夕方にチェルシーを散歩してChelsea Morningを書いたジョニのアパートを見た。

チェルシーはロンドンにもあるが、ニューヨークのチェルシーは14丁目から30丁目、東は5番街西はハドソン川岸までの地域。南にグリニッジジ・ヴイレッジと接する。地価が高騰してソーホーから移ってきたアーチストのギャラリーが増えた1990年代からニューヨークのアートの中心となった。ジョニ・ミッチェルが一時住んだ1960年代はフォーク(その後のシンガー・ソングライターたちの音楽含め)、ロック及びジャズのメッカだったから、多くのタレントが世界から集まってきた。例えば、ビートルズ解散後のジョン・レノンは人生の最後の10年ほどをヨーコ・オノとニューヨークに住んでいたが、ホテル住まいを終えた最初の住居はグリニッジ・ヴィレッジの105バンク・ストリートのアパート。ミネソタからはボブ・ディラン、カナダからはレナード・コーエンやジョニもグリニッジ・ヴイレッジにやってきた。

レナード・コーエンとジョニとのことについてはちょっとメモしておかないといけない。ベテラン音楽ライターでウクレレ奏者でもあるシルヴィー・シモンズのレナード・コーエンの伝記「I’m Your Man: The Life of Leonard Cohen」の紹介には、この2人は短期間恋愛関係にあって、ジョニはレナードを尊敬し、「読むべき本のリスト」を教えもらったりしたという点で、師弟の交わりのようなものでもあったと。レナード・コーエンはボブ・ディランやルー・リードも尊敬し現在存命の大物ミュージシャンズ・ミュージシャンだけれど、Wikiによると上記シモンズ作の決定版ともいえる伝記は中国語を含む世界18言語で翻訳されているらしく、日本語で出ていないのはまったくもって残念だ!近々ぼくも入手予定です。

チェルシー・モーニングは他のジョニ作品の大ヒット曲Both Sides Nowなどを世に知らしめたジュディ・コリンズが1969年4月にシングル・リリースしていますね。ジョニ自身のアルバムではセカンドアルバムClouds(1969年5月1日リリース)所収。ちなみにジュディもレナード・コーエンの名曲スザンヌなど取り上げてますね。ジュディ・バージョンのチェルシー・モーニングがビル&ヒラリー・クリントンの一人娘チェルシーの名前の由来になったというのは有名な話。

おなじみのオープン・チューニング(この曲はオープンD)のD-28のイントロで歌はこんな風に始まる。

Woke up, it was a Chelsea morning, and the first thing that I saw

Was the sun through yellow curtains, and a rainbow on the wall

Blue, red, green and gold to welcome you, crimson crystal beads to beckon

朝起きると最初に目に入ってきたのは黄色のカーテンを通して朝陽が差して、壁には虹がかかった。ようこそって言ってくれてる・・・。なんと瑞々しい抒情。

ジョニ自身は、この曲について、「フィラデルフィアで友達とスラグ・ガラスを町で拾ったのよ。私はこのガラスとワイヤ・ハンガーでモビールを作って、ニューヨークのアパートに飾った。若くてスイートな時代だったわ。レコーディング契約を獲得する前だったし。スィートな曲だけど、私のベストの曲ではない。純情可憐な少女の作品」とロサンゼルス・タイムズのインタビューに答えている。でも美術学校出だけあって、ジョニの詩はとてもカラフルなイメージに満ちている。スラグ・ガラスっていうのは、ガラス溶融炉の残留カスで、天然のガラスにはない鮮やかな色なのだと。人工のものが天然のものよりも鮮やかだというのも面白いね。

このアパートとは1967年にジョニが引っ越してきた41 West 16th Street。真ん中の茶色のレンガの建物。上品でいい建物だな。この窓から朝陽がさして虹が壁に映ったんだね。ジョニ23歳。デイヴイッド・クロスビーがプロデュースしたSong to a Seagull (1968)でデビューする前年です。

41 West 16th Street , New York
41 West 16th Street , New York, New York

さて、グリニッジ・ヴィレッジの歴史をメモしておこう。

グリニッジ・ヴィレッジは1609年にオランダ東インド会社に雇われたヘンリー・ハドソンが「発見」し、当地に先住民であったマンシー族、モホーク族などのインディアン[1]と毛皮などの交易をし、1623年に正式にオランダ西インド会社が設立され、北は現在のニューヨーク州都のオーバニーから南はペンシルバニア州フィラデルフィアあたりまでの新オランダ植民地ができた。当初はインディアンに支援を受けて交易・入植を拡大したが、17世紀中ごろから武力でインディアンを追い出していくわけですね。第二次英蘭戦争(1665~1667)終結時の講和条約によって北米植民地の新オランダをイングランドに割譲し、当時の国王チャールズ2世の弟ヨーク候が戦線指令だったことからニュー・アムステルダムはニューヨークとなった。なお、現在インディアンの各部族は連邦法によって自治国家としての権限を行使できる。連邦保留地(レザヴェーション)に部族国家、部族学校、医療センター、カジノが建設されている。ニューヨークには全米都市で最大の87,000人のインディアンが住んでいるそうです。(Wiki情報

それからの歴史は端折り、産業革命でハドソン川対岸のニュージャージーで工業生産が盛んになると、マンハッタン中心部だったグリニッジ・ヴィレッジは人口が流出して寂れ、家賃の安い、したがってカネはないが夢はある若者たちの住処となったというわけだ。19世紀末から20世紀中ごろまで芸術家の天国、ボヘミアンの町、と呼ばれ、西海岸のサンフランシスコと並んで反体制文化の東海岸の中心地だった。

また、ニューヨークは世界からタレントが集まってきたのは昔からだけれど、2度の世界大戦、さらにナチスによるユダヤ人迫害が拍車をかけたからなのだろうな、目立つようになったのは。アインシュタインなどの科学者、作家ではハインリヒ及びトーマ・マン兄弟、ブレヒト(最初はスウェーデンに逃げた)など、女優ではマレーネ・ディートリッヒ、音楽ではホロヴイッツ、ワルター、シェーンベルク、ミヨー、映画音楽のコルンゴルトなど錚々たる面々。すごいなあ。

[1] 「インディアン」であって「ネイティブ・アメリカン」とすべきではないという決議が1977年に国連議場でされている。(Wiki)