「よしなしごと」カテゴリーアーカイブ

ブルックリン・ビールが日本で買いやすくなる!

7月にブルックリンを歩いて、ブルックリン・ビールを飲んだという記事を書いたんだけど、テレビを見ていたら、キリンビールがブルックリン・ラガーなどで知られる有力クラフト・ビールメーカーのブルックリン・ブルワリー社と提携し、日本で合弁会社を設立の上ライセンス生産すると。10月にはさらにブルックリン・ブルワリー本体に24.5%資本参加することを発表している。(日経記事)1本400~500円で販売するらしい。

上記日経記事によれば「小規模な醸造所で造り、個性的な風味を持つ」クラフト・ビールは「2015年の米国での販売額は223億ドル(2兆3千億円)と11年比で2.5倍となり、市場全体に占める割合は2割を超えた。日本ではまだ1%程度」だから、その成長市場でシェアを取れる。ただ、「シェア一辺倒の姿勢を改め、まず「個性」でブランド力を底上げする新機軸だ」というところは何のこと?という感じ。相変わらず日経さんの大企業ヨイショなんだけど、ヨイショし過ぎて理屈なんかどうでもいい感じか。ブルックリン・ブルワリーの個性ある商品を日本でライセンス料を払って生産・販売することで「キリンのブランド力」が上がるのかね?

まあ、ブルックリン・ラガーファンとしては、近所のスーパーでも買えるようになるだろうからとてもうれしいんだけど、現時点で楽天市場での最安値は税込み1本410円だぞ。

もう少し安くしてくれないかなあ。

これがナイスじゃなかったら、何がナイスだよ? カート・ヴォネガット卒業式講演集

「これで駄目なら 若い君たちへ-卒業式講演集」(カート・ヴォネガット、円城塔訳、飛鳥新社)を読んだ。

前に、デイブ・ブルーベックは、第二次世界大戦の北フランス戦線でパットン将軍率いる「バルジの戦い」の前線の軍楽隊で演奏しているころに、後に長く一緒にコンボを組むことになるポール・デズモンドと出会った、ということを書いた。(これ

ヴォネガットは、なんと!このバルジの戦いでナチス・ドイツ軍に捕らえられて、ドレスデンの捕虜収容所を生き延びた人だよ。

ドレスデンは1945年1月の連合軍による絨毯爆撃によって街が灰燼に帰した。ソ連がドイツに進軍しやすくするという目的でドイツの東部戦線の補給機能を壊滅させるため、結節点のドレスデンを破壊したもの。ドレスデンは交通の要所であり、ロジスティックス上の重要性があったが、「目立った軍事施設もなく、「エルベ河畔のフィレンツェ」の別名の通りドイツ最高のバロック様式の美しい街並みと数多くの文化財が知られており、人々はドイツの中でも「ドレスデンだけは空襲に遭うことはない」と信じていた。ドイツ軍も空襲に対してはほとんど無警戒であった」(Wiki)であったとのことだから、日本でいえば、京都、奈良が東京の補給ラインに直接影響する位置になったという状況と思えばいいのかな。

この大空襲ではソ連の赤軍から逃れてきた多くの難民を含め少なくとも数万人とも言われる死者が出たと言われている。ドレスデン国立歌劇場のゼンパー・オーパーなど多くの歴史的建造物が破壊された。ゼンパー・オーパーは1985年に再建復興され、ドイツ統一後は州立の歌劇場として高い人気を誇っているところだよね。専属管弦楽団はシュターツカペレ・ドレスデン。現在の首席指揮者はクリスチャン・ティーレマン。バイロイト音楽祭の音楽監督だが、サイモン・ラトルの後任として本命視されていた世界最高峰のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督を座をロシア系のキリル・ペトレンコに奪われてしまった、バイロイトでも新世代マエストロとして注目されているボストン交響楽団のアンドリス・ネルソンスが出演を直前にキャンセルしたのもティーレマンとの衝突?があったからだとか、いろいろ話題に欠かない直情派熱血漢?がたまたま11月に来日しますね。(ザルツブルグ・イースター音楽祭in Japan)オーケストラ・プログラムはブロンフマンのピアノでベートーベンの皇帝かあ・・・ちょっと行きたい気がするが・・・。

で、ヴォネガットはドレスデンで捕虜となっていたときにこの空襲を地下食肉倉庫に逃れて九死に一生を得て帰国。この経験が後の「スローターハウス5」という作品となった。映画化もされている。復員兵援護法を利用して(ブルーベックもそうしたよね。広島に原爆が投下された1945年8月6日に海軍に入隊して、訓練後パール・ハーバーにいたコルトレーンもなんかも。)シカゴ大学に学び、作家として名声を博するようになるまでも新聞記者として、またGE(ジェネラル・エレクトリック)の広報、それから様々な仕事にもついて家族を養った。「日々の暮らしの中でのほんのささやかな素晴らしい瞬間に気づき、感謝し、」(本書、11ページ)「これがナイスじゃなかったら、何がナイスだよ?(この時、この場、この瞬間がナイスなんだよ)」(注1)と問うことの重要性を若者たち(を通じて)世の中に語りかけた人。ヴォネガットの叔父が「夏の日に、一緒にリンゴの樹の木陰でレモネードを飲んでいた」(同、47ページ)ときに、言った言葉として紹介される。この本の題がその言葉。

また、次のように、コミュニティ主義者といってもいい思考を分かりやすく語りかける。「君たちは君たち自身のコミュニティを立ち上げたり、つくり直したりすることになるだろう。その運命を楽しむんだ。君にとってのコミュニティは世界の全てに相当する。他の全てはにぎやかしだ。」「マーク・トウェインは、その豊かで満ち足りた、ノーベル賞なんてもらわなかった人生の最期に、人生には何が必要なのかを自問してみた。そうして、ほんの六語で足りることに気がついた。わたしもそれで充分だと思う。君たちにも満足いくだろう。それは隣人からの良い意見(The good opinion of our neighbors)。だよ。隣人というのは、君たちのことを知っていて、君たちに会って話しかけることができるそういう人たちのことだ。君たちは君たちでその隣人の助けになったり、良い刺激を与えることができたかもしれない。そういう隣人というのはマドンナやマイケル・ジョーダンのファンほど多くはいないよね。隣人から良い意見をもらえるには、大学で学んだ特別なスキルを使って、模範となる書物や先人たちが示してくれた良識と名誉とフェアプレーの基準を満たすようにしないといけない。」(同、54~55ページ)(注2)

ヴォネガットは村上春樹が若いころに手本にした作家のひとりとして有名だよね。最近は日本で村上とヴォネガットを語ることもなくなっているけどね。思想と実践の点で、村上とは性質が相当異なっているのかな。ヴォネガットは「従来の宗教的信仰」に懐疑的だったドイツ自由思想の家系の出身であり、信条としては人間中心のヒューマニストなのだろう。(Wiki)彼の作品によく出てくる「拡大家族」については、本書でも「卒業する女性たちへ」の講演でこのように語りかける。

「以前、ナイジェリアで出会った男の話だ。イボ族のその人物には、600人の親族がいて、彼はそのいちいちをよく知っていた。彼の妻はちょうど赤ん坊を生んだところで、それはどんな拡大家族においてもやっぱり一番のいいニュースだった。彼らはその赤ん坊をあらゆる年齢の、大きさの、体形のイボ族の親族全員に見せに出かけるところだった。他の赤ん坊に出会うこともあれば、そう年の離れていないいとこたちに会うこともある。充分に育ってがっちりした体になっていれば、みんなその赤ん坊を抱きあげ、抱き寄せ、そしてホラホラ、可愛いねえ、顔だちがいいじゃないか、と語りかける。君たちはそんな赤ん坊になってみたいと思うだろう?できれば、君たちに魔法の杖を一振りして、君たちを一人残らず、ツボ族やナバホ族やケネディ家の一員にしてやりたいと思うんだよ。」(注3)

ヴォネガットは初期の社会主義労働者リーダー、地元インディアナ州出身の2人のリーダーとしてパワーズ・ハプグッドPowers Hapgood(1899~1949)とユージーン・デブスEugene V. Debs(1855~1926)に強い影響を受けており、本書でも何回か彼らに言及する。ハプグッドはハーバード大学を卒業し労働運動に身を投じ、米国鉱山労働者組合を組織、社会党からインディアナ州知事選挙に出馬し、また、米国最大の冤罪事件と言われるサッコ・ヴァンゼッティ事件(映画「サッコとヴァンゼッティ(邦題は「死刑台のメロディ」)」にもなったし、主題歌「勝利の讃歌」はジョーン・バエズが歌った。)でも彼らを支援した。デブスはアルザスの移民の子に生まれ、鉄道労働者(機関士)となってアメリカ初の産業別労働組合を組織、1900年を皮切りに1920年の大統領選まで5回(1900年を除きアメリカ社会党から)立候補した人。そのうち1906年の大統領選が最高で6%の得票率だったとのこと。(Wiki




本書にまとめられた講演は、古いものは1978年(カーター大統領時代)、1994年が2回、1996年、1999年、2000年、2001年同日のハシゴで2回、最後が2004年。2001年の2回は9.11の1か月後のものだ。

1978年はカーター、1994年~2000年はクリントン、2001年からは子ブッシュが、それぞれ大統領だったときである。ほとんどの公園は大学卒業生に向けたものだが、カール・サンドバーグ賞受賞講演などの2つは、大学に行ってないとか気にするな、と語りかけるもの。

9.11は、イスラム教徒へのヘイトクライムが急増するなどアメリカ人の精神風土に不可逆的な変化を与えた事件だったが、ブッシュは大量破壊兵器があるとして(後にその事実がないことが明かになった)イラク戦争に踏み切った。ヴォネガットのブッシュ批判は激烈である。「イエール大学を出た上流階級にも、ろくなことを言ったり書いたりできない連中がいます。」(同、95ページ)実名を挙げたところでは「大統領のジョージ・W・ブッシュが自分ではっきりと告白したところによれば、彼は十六から四十一の間という結構長い期間、酔っ払いというか、ほろ酔いというか、泥酔というかの状態にいた。彼が言うには、イエスが彼の前に現れて、生意気さ加減を正し、アルコールでうがいするのをやめさせたそうだ。」(同、83ぺージ)ブッシュの飲酒癖は有名で3度の逮捕歴もある。Wikiにはもっと激しいブッシュ批判がまとめられている。

バーニー・サンダースがこれほどの支持を集める現在のアメリカがハプグッドやデブスの社会民主主義の流れを汲み、足元の社会、労働する自分を取り巻くコミュニティ(まち、仲間)を大事にする伝統を現在の文脈で捉えなおそうという運動になっているからであるのではないか。すごく単純な比較をすると、デブスが前世紀はじめの得票率が最高でも6%だったのに比較して、ヒラリー・クリントンと州によってはいい勝負をしたことから、仮に全米がまんべんなく共和党と民主党が互角だったとすれば、サンダースは25%くらいの得票をしていたという見方もできなくはない。それだけ社会民主主義的見方が国民の中に(特に若い層、ジェネレーションX層に)広がっているのは今までになかったことだ。

デモグラフィック(人口動態)の変化もこうした社会的な変化を後押ししていると言われる。アジア系移民、ラティーノと言われるラテン系国民の増加は比較的若い層が中心。若い層は、理想的な思考ができ、自分の夢を語る時間的余裕があるし、この何十年かのパクス・アメリカーナによって国民の教育水準も上がっている。白人層が少なくなる、教育水準が上がると民主党支持者となりやすいのがアメリカだという。先日聞いたウォールストリート・ジャーナルの「米大統領選特集2016」で編集長のジェラルド・ベーカーが2012年までの20年で国勢調査の白人人口比率が87%から73%に減少している、と言っていた。(Huffington Postに吉川敦也という慶応大の学生さんの取材記事があるので参考までに。ベーカーの話でぼくが印象的だったのは、ヒラリーは国民から「信頼されていない」ということ。なんか隠してる、なんか口先だけだ、そんな感じのようだ。最終盤にきてトランプ氏の女性への侮蔑的対応が炎上しているが、そもそも両候補とも人気がないといういまだかつてない大統領選だというわけだ。)

バーニー・サンダースはブルックリンの貧しいペンキ職人の家に生まれ、シカゴ大学卒業後はイスラエルのキブツ(集産主義的協同組合)で数ヶ月間過ごし、その後一貫して「格差が少なく普通の人々が政治的な力を持てる社会の形成」という政治理念を保ち続けた、という。(Wiki)キブツは帝政ロシアの迫害から逃げてきたユダヤ人たちが始めた共同体で、「生産的自立労働」「集団責任」「身分の完全な平等」「機会均等」を4大原則としている。

20年くらい前、当時勤務していた会社で、経理部のフツーの男がある日、イスラエルに行くのでやめます、という挨拶をしたのでびっくりした経験がある。キブツに行くと言っていた。今はどうしてるのかなあ。海外でボランティアをしながら英語を身に着けようというサイトに、キブツを紹介するものがあったので、参考までに。

今回も長くなったけれど、この本で言われる「コミュニティ主義者」ヴォネガットの語りを通じてアメリカと日本の地域社会=コミュニティを考えるきっかけにできると思う。

(注1)この本の題となっているヴォネガットの叔父の言葉、If this isn’t nice, what is? 日本語版は「これで駄目なら」になっているけれど、ピンと来ないのでぼくはこのようにしました。

(注2)日本語版の翻訳をベースにしたけど、「年長者に従う暮らしをするべきだ」となっている部分は、「フェアプレー」も含まれていないし明らかな誤訳なので、「隣人というのは」以降はぼくが訳してみました。

(注3)ここも日本語版の翻訳をベースにしたけど、最後のセンテンスが訳されていないうえ、その直前の問いかけの文章も翻訳はピンと来ないのでこのようにしました。

 

アウンサンスーチーさんが「国家顧問」に!

時事通信ニュースによれば、「ミャンマーのティン・チョー大統領は6日、政権の実質トップであるアウン・サン・スー・チー氏を新設の「国家顧問」とする法案に署名した。」とのこと。

ミャンマー(1989年6月までの旧称はビルマ)は1962年から続いた軍事独裁政権下の実質的な鎖国政策によって、半世紀にもわたり民主化を求める国民の希望が押しとどめられてきた歴史を持つ。昔勤務した会社がビルマでの事業を行っており、その関係でビルマ人の同僚がいたことから、現地でその同僚の知人に会えるという幸運もあってビルマに個人旅行をした経験がある。ヤンゴン中心部から10キロほど北のインヤー湖に女子学生を含む民主派学生多数(200人も言われる)が国軍兵士によって暴行され投げ込まれて溺死などしたとされる治安警察の非道に対して国民が立ち上がり、1988年8月8日の全国ゼネストで運動の頂点となったことで「8888民主化運動」と言われている民主化の動きが3月頃から学生を中心に始まっていた。しかし9月には民主化を圧殺する形で国軍がクーデタを起こし軍事政権が誕生、1962年からのネ・ウィン体制が終わったあとに、別の軍人が政権を奪取したに過ぎなかったように見える状態だった。ぼくがビルマに行ったのはそれから約2年後ではあったが、空港やいたるところに兵士や治安警察がいて、こわーい感じは続いていた。

Wikiは当時の事実関係を次のようにまとめている。「全ビルマ学生連盟は一党独裁の打破を求め、1988年8月8日にビルマ全土で大規模なデモを行うことを呼びかけた。学生主体であった運動に、政府職員・仏僧・軍人・税関吏・教師・病院職員なども含んだ、さまざまな分野の市民が合流した。これに対し、軍部は無差別発砲を行いデモの鎮圧を図った。この年の4月に(危篤の母に会うために<筆者注>)帰国していたアウンサンスーチーは、8月26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で演説を行い、この国の民主化運動を象徴する人物となった。」

アウンサンスーチー(1945~)はビルマの国父であるアウンサン(1915~1947)の長女。アウンサンは英国に対する独立戦争のリーダーであったためアウンサン将軍と呼ばれてビルマ人なら誰でも無条件に尊敬する人物。基本的には絶対に批判や中傷の対象となることはないのである。なお、ミャンマーでは姓名の区別がないため、というよりもファミリー・ネームがないため(仏陀の前に個人個人が独立していると考えるのかな)「アウンサンスーチー」と一語で標記する。アウンサンは父、スーは父方の祖母、チーは母親の名前からもらったとい意味では先祖の名前を忠実にもらっている形ではある。ちなみにお墓というものもないのが普通。生まれた1945年はタモリや吉永小百合、ニール・ヤングと同年。

アウンサンについて知らないと、なぜ彼女がこれだけ注目され期待されるか十分には理解されないかもしれない。アウンサンは対英独立戦争の同志たち(三十人の志士)と共にビルマ独立義勇軍を設立、日本軍と接触し、日本統治下の台湾で日本軍の指導(南機関)によるゲリラ戦の訓練を積んだうえで、英国が敵であることには共通の目的であることから日本軍との連携によって日本の対英戦争を共に戦い英軍を駆逐して1943年に日本の支援下にビルマ国を建国した。その後日本がビルマ戦線でも敗色濃厚になるや機転を利かせて、アウンサンはイギリス側に寝返って日本及び日本が支援するビルマ国に対しクーデタを起こし、連合国側の勝利によってビルマは再び英国領となったうえ、英国は独立を許さなかったため、アウンサンは英領ビルマ政府の国防・外務担当閣僚として対英独立交渉を続ける中、1947年1月には英首相アトリーと1年以内の独立を保証する協定締結にこぎつけたが、1948年1月4日のビルマ独立を見ることなく1947年7月、他の6人の閣僚とともに暗殺された。こうしてみると、使える資源(植民地宗主国英国、その敵である日本)をタイミングを計りながら頭を使って利用して、いかに祖国の独立のために身を捧げたかは明らか。日本の軍部からすれば裏切りになったとしても、である。

こうした偉大な国父の娘であるアウンサンスーチー。母のキン・チー(1912~1988)は独立後の政権で社会福祉大臣及びインド・ネパール大使となったこともある人。この母のもとでアウンサンスーチーはインドのカレッジや英国オクスフォード大学に政治学などを学び、1985年には来日し京都大学で父アウンサン関連の歴史資料の研究をしている。ロンドン大のチベット研究でスーチーの夫マイケル・アリス(1946~1999)と知り合い、その後スーチーと40年来家族ぐるみの付き合いを続けてきた大津同志社大非常勤講師への取材記事が、日本でのアウンサンスーチーを描いていて興味深い。

1988年頃に盛り上がった民主化運動後、アウンサンスーチーの日本語自伝や当時のビルマの実情を掘り下げた名著「誰も知らないビルマ」(藤田昌宏著、文藝春秋)などが出版され、それなりに実態が明らかになったわけだけれど、日本に逃れてきたビルマ人たちも政治難民を申請したがなかなか許可されないことで日本滞在を諦めて米国などに移住していった人たちが多かったことを記憶している。ぼくの友人2名もどちらも米国に移住した。現実に軍事政権から故郷に残した親・親類への不利な仕打ちがされないとも限らない、という不安も絶えずあったと聞いている。

今回の国家顧問職(英語ではstate counselor)の創設は、従来外国籍の子供を持つビルマ人は大統領にはなれないという憲法を改正する時間と手間を考慮して、大統領の上の究極的国家元首職として国家顧問としたことで上院下院とも軍人出身国家議員を抑えて承認した。8888民主化運動から28年になろうとしているが、本当にようやく名実ともにアウンサンスーチーが国の母となることになったわけである。

さて、今回は最後に四半世紀以上も前のビルマ旅行からのスナップ写真をご紹介。定番のシュエダゴン・パゴダ(仏陀の聖髪が納められている。ミャンマー最初の世界遺産ピュー遺跡に続いて世界遺産になるか?)、カンドージ湖のカラウェイクパレス(シュエダゴンが左に見える)、乾燥納豆を売るおばさん(結構うまい!)、超古い懐中電灯(使えるんだろうか、そもそも)を売る露店、強烈に古いラジオを直しているらしいエンジニア君。今は、経済状況も一変して、生活もかなり豊かになっているんだろう。

シュエダゴン・パゴダ
シュエダゴン・パゴダ
カンドージ湖と左にシュエダゴンの尖塔
カンドージ湖と左にシュエダゴンの尖塔
乾燥納豆
乾燥納豆
超古い懐中電灯の露店
超古い懐中電灯の露店
古いラジオを直してる?
古いラジオを直してる?