
Billion year old carbon
何十億年も経った炭素
We are golden
私たちは黄金
Caught in the devil’s bargain
悪魔との取引に捕らわれながらも
And we’ve got to get ourselves
自分を取り戻さなきゃならない
back to the garden
(エデンの)園に戻るのよ

ウッドストック跡地を取得した翌年1998年には、さっそくDay in the Gardenという2日間のフェスティバルを開催。なんとこの初日8月15日にはわが愛するJoni MitchellがHejira でオープンしラストをWoodstockの15曲のステージで参加している。ジョニ自身は別途ウッドストックに出演していないが、出演できなかった強い感情をWoodstockという曲に昇華しているが、CSN&Yが彼女のこの曲をウッドストックで歌ったわけだ。
翌年のウッドストック30周年には日程を4日間に拡大し、29組のアーチストが参加。この時の様子は「Woodstock 1999」というDVDで見られるようだ。シェリル・クロウ、ジャミロクワイなどその後の活躍は衆目の一致するアーチストたちが参加している。シェリル・クロウはウッドストック時は7歳、ジャミロクワイのジェイソン・ケイはウッドストックの4か月後の1969年12月生まれ。

そして、50周年の今年、となるわけだ。1969年はまた、7月にアポロ11号の月面着陸の年。今年になってすぐ中国が月の裏側に無人探査機の着陸を成功させている。時代は変わる。

2019年になった。今年はウッドストック50周年! We are golden.(1)

ニューヨークに住んでいたときに、フリーマーケットで入手したウッドストック・ミュージック・アンド・アート・フェアのポスターです。いわゆるあの、-翌年には「愛と平和と音楽の3日間」という強烈な副題とともに映画にもなった、ジミヘンの星条旗よ永遠なれの-ウッドストック・フェスティバル。色合い、デザインなどヒッピー文化の当時のにおいが充満している。50年前は8月15日金曜日から3日間(雨で遅れて月曜朝まで続いた)、今年8月16から18日の金土日に50周年イベントが開催される。
グラミーのウェブサイトでもこのイベントについてカバーしていてそれによれば、現地ニューヨーク州サリバン郡のホテルがどんどん予約で埋まっているんだって。(今日はここまで)

小川隆夫著「証言で綴る日本のジャズ2」    ショーティ川桐さんに感服!

小川さんの証言シリーズの続編が出たので買って読んだ。本編で聞き足りなかったところを補足した部分(ナベサダや評論家の瀬川昌久さんなど)と本編で取り上げたかった方だけれど、その時点では「消息不明」だった人などを丹念にインタビューした、本編同様に貴重な記録。

ぼくにとっての今回の収穫というか気づきは、なんといってもショーティ川桐(本名:川桐徹)さん。昭和4年生まれで、偶然だがぼくの父親と同い年。1952(昭和27)年4月から55(昭和30)年8月まで、現在の有楽町東京交通会館の土地の一角にあったジャズ喫茶「コンボ」のオーナーだった人だ。当時イースト・コースト(米国東海岸)派のジャズはコンボで、一方の「クール派」のウェスト・コースト(米国西海岸)・ジャズは新橋の「オニックス」でよくかかっていた。イースト・コースト派のビバップ(チャーリー・パーカー、バド・パウエルなど)に傾倒していた守安祥一郎、秋吉敏子、渡辺貞夫や後のクレージー・キャッツのハナ肇が常連だったこと。ハナ肇がこうした常連に呼びかけて、横浜のジャズ・クラブ「モカンボ」でレコーディング・セッションを決行したこと。それが1954年7月という段階での日本の若いジャズ・ミュージシャンたちの極めて高い演奏水準の記録となったこと。「ショーティさんがパウエル好き、というんで守安さんや秋吉さんが(コンボに)来たんでしょうね。(中略)コンボがなかったらその後の日本のジャズはこんなふうにならなかったかもしれません」(本書453ページ、以下同じ。)というのもそのとおりだろう。まだまだレコードは高い時代(10インチLPが出始めたころ。1枚3,500円の価格は大卒初任給の半分くらい。)、ジャズ喫茶が、かつコンボだけが「最新のジャズを聴ける唯一の場所」となっていたのだから。(渡辺貞夫<パート3>、363)

米国のシリコンバレーはマイクロソフト、アップル、グーグルなど破壊的な技術革新をバネに次々と世界的な企業を生み出している。それは、シリコンバレーが人と人とが出会いアイディアを交換し新しいものを作ることができる、そうした「ふれあいの場」となっているからである。同じように、コンボもアメリカの「最先端」のビバップの音を求める若い日本人ミュージシャンのふれあいの場を提供し、日本の新しいジャズのインキュベーターとなったということではないだろうか。

16歳のときに加古川航空通信隊の少年飛行兵として「偵察機に乗って上空で、B29がどの方面から何機来ている、と確認しすぐに打電して逃げる」仕事をしていたショーティさん。8月15日の終戦のラジオ放送も、雑音でほとんど聞こえない中、隊長は「いまの天皇陛下のお言葉は「今度はソ連と戦うことになった。だからもっと奮励努力するように、と言われた」とされ、終戦になったことがわからなかった。負けたということがわかったのは翌日になってからで、その段階でもこの隊長は「天皇陛下に申訳がないからみんな刀で自決しろ」と命令。ここでショーティさんは「こりゃ、まずい。負けちゃったし、戦争も終わったんだからいまごろ腹を切ってもどうしようもない。そんなのにつき合っていられない」と考えて、加古川の駅まで行って貨車に乗り、熊本の実家に「逃げる」行動に出る。

ショーティさんの話で感服した点。

  • 自分の頭で考えて決断し、行動する。

日々物事に対面し、事実に向き合い(戦争には負けた。「隊長の言うことにつき合って」自分が腹を切っても事態が変わるものでもない)、逃亡を決断実行している。これができるためには、ショーティさんには普段から冷静な観察眼をもって自分の仕事と組織を見ていたということだろう。16歳で、だ。本能的な部分もあるにせよ、素晴らしい。

  • 過去にとらわれないこと。これは上記「自分の頭で考える」ことの延長である。

コンボを3年半ほどでクローズし、その後「リーダーズ・ダイジェスト」や外資系の銀行など音楽とは全く異なる業種で活躍した。「お名前はいろんな人の口から出てくるけど、誰も「コンボ」をやめたあとのショーティさんがどうしているのか知らない」(454ページ)状態になっていたところ、著者は何とかショーティさんの弟さんを探し当ててインタビューに成功する。その喜びと日本ジャズ界への貢献についての讃嘆に対しても「違う世界にいましたからねえ。誰もジャズ関係者は訪ねて来なかったですし、わたしのことを知っているひともいなかったでしょうし」と答えている。これも素晴らしい。頓着がない。

たまたま、横尾忠則さんの記事「日本は芸術の「社会的役割」を理解していない」(東洋経済)を見た。「無頓着であることは気まま、わがままに通ずる。他人から好かれるか嫌われるかといえば、嫌われるほうが多い。自己中心的に見えるからだ。思いの丈を自分の絵に塗り込める。その絵は、描き終えたら僕から離れて独り歩きする。そのとき、絵は社会性を持ち、社会的な発言をする。」ショーティさんのコンボも、独り歩きして、社会性を持って発言していたわけだ。

ああ!レナード・コーエンが亡くなった。

この人はもともと詩人から出発しているからボブ・ディランとはまた別の意味で深く広い世界を持っている。先月の最新作、You Want It Darker も買って、さてと・・・このシルヴィー・シモンズによるコーエンの伝記をそろそろ読もうかと思っていた矢先。この数年の元気な姿から、もしかするとこの偉大なミュージシャンの来日が叶うかも、と期待していたんだけど。残念。

参考までにRolling Stone誌の記事はこれ。息子のアダムが発表した声明では「父は、最も偉大なアルバムの一つを完成したという思いを胸に、安らかに旅立ちました」というもの。享年82歳。RIP。冥福をお祈りします。

 

 

ファビオ・ボッタッツォFabio Bottazzo(g)を土村和史(b)のコンボで聞いた。

先週の文化の日はSharp Eleven Tour 2016の一つでアートギャラリーのCoZAの間(港南台)ライブ。ライブ後に今年8月のイタリア中部地震のチャリティ・イベントもやるというので、人生初!の港南台訪問も兼ねて行ってきた。

11-tour-2016

11combo

ファビオはこの数年、都立大だったり柏だったりしたがずっと聞いてきた新潟在住イタリア人ギタリスト。彼のウェブサイトはこれ

今回のツアーのために作った新曲を中心の演奏だったが、メロディセンスがさらに磨かれて、着実に進化している印象。曲名はなっていったかな?エンリコ・ラヴァの曲、ニーノ・ロータを想って書いたRemenbering Nino Rotaもよかった。土村和史と奥さんの木村秀子、ドラムの嘉本信一郎のトリオもぴったり息が合って安心して聴ける。

ファビオはa.s.k という南アフリカ、オランダ、日本のユニットともやっていて、Welcoming The Day: Featuring Fabio Bottazzoというのが2年くらい前の作品。a.s.k.のsは福岡県宮若市の古民家をベースに世界中のミュージシャンとつながって多様な活動をしているSHIKIORIの管理人、ベース奏者松永誠剛Seigo Matsunagaさん。博多と北九州のちょうど真ん中あたりの、いいかんじの田舎。この作品もSHIKIORI RECORDINGSの作品だ。今月末はボボ・ステンソン、年末にはエンリコ・ラヴァなどの公演が予定されていていいねえ。ちょっと遠いけど行ってみたいな。情報はここ

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それで、と。港南台って根岸線の中心的な街なんだね。駅前には高島屋あり、相鉄ローゼンとダイエー(ちょっとシャビーだけど、仕方がないね。往年は買い物客の中心だったんだろうな)あり。Wikiで見ると横浜市の商業販売額では97地域中8位。港南区では上大岡に次いで堂々の2位。根岸線というと、できたばかりの根岸線で君に出会った♪という小田和正の名曲my home town。オフコース時代のドラムの大間ジローさんは高校の2年先輩ですが。確か高校の時はツェッペリンとかのハードロックをやってたなあ。

ライブが終わった後に、有志というか地元の常連さんたちが中心で、地震のあったイタリア・アマトリーチェ地方のパスタであるアマトリチャーナとイタリアワインの会があって、おいしく頂きました。パスタは中心に穴の開いたブカティーニ。豚の頬肉(グアンチャーレ)を乾燥させてパスタの具に使うんだけれども、この肉のエキスと香りが何とも言えず、いい味を出している。

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危険だから教会の中でミサを行わないように、とされるなど、イタリア現地の人たちの生活の苦労は計り知れないけれど、ただただ祈るばかりだ。

Sharp Eleven featuring Fabio Bottazzo (g, comp)            Live at CoZa-no-Ma, Konandai, Yokohama

I listened Italian guitarist Fabio Bottazzo at this cozy art gallery, CoZa-no-ma in the suburbs of Yokohama. My decision to go to Konanndai for the first time in my life was instantly strengthened by that charity dinner of Amatriciana pasta dishes and wine would be served after the show.

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I have been listening to Fabio for about five years, probably since he began playing in Japan on a regular basis. Jazz clubs and restaurants in Toritsu-daigaku, Kashiwa, Chiba, etc. His website is this.

He is a Padova, Italy native and his relatives and friends live near the region badly hit by the earthquake in August and aftershocks. That is one reason why charity is suitable for this occasion.

It seems that Fabio is very productive this time and he brought a dozen new pieces to the audience. Indeed, I am impressed that his melodic sense advanced greatly in new compositions like Remembering Nino Rota, African November. Dondolando and Paesaggi in Movimento, both of which were his contribution to 2014 album put together by the international group a.s.k. were also lovely tunes.

welcoming_the_day

He was backed by Hideko Kimura on piano, Kazufumi Tsuchimura on bass and Shinichiro Kamoto on drums. They have been playing with Fabio for quite some time and the interplay of intimately supportive backings and defiant improvisations made listeners feel really good in a crisp November afternoon.

 

The pasta dinner, bucatini all’Amatriciana, was splendid and I had very good time listening to local people talking about good old days of popular drinking spots like Noge and Koganecho. You could do bar hopping with only a couple thousand yen and the bar master would send you off with “Have a good time and be back”. In fact, you would be back to the bar after taking a round of several bars in the same night anyway. Things like that.

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ジョニ・ミッチェル          73歳の誕生日おめでとう!

今日11月7日はジョニの誕生日。昨年の3月に脳動脈瘤で入院。一時は生命の危機だったと言われているが、8月にはチック・コリアのコンサートに姿を現してその場にいたハービー・ハンコックとも会ったりして、脳動脈瘤については着実に健康を取り戻す道筋にある。ジョニは、モルジェロンズ病という病気にもかかっている。これは皮膚の下を何かがはいずり回っているという感覚にとらわれる、カリフォルニアの白人中年女性に多く発症している皮膚病らしい。米国屈指の総合病院の一つメイヨー・クリニックの解説はこれ(英語)。いずれにしても、化学物質が原因とも、認知的なところに原因があるとか、まだよくわかっていない病気。皮膚の下を何かがはいずり回る!考えただけで気が狂いそうになる病気だよね。ただただ、ジョニの心の平安を祈るのみ。

公式Webには、祝福イベントやら、いろんな人の応援メッセージが寄せられている。去年暮れにはシャカ・カーンが、自分は長年のジョニのファンで彼女は自分にとってNo.1アーチストだと言っている。2016年にはジョニのトリビュート・アルバムを計画中、と言っていたので、彼女の公式Webなども見てみたが、まだ時間がかかるようだ。

で、先週のジョニ公式Webに掲載されたリブ・シドールLiv Siddallの一文がちょっと面白かったので紹介しますね。この人は、フリーライターでラフ・トレードの編集長とかやっている。ラフ・トレードは70年代にインディ・レーベルから始めて、今はレコードショップやら物販やら手広くやっているところ。最近はNYのブルックリンにも出店したということだが、ロンドンにイーストとウェストにそれぞれあって、ぼくが行ったことがあるのはイースト店。イーストのトルーマンTrumanビール工場(19世紀には世界最大の規模だったらしい)の古い建物を利用したモールの一角にあって、日本でいえば、ドンキホーテ的な楽しいごちゃごちゃ感の商品プレゼンテーションが魅力の店。インディ系、フォークでもオルタナ系のアーチストの品揃えが豊富で、トレーシー・ソーンTracey Thornの名作デビュー・アルバムA Distant Shoreがあったので買ったんだったな。

rough-trade-east
ラフ・トレード ロンドン・イースト店(Webより)

脱線したけど、リブの一文。ジョニの「真に普通でなく、徹底して非妥協的な」(a truly extraordinary and utterly uncompromising life)人生から何を学ぶか、ということ。

  1. 家をあなた自身のものにすること。もしくはただ単に(自分らしい)家を作る。・・・ここでは60年代末にジョニがカリフォルニアのハリウッドの北側のLaurel Canyonで住んだ家に、当時の恋人のグレアム・ナッシュなど多くのアーチストが集まって新しい音楽や芸術を作っていったことに言及している。
  2. 一人でいることは自由であること・・・これは自尊(セルフリスペクト)との関係で、自然にそうなるよね。
  3. 自分自身のスタイルを紡ぎだし、それから離れないこと。・・・リブはジョニの「Laid-back, bohemianくつろいだ、ボヘミアンな」ファッションについて述べていて、こだわりのない、くつろいだ、ボヘミアンな感じを醸し出すためには、物まねじゃだめで、私たち自身が真にこだわらない、ボヘミアンでなければだめだ、と言っているのだけれども、変化・進化(5.の老いによる変化を含めて)を自分のスタイルの中ででどのように消化・昇華するかが次の課題だよね。
  4. 逃げるのはオーケー・・・現代はソーシャル・メディアが地球上を覆っているので、創作活動のヒントを得るために誰にも知られない世の果てに「逃げる」ことがよくあった。ローリング・ストーンズはフランスの古城に何か月もこもったり、ジミ・ヘンドリクスも誰も知られずにモロッコに滞在していた、ジョニもクレタ島のそばのマタラ島に行ってた、という話。これは東洋的な文化でも一時的「隠居」、札所巡礼とか、リフレッシュする、生まれ変わるという願いが人類共通だということだよね。
  5. 老いは祝福、呪いではない・・・リブは女性の見地から、若返り、運動やら高価なトリートメントについて言及して優美に老いるのは難しいが、ジョニは老いることを、物事を見る見方、自由であること、率直であること、を通じて永遠の若さをもたらす、「創造性の進化のステップ」だととらえているとしている。なるほど、いいね。

マイルスの問わず語り 小川隆夫著「マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと マイルス・スピークス」

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫さんが、ご自身のマイルス・デイヴィスとの20回近くにも及ぶインタビューをまとめた「マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと マイルス・スピークス」(河出書房)を出されたので早速読んだ。素晴らしい内容だ。ジャズに少しでも興味のある人は必読!

晩年の約5年間のマイルス・デイヴィスに、始めは突撃取材し、自宅アパートや滞在先ホテルのスイートルームで(ハイアット・リージェンシー東京、1980年代当時はホテルセンチュリーハイアット、がほとんど場合の定宿だったようだけど)好物のチキンとペリエをルームサービスでとってくれて(そういうところに人間の本質が出るよね。仕事と仕事仲間に対する暖かい誠実な姿勢が)問わず語りに回想を話してくれる。それを少しずつ積み重ねていった。

マリブの別荘で行った最初のインタビューの雑談中に小川さんが整形外科医であることを知り、1972年の交通事故の後遺症による足・腰のしびれ・痛みについて、マイルスが小川医師からリハビリメニューをもらってその後本人も必死に取り組み症状が改善されたあたりから、「それなら誰にも書けない本を書けよ。ずいぶんと間違って伝えられているからな。」(本書182ページ、以下同じ)という信頼関係が構築された。本当に小川さんも整形外科医かつジャズ愛好家であったことを、われわれは感謝しなければいけないよね。小川さんでなければできなかった仕事だ。

このインタビュー集で個人的に感銘を受けたところは、「その時代の最高にヒップな音楽をやりたい」「ジミの音楽は、それまでのロックともソウル・ミュージックとも違っていた。まったく新しい音楽だった。オレも自分のスタイルで新しいことをやりたかったから、ヤツの音楽はいい刺激になった。なにか新しいものをクリエイトしている人間は光り輝いている。ヤツがそうだった。そして、オレはいつも光り輝いていたかった」(119)「自分がわかってないヤツとは一緒に演奏できない」(171)などなど。それと、マイルスは父は歯科医、祖父は会計士という裕福な家に生まれ、基本的には不自由のない環境で育った当時としては極めてまれな黒人だったが、それでも警察に車を止められ、自分の車なのに盗んだ車じゃないかと疑われることがしょっちゅうだった、と言っている。

キャメオのラリー・ブラックモンLarry Blackmonと共演(1988年アルバム「マチズモ」オープナーのイン・ザ・ナイト)していたことを小川さんは知らなかったって書いているけど、ぼくはなんとなく覚えてます。ABCテレビのニューヨーク・ホット・トラックスNew York Hot TracksかVH-1なんかでラリーが可愛い赤い股間のパッド(!)を身につけたキャメオのミュージック・ビデオがよく流れていた。直前の1987年11月にライクーダーのゲット・リズムのプレスリー・カバーの「オール・シュックアップAll Shook Up」でボーカルしているよね。

ぼくもブラックモンがなぜマイルス?というのはもちろん知らなかった。小川さんのインタビューでブラックモンの親父がマイルスのボクシングのコーチだったつながりが明かされている。いろんなつながりがあるものだ。縁は異なもの。

New York Hot Tracksの映像はいくつか(シャカ・カーンのI Feel For Youなどが入っている)VHSをデジタル化して)いまだに持っていますが、Web上で探したら・・・ありました!いやあ、懐かしい。1985年版だけれども、マドンナの出世作「ボーダーライン」が2分25秒くらいから始まります。その直後にホイットニー・ヒューストンのこれも出世作「すべてをあなたにSaving all my love for you。」時代だなあ。RUN-D.M.C.も後ろの方に出てくるし。30年前のコマーシャル付きなのが尚更いいですねえ。(ごめんなさい、一人で盛り上がってしまった!)

マイルスについては、1949年5月にパリの国際ジャズ祭でタッド・ダメロン・グループで演奏した旅で出会ったジュリエット・グレコとの熱愛、それにより改めて目を開かされたアメリカにおける黒人としての実存、1960年代の公民権運動へのベネフィットコンサートによる支援、上記の警察にしょっちゅう車を止められたなどの人種差別の個人的経験、ナット・ヘントフなど一部の例外を除きジャズ批評を完全拒否(オレの音楽を知りもしないで批評なんかするな)したこと、などなど、興味深い事実がたくさんあり、本書でも多くの点についてそれなりに語られてはいるけれど、これらについてはここでは触れない。

小川さんのインタビュー集が出たので、ぼくも昔の資料を改めて見ていたら、1985年のニューヨーク・タイムズ・マガジンのアミリ・バラカAmiri Baraka(1934~2014、詩人、60年代はリロイ・ジョーンズという名前で活躍していた人)(wiki)によるインタビュー記事があった。(写真)小川さんも最初のインタビューの際に偶然知り合ったという、当時のマイルスお抱えフォトグラファーのアンソニー・バルボザAnthony Barboza(小川さんとの写真は本書3ページにある)による眼光鋭いマイルスの写真で始まる。

amiribarakainterviewmilesnyt-magazine-1985

この記事の中では、ガレスピー、マックス・ローチなどのマイルス評が紹介され、当時最新作のデコイでマイルスが当時最先端のメディア手法であるミュージック・ビデオを作ったことについても触れている。いつでも最先端にいようとし、そして現実にそれを実行した人、マイルス。また、バラカは「まだ25歳のガキでジャズ批評家になりたかった」彼が1960年にヴィレッジ・バンガードにマイルス・コンボ(コルトレーンが抜けてバラカの地元ニューアークのダチでもあるハンク・モブレーが入っていた)を聴きに行き、楽屋でマイルスに話を聞こうとして、「うるせえな」とあしらわれ、マイルスに「もしオレが有名なジャズ批評家なら話してくれんだろ?」と反発した経験を披歴しているのが面白い。

レッテル張りを否定し、ジミ・ヘンドリクスやプリンスなどとの交流を通じて自らをポップの(ジャズの狭い世界ではない)革新者として人生を全うしたマイルス。本書は、少年時代からニューヨークに出てきて、チャーリー・パーカーと同居しながらの追っかけ、「クール」時代、50年代、60年代の黄金クインテット、モード、フュージョン、エレクトリック・マイルスなど重要な節目節目のマイルスの思考と経験が詰まっている「問わず語り」が記録されている。英語版が出たら(出すんでしょ?小川さん)世界のスタンダード・マイルス・レファレンスの一つとなるだろう。

マイルスが死んでもう25年が経つ。65年という人生は、現代日本の高齢化社会では、年金受給年齢に達したに過ぎないし、ぼくもほとんどそこに近い年齢になってしまったので、凡人だがやるべきことをやろう、と身が引きしまる思いです。ありがとう、マイルス。

付録)

なお、バルボザのブログサイトでは、マイルスのいろんな写真が見られます。おすすめ。

バルボザの祖先はケープ・ヴェルデ(旧ポルトガル領、現カーボベルデ共和国。アフリカの西の太平洋に浮かぶ島)からの移民。ケープ・ヴェルデのルーツと言えばホレス・シルバーもそうだよね。ポルトガル系のルーツから当然カソリックの家柄であることが想定できる。少なくともホレス・シルバーはそうだ。ホレス・シルバーにはケープ・ヴェルデ生まれの父にインスパイアされたCape Verdean Blues (ブルーノート1965)という作品もある。

で、バルボザのサイトからの発見。三楽オーシャンの焼酎「VAN」のコマーシャルにマイルスが出てたんだ!旧メルシャン、現キリングループ。TDKに出てたのは知っていたけれどもね。