ブルックリン・ビールが日本で買いやすくなる!

7月にブルックリンを歩いて、ブルックリン・ビールを飲んだという記事を書いたんだけど、テレビを見ていたら、キリンビールがブルックリン・ラガーなどで知られる有力クラフト・ビールメーカーのブルックリン・ブルワリー社と提携し、日本で合弁会社を設立の上ライセンス生産すると。10月にはさらにブルックリン・ブルワリー本体に24.5%資本参加することを発表している。(日経記事)1本400~500円で販売するらしい。

上記日経記事によれば「小規模な醸造所で造り、個性的な風味を持つ」クラフト・ビールは「2015年の米国での販売額は223億ドル(2兆3千億円)と11年比で2.5倍となり、市場全体に占める割合は2割を超えた。日本ではまだ1%程度」だから、その成長市場でシェアを取れる。ただ、「シェア一辺倒の姿勢を改め、まず「個性」でブランド力を底上げする新機軸だ」というところは何のこと?という感じ。相変わらず日経さんの大企業ヨイショなんだけど、ヨイショし過ぎて理屈なんかどうでもいい感じか。ブルックリン・ブルワリーの個性ある商品を日本でライセンス料を払って生産・販売することで「キリンのブランド力」が上がるのかね?

まあ、ブルックリン・ラガーファンとしては、近所のスーパーでも買えるようになるだろうからとてもうれしいんだけど、現時点で楽天市場での最安値は税込み1本410円だぞ。

もう少し安くしてくれないかなあ。

これがナイスじゃなかったら、何がナイスだよ? カート・ヴォネガット卒業式講演集

「これで駄目なら 若い君たちへ-卒業式講演集」(カート・ヴォネガット、円城塔訳、飛鳥新社)を読んだ。

前に、デイブ・ブルーベックは、第二次世界大戦の北フランス戦線でパットン将軍率いる「バルジの戦い」の前線の軍楽隊で演奏しているころに、後に長く一緒にコンボを組むことになるポール・デズモンドと出会った、ということを書いた。(これ

ヴォネガットは、なんと!このバルジの戦いでナチス・ドイツ軍に捕らえられて、ドレスデンの捕虜収容所を生き延びた人だよ。

ドレスデンは1945年1月の連合軍による絨毯爆撃によって街が灰燼に帰した。ソ連がドイツに進軍しやすくするという目的でドイツの東部戦線の補給機能を壊滅させるため、結節点のドレスデンを破壊したもの。ドレスデンは交通の要所であり、ロジスティックス上の重要性があったが、「目立った軍事施設もなく、「エルベ河畔のフィレンツェ」の別名の通りドイツ最高のバロック様式の美しい街並みと数多くの文化財が知られており、人々はドイツの中でも「ドレスデンだけは空襲に遭うことはない」と信じていた。ドイツ軍も空襲に対してはほとんど無警戒であった」(Wiki)であったとのことだから、日本でいえば、京都、奈良が東京の補給ラインに直接影響する位置になったという状況と思えばいいのかな。

この大空襲ではソ連の赤軍から逃れてきた多くの難民を含め少なくとも数万人とも言われる死者が出たと言われている。ドレスデン国立歌劇場のゼンパー・オーパーなど多くの歴史的建造物が破壊された。ゼンパー・オーパーは1985年に再建復興され、ドイツ統一後は州立の歌劇場として高い人気を誇っているところだよね。専属管弦楽団はシュターツカペレ・ドレスデン。現在の首席指揮者はクリスチャン・ティーレマン。バイロイト音楽祭の音楽監督だが、サイモン・ラトルの後任として本命視されていた世界最高峰のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督を座をロシア系のキリル・ペトレンコに奪われてしまった、バイロイトでも新世代マエストロとして注目されているボストン交響楽団のアンドリス・ネルソンスが出演を直前にキャンセルしたのもティーレマンとの衝突?があったからだとか、いろいろ話題に欠かない直情派熱血漢?がたまたま11月に来日しますね。(ザルツブルグ・イースター音楽祭in Japan)オーケストラ・プログラムはブロンフマンのピアノでベートーベンの皇帝かあ・・・ちょっと行きたい気がするが・・・。

で、ヴォネガットはドレスデンで捕虜となっていたときにこの空襲を地下食肉倉庫に逃れて九死に一生を得て帰国。この経験が後の「スローターハウス5」という作品となった。映画化もされている。復員兵援護法を利用して(ブルーベックもそうしたよね。広島に原爆が投下された1945年8月6日に海軍に入隊して、訓練後パール・ハーバーにいたコルトレーンもなんかも。)シカゴ大学に学び、作家として名声を博するようになるまでも新聞記者として、またGE(ジェネラル・エレクトリック)の広報、それから様々な仕事にもついて家族を養った。「日々の暮らしの中でのほんのささやかな素晴らしい瞬間に気づき、感謝し、」(本書、11ページ)「これがナイスじゃなかったら、何がナイスだよ?(この時、この場、この瞬間がナイスなんだよ)」(注1)と問うことの重要性を若者たち(を通じて)世の中に語りかけた人。ヴォネガットの叔父が「夏の日に、一緒にリンゴの樹の木陰でレモネードを飲んでいた」(同、47ページ)ときに、言った言葉として紹介される。この本の題がその言葉。

また、次のように、コミュニティ主義者といってもいい思考を分かりやすく語りかける。「君たちは君たち自身のコミュニティを立ち上げたり、つくり直したりすることになるだろう。その運命を楽しむんだ。君にとってのコミュニティは世界の全てに相当する。他の全てはにぎやかしだ。」「マーク・トウェインは、その豊かで満ち足りた、ノーベル賞なんてもらわなかった人生の最期に、人生には何が必要なのかを自問してみた。そうして、ほんの六語で足りることに気がついた。わたしもそれで充分だと思う。君たちにも満足いくだろう。それは隣人からの良い意見(The good opinion of our neighbors)。だよ。隣人というのは、君たちのことを知っていて、君たちに会って話しかけることができるそういう人たちのことだ。君たちは君たちでその隣人の助けになったり、良い刺激を与えることができたかもしれない。そういう隣人というのはマドンナやマイケル・ジョーダンのファンほど多くはいないよね。隣人から良い意見をもらえるには、大学で学んだ特別なスキルを使って、模範となる書物や先人たちが示してくれた良識と名誉とフェアプレーの基準を満たすようにしないといけない。」(同、54~55ページ)(注2)

ヴォネガットは村上春樹が若いころに手本にした作家のひとりとして有名だよね。最近は日本で村上とヴォネガットを語ることもなくなっているけどね。思想と実践の点で、村上とは性質が相当異なっているのかな。ヴォネガットは「従来の宗教的信仰」に懐疑的だったドイツ自由思想の家系の出身であり、信条としては人間中心のヒューマニストなのだろう。(Wiki)彼の作品によく出てくる「拡大家族」については、本書でも「卒業する女性たちへ」の講演でこのように語りかける。

「以前、ナイジェリアで出会った男の話だ。イボ族のその人物には、600人の親族がいて、彼はそのいちいちをよく知っていた。彼の妻はちょうど赤ん坊を生んだところで、それはどんな拡大家族においてもやっぱり一番のいいニュースだった。彼らはその赤ん坊をあらゆる年齢の、大きさの、体形のイボ族の親族全員に見せに出かけるところだった。他の赤ん坊に出会うこともあれば、そう年の離れていないいとこたちに会うこともある。充分に育ってがっちりした体になっていれば、みんなその赤ん坊を抱きあげ、抱き寄せ、そしてホラホラ、可愛いねえ、顔だちがいいじゃないか、と語りかける。君たちはそんな赤ん坊になってみたいと思うだろう?できれば、君たちに魔法の杖を一振りして、君たちを一人残らず、ツボ族やナバホ族やケネディ家の一員にしてやりたいと思うんだよ。」(注3)

ヴォネガットは初期の社会主義労働者リーダー、地元インディアナ州出身の2人のリーダーとしてパワーズ・ハプグッドPowers Hapgood(1899~1949)とユージーン・デブスEugene V. Debs(1855~1926)に強い影響を受けており、本書でも何回か彼らに言及する。ハプグッドはハーバード大学を卒業し労働運動に身を投じ、米国鉱山労働者組合を組織、社会党からインディアナ州知事選挙に出馬し、また、米国最大の冤罪事件と言われるサッコ・ヴァンゼッティ事件(映画「サッコとヴァンゼッティ(邦題は「死刑台のメロディ」)」にもなったし、主題歌「勝利の讃歌」はジョーン・バエズが歌った。)でも彼らを支援した。デブスはアルザスの移民の子に生まれ、鉄道労働者(機関士)となってアメリカ初の産業別労働組合を組織、1900年を皮切りに1920年の大統領選まで5回(1900年を除きアメリカ社会党から)立候補した人。そのうち1906年の大統領選が最高で6%の得票率だったとのこと。(Wiki




本書にまとめられた講演は、古いものは1978年(カーター大統領時代)、1994年が2回、1996年、1999年、2000年、2001年同日のハシゴで2回、最後が2004年。2001年の2回は9.11の1か月後のものだ。

1978年はカーター、1994年~2000年はクリントン、2001年からは子ブッシュが、それぞれ大統領だったときである。ほとんどの公園は大学卒業生に向けたものだが、カール・サンドバーグ賞受賞講演などの2つは、大学に行ってないとか気にするな、と語りかけるもの。

9.11は、イスラム教徒へのヘイトクライムが急増するなどアメリカ人の精神風土に不可逆的な変化を与えた事件だったが、ブッシュは大量破壊兵器があるとして(後にその事実がないことが明かになった)イラク戦争に踏み切った。ヴォネガットのブッシュ批判は激烈である。「イエール大学を出た上流階級にも、ろくなことを言ったり書いたりできない連中がいます。」(同、95ページ)実名を挙げたところでは「大統領のジョージ・W・ブッシュが自分ではっきりと告白したところによれば、彼は十六から四十一の間という結構長い期間、酔っ払いというか、ほろ酔いというか、泥酔というかの状態にいた。彼が言うには、イエスが彼の前に現れて、生意気さ加減を正し、アルコールでうがいするのをやめさせたそうだ。」(同、83ぺージ)ブッシュの飲酒癖は有名で3度の逮捕歴もある。Wikiにはもっと激しいブッシュ批判がまとめられている。

バーニー・サンダースがこれほどの支持を集める現在のアメリカがハプグッドやデブスの社会民主主義の流れを汲み、足元の社会、労働する自分を取り巻くコミュニティ(まち、仲間)を大事にする伝統を現在の文脈で捉えなおそうという運動になっているからであるのではないか。すごく単純な比較をすると、デブスが前世紀はじめの得票率が最高でも6%だったのに比較して、ヒラリー・クリントンと州によってはいい勝負をしたことから、仮に全米がまんべんなく共和党と民主党が互角だったとすれば、サンダースは25%くらいの得票をしていたという見方もできなくはない。それだけ社会民主主義的見方が国民の中に(特に若い層、ジェネレーションX層に)広がっているのは今までになかったことだ。

デモグラフィック(人口動態)の変化もこうした社会的な変化を後押ししていると言われる。アジア系移民、ラティーノと言われるラテン系国民の増加は比較的若い層が中心。若い層は、理想的な思考ができ、自分の夢を語る時間的余裕があるし、この何十年かのパクス・アメリカーナによって国民の教育水準も上がっている。白人層が少なくなる、教育水準が上がると民主党支持者となりやすいのがアメリカだという。先日聞いたウォールストリート・ジャーナルの「米大統領選特集2016」で編集長のジェラルド・ベーカーが2012年までの20年で国勢調査の白人人口比率が87%から73%に減少している、と言っていた。(Huffington Postに吉川敦也という慶応大の学生さんの取材記事があるので参考までに。ベーカーの話でぼくが印象的だったのは、ヒラリーは国民から「信頼されていない」ということ。なんか隠してる、なんか口先だけだ、そんな感じのようだ。最終盤にきてトランプ氏の女性への侮蔑的対応が炎上しているが、そもそも両候補とも人気がないといういまだかつてない大統領選だというわけだ。)

バーニー・サンダースはブルックリンの貧しいペンキ職人の家に生まれ、シカゴ大学卒業後はイスラエルのキブツ(集産主義的協同組合)で数ヶ月間過ごし、その後一貫して「格差が少なく普通の人々が政治的な力を持てる社会の形成」という政治理念を保ち続けた、という。(Wiki)キブツは帝政ロシアの迫害から逃げてきたユダヤ人たちが始めた共同体で、「生産的自立労働」「集団責任」「身分の完全な平等」「機会均等」を4大原則としている。

20年くらい前、当時勤務していた会社で、経理部のフツーの男がある日、イスラエルに行くのでやめます、という挨拶をしたのでびっくりした経験がある。キブツに行くと言っていた。今はどうしてるのかなあ。海外でボランティアをしながら英語を身に着けようというサイトに、キブツを紹介するものがあったので、参考までに。

今回も長くなったけれど、この本で言われる「コミュニティ主義者」ヴォネガットの語りを通じてアメリカと日本の地域社会=コミュニティを考えるきっかけにできると思う。

(注1)この本の題となっているヴォネガットの叔父の言葉、If this isn’t nice, what is? 日本語版は「これで駄目なら」になっているけれど、ピンと来ないのでぼくはこのようにしました。

(注2)日本語版の翻訳をベースにしたけど、「年長者に従う暮らしをするべきだ」となっている部分は、「フェアプレー」も含まれていないし明らかな誤訳なので、「隣人というのは」以降はぼくが訳してみました。

(注3)ここも日本語版の翻訳をベースにしたけど、最後のセンテンスが訳されていないうえ、その直前の問いかけの文章も翻訳はピンと来ないのでこのようにしました。

 

セロニアス・モンク生誕99周年

今週月曜日の10月10日がモンクの誕生日。1917年生まれ。来年は100年だから、たくさんの回顧ものが出るだろうから、天の邪鬼のぼくとしては、99年で取り上げることとする。

1917年はなんといってもロシア革命の年。日本は大正6年だよ。欧州では第一次世界大戦のさなか、3月に社会主義右派によるロシア革命がおこり、国会臨時委員会が暫定政権を樹立、ロマノフ朝が滅亡。その後11月にレーニン率いる社会主義左派ボリシェヴィキの武装蜂起によりソビエト政権が樹立され、1991年まで存続したソビエト連邦の土台となった。世界で初めて社会主義国が誕生した意味は大きなものだった。1919年にはコミンテルン(共産主義インターナショナル:第三インター)が結成されて、世界革命の実現を目指す組織とされた。その後、第二次世界大戦で独ソ戦が勃発し、ソ連がイギリスとともに連合国となったことから「世界革命」は意義を失い、コミンテルンは瓦解した。日本共産党もコミンテルン日本支部であった。片山潜、野坂参三という人たちが日本から世界革命を目指していたわけだ。

当時日本は英国と日英同盟を結んでいたため、1914年にはドイツに宣戦布告しており、英国の要請によって、東太平洋やインド洋、さらにはインド洋経由で地中海にも艦隊を派遣し船団護衛に参加。日本は初めて世界規模の戦争の当事国になっていた。青島はドイツ領だったことで、中国に対し青島におけるドイツ権益の日本への譲渡、大連の租借などを中国に認めさせ、その後の中国への帝国主義的進出の足掛かりを作っていったわけだ。

そんな年に、モンクは生まれた。村上春樹のモンクについてこう書いている。「彼の音楽はたとえて言うなら、どこからともなく予告なしに現れ、何かすごいもの、理解しがたいパッケージをテーブルの上にひょいと置いて、一言もなくまたふらりと姿を消してしまう「謎の男」みたいだった」(セロニアス・モンクのいた風景/村上春樹『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮社、1997年12月))

俳句だね。ミニマルでありかつ宇宙的。

さて、ぼくが最初に買ったモンクのアルバムは、アンダーグラウンド(1968年リリース)。74年ころに買ったんだと思う。高校生。街にミントンハウスというジャズ喫茶がオープンして、マイルスやロリンズやらを聞き始めていたのでモンクもたぶん聞いていたかもしれない。ミントンハウスについては前の記事を参照。

モンクがジャズの仕事を始めたのが1940年代前半のハーレム118丁目と7番街のセシル・ホテルの1階にあったミントンズ・プレイハウスで、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー及びチャーリー・クリスチャンらと共に40年代のビバップ革命を展開した歴史的な場所。テナーサックスのヘンリー・ミントンが開いたクラブで1974年に火災のため閉鎖。その後2006年に「アップタウン・ラウンジ・アット・ミントンズ・プレイハウス」として再オープンしたが現在は再び改装中だということになっている。(Wiki

でもWebを見ると、ミントンズかつセシルとしていろいろライブとショーをやってるね。

今日はMidnight Jazz Breakfast hosted by Carla Hall and Patti LaBelle でなんと金曜日の夜11:30から深夜1:30まで、ABCテレビの料理ショーでも知られたカーラ・ホールCarla Hall となんとR&Bの大御所パティ・ラベルPatti Labelle (マイケル・マクドナルドとのデュエットOn My Ownは大好きだよ。80年代後半によくラジオでかかってたなあ)が共同ホストとして、ニューヨークで最もデカダント(退廃的)なブレックファストを提供します。歴史あるミントンズでライブジャズでダンスしてはどうでしょう・・・ということ。うーむ。なかなか魅力的だね。こんど行ってみたいスポット。退廃的なブレックファストね・・・。

ミントンズとセシルを調べていたら、リチャード・パーソンズという人が2006年にこの2つの施設に投資して現在に至っている。この人はシティ・グループの会長やタイム・ワーナーのCEOも務めた大物。真夜中のミントンズMinton’s At Midnightという歴史あるステージを復活させ、ジャズ・ミュージシャンとヒップホップ・アーチストを結びつける場としたいんだよ、とハリウッド・リポーター誌に語っている。

それで、と。モンクのアンダーグラウンドに戻ろう。ジャズの情報自体はあんまりなかったから、ミントン=モンクという連想があってこのレコードを買ったわけではなく、いわゆるジャケ買い。見てくださいよ。あやしいモンクおじさんが自動小銃を肩に第二次世界大戦のフランスのレジスタンス戦士になっている。ナチスの旗があり、若い女性兵士が後ろに。これはチャーリー・パーカーやモンクのパトロンとなった、ロスチャイルド家の出のニカ男爵夫人の若いころの写真じゃないかということらしい。(ロビン・ケリーの以下伝記による)

メンバーは60年代のカルテットメンバー、すなわちテナーサックスにチャーリー・ラウズCharlie Rouse、ベースはラリー・ゲイルズLarry Galesそしてドラムスはベン・ライリーBen Riley。これはこのメンバーでの最後のスタジオ録音、かつこの後にスタジオ録音した作品は大編成バンドでのMonk’s Blues(1968)とロンドンでブラック・ライオン・レーベルでの録音(1971)のみである。1976年のニューポート・ジャズ・フェスティバルでの出演を最後に引退し、1982年2月17日に脳出血でこの世を去っている。

モンクは1966年7月に旧友バド・パウエル、1967年には、5月エルモ・ホープ、そして7月にジョン・コルトレーンを失い、自身の健康も悪化する精神的にも肉体的にも大変ななかで、このアルバムはUgly Beauty、Raise Four、Boo Boo’s Birthday、Green Chimneysの4曲の新作を含む力作。Boo Boo’s BirthdayのBoo Booはモンクの長女バーバラのニックネームでこの曲もいいが、Raise Fourがいいですねー。フォー(4度)を上げて、つまり5度をフラット(フラッテド・フィフス)のメロディの12小節ブルース。テナーのチャーリー・ラウズは父親が死んでこの時(1968年のバレンタイン・デー)のセッションは欠席したため、トリオでの演奏になっている。

モンクの伝記の決定版はUCLAで米国史出身のロビン・ケリーによるThe Life and Times of Thelonious Monk(2009)。残念ながら日本語版はまだ出ていない。モンク家に残っている大量の楽譜、写真などの記録に初めてアクセスし、家族に丹念にインタビューするなどして10年かけて仕上げた大作。(モンクに関する資料は息子でドラマーのT.S.モンクがクラーク・テリーなどと1983年に設立した非営利団体のセロニアス・モンク・インスティチュート・オブ・ジャズの所有となっている。評議員会会長はハービー・ハンコック。)ニカ男爵夫人との出会いや他のミュージシャンとのやり取り、よき父であり夫であった側面とともにエキセントリックでクレイジーな側面もあったことなど、事実と証言を丹念に紹介していて、従来のモンク伝とは全くレベルと深さが違う。52丁目にあったダウンビート・クラブでマイルス・デイヴィスがモンクからラウンド・ミッドナイトの演奏の仕方を必死に「こんな感じでいいかい?」「いや、だめだな」「これでどう?」「うん、それなら演奏していいよ」と「習っていた」ことなども微笑ましい。おすすめ。

なおロビンの奥さんはリサ・ゲイ・ハミルトンLisa Gay Hamilton。一昨年Redemption Trail(ブリッタ・ショーグレン監督)で主演女優賞を取っているね。ブラック・パンサーのメンバーで殺された父を持つ娘役だということらしい。見てみようかな。

昭和4年生まれのセシル・テイラー ・・・ ユニット構造の征服者!の50周年記念

ぼくの父親は昭和4年生まれで今年亡くなったが、ビル・エバンスもセシル・テイラーも、さらには日本人では秋吉敏子も、ピアノではないが北村英治も、昭和4年。北村さんはぼくの同級生がやってる秋田・大潟村の河内スタヂオでスコット・ハミルトン、エディ・ヒギンズとの共演盤(文句なし。素晴らしい!)なんかを録音していて、秋吉さんについては、長年の支援者のジョニーさんの盛岡の店でのソロライブにも行ったことがある。この2人の日本人ジャズ・ミュージシャンはそれぞれのやり方で日本のジャズを切り開いてこられた方々だ。ビル・エバンスとセシル・テイラーもお互いにまったく違うやり方でジャズの風景を形作ったジャイアンツである。

セシル・テイラーは最近はヨーロッパでの活動が多かったけれど、2014年には京セラの稲盛名誉会長が設立した稲盛財団の京都賞を芸術分野で受賞している。京都賞って従来ノーベル賞がなかった分野について「科学や文明の発展、また人類の精神的深化・高揚に向けての創造的な活動に対する顕彰」をすることで、今や世界的に権威が高いものとなっていると言われている。昨日死んだアンジェイ・ワイダ(1987年受賞)、日本では関空旅客ターミナルの設計で知られるレンゾ・ピアノ(1990)、セシル受賞の前の音楽部門の受賞者はピエール・ブレーズが受賞。

セシル・テイラーがデビューしたのは1956年の「ジャズ・アドバンス」。マイルス・デイビスがプレスティジとの契約を早く履行してコロンビアに移籍するため、例の「四部作」マラソン・セッションを5月と10月にしていた同じ年に、セシルはその後のジャズインプロヴィゼーションの地平を切り開く力仕事をしたというわけだ。オープナーからぶっ飛びます。モンクのベムシャ・スイング。出だしのテーマがなんとなくおとなしめに提示された後、セカンドコーラスから一気にパ-カッシブで眩暈的な世界が提示される。ベースとドラムス(バージン諸島生まれのデニス・チャールズ)が4ビートできっちり運転しているからなおさら、緊張感に包まれる。「スウィング」をタイム(拍)、ピッチ及び強度の統合による「エネルギー」に変えた、とゲーリー・ギデンズは評した(注)が、そのエネルギーがバシバシ伝わる。

ベースはブエル・ニードリンガー。もともとクラシックのチェロを学んでいて60年代以後、ヒューストン管弦楽団でも活躍。フランク・ザッパとも活動していたらしいから、何とも器用でバーサタイルな人なんだね。イェール大学を1年でドロップアウトして(自分の周りにいる人間たちが、マッカーシー委員会による赤狩りの尋問をする側の人間と同じようなやつらばかりだったので、とのことだ)イェールの同窓会でラズウェル・ラッドと会い、その縁でスティーブ・レイシーに、スティーブがセシルをブエルに紹介、という形でつながっている。

セシルとの出会いについてブエルがオールアバウトジャズ誌に語ったところによれば、以下のような感じ。

彼がお父さんと一緒に住んでいた98シェリフ・ストリート(イースト・ビレッジの南側だね)の6階の部屋に階段をよっこら上って行って、確か(ドラムの)デニス・チャールズは居なかったから、スティーブ・レイシーとぼくとの3人。セシルが出会いがしらに「コテージ(別荘)の売り物を知ってるか?」「知らないよ」「ま、いいや、俺たちはこれからそれを演奏するんだからな」って。ぼくは当時すでにストラヴィンスキーとかを聞いていたし、主流ではない作曲家にはもう慣れていたからね。最初の出会いはほんとにいい感じだったなあ。でもオーネット・コールマンが出てきて、セシルへの注目はオーネットに奪われてしまった。オーネットに投資した連中(ジャズ・レビュー誌の共同創始者のガンサー・シューラーとショー・ウェンシ、及びMJQのジョン・ルイス)がいて、そのカネでね。(出所

なお、ショー・ウェンシHsio Wen ShihはMIT卒業の建築士だったそうで、実際にオーネットのマネジャーもしていたようだが、1960年代中頃には消息不明になっていたらしい。名前からして、チャイニーズ・オリジンであることは間違いない。HsioがもともとHsiaoであれば蕭、Wenは文、Shihは士かも。ガンサー・シューラーも、ジャズ・レビューのもう一人の共同創始者のナット・ヘントフも彼について語っていないところを見ると、いわくありげだなあ。

デビュー10年たった1966年には、ブルーノートに2枚の作品を発表。Unit Structures とConquistador!。RVG(ヴァン・ゲルダー)の音だよ!翌67年はセッションの記録がないし、その後もポツポツとフランスなどで演奏したようだけれどスタジオ録音は1978年のCecil Taylor Unitあたりまでなく()、コンサートのライブばかりである。ということもあって、このブルーノート盤がセシル・テイラー音楽の一つの完成形だというのが定説となっている。50年前のセシルの完成形を楽しもうっと!

Steps 階段。階段を登っていくと、風景が変わっていく感じの緊張感と高揚感。

Enter Evening(Soft Line Structure) 夜、入場(柔らかい線の構造)。ケン・マッキンタイア(エリック・ドルフィと一緒にやっていた人だね)のバスクラリネットやオーボエが柔らかいいい感じ。

Unit Structure/As of A Now/Section ユニット構造物/一つの「今」時点では/立面図というネーミングがある演奏。ユニットのマンションといえば、黒川紀章の中銀カプセルタワービルを思い出します。そういえば築地市場の豊洲移転を決めた石原東京都知事が三選を狙った2007年の都知事選挙に黒川紀章も出馬したのだったなあ。このCDジャケットも色とりどりのセシルのキューブが積み重ねられているよね。「今」を数えられる普通名詞として表現したりしているのも世界の多様性認識への希求が見られますね。

Tales (8 Whisps) お話・8つの束 変化の富んだお話の束。エンディングとしてもよくできた小品、といっても7分ですが。最後の束が45秒くらいのピアノソロ。これが絶妙に詠っている。

Conquistador 18分のアルバムタイトル曲。7分ちょい過ぎの静から動に変わるあたりの昇天感がいいなあ。終わりにかけての4分くらいはアラン・シルバのアルコベースとの抒情的対話になっていく。

With(Exit)は19分30秒。ショパンのピアノ協奏曲第1番第1楽章、ベルリオーズの幻想交響曲の最初の2楽章の合計と同じくらいの長さ。ある程度複雑な色彩とフィーリングとトーンを一つの作品とするには、この位の時間が必要かつ十分かもね。33回転LPレコードの片面というのが一つの人間的な単位だったのだろうと思う。今は、ぼくのセカンドハウス用サブPCですらiTunesでたまった音楽量が、(ずいぶん消したんだけど)5万曲200日とかとなっていたりするだけで途方もない感なんだけれど、世界標準では2000万とか3000万曲が定額聞き放題とかなっていて、ただただ絶句。