ニール・ヤング初来日から40周年!

ニール・ヤングの1976(昭和51)年の初来日公演は3月3日の名古屋皮切りで今日10日と11日が武道館。ぼくは2日目の11日に行った。大学1年の春休みだったなあ。

日本武道館は1964(昭和39)年の東京オリンピックに柔道が正式種目に決定したことを受けて、「天皇陛下からの御下賜金の下、国費と国民の浄財およそ20億円をもって」同年9月に完成、開会式の1週間前の10月3日に開館している。御下賜金が幾らだったかは明かされてはいないようですね。個人情報だよ(笑)。日本が独立国として世界に再登場した1952年(昭和27年)から行われている全国戦没者追悼式は1965(昭和40)年からはここ武道館で8月15日に行われるようになった。武道は神道すなわち戦前は天皇そのものと一体化して理解されていたから、そうした歴史を考えるとちょっと恐ろしいものがある。昨年秋にNHKで放送された「カラーでよみがえる東京 ~不死鳥都市の100年~」に登場した作家の杉本苑子は昭和18年の学徒出陣壮行会とその21年後の東京オリンピック開会式のどちらも同じ明治神宮外苑競技場(正確には東京オリンピックの開会式会場は明治神宮外苑競技場が解体され1958(昭和33)年に竣工して昨年に解体された代々木国立競技場)で見たことに触れて「きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれがおそろしい。」とコメントしている。それと同質の恐ろしさ。2020年東京オリンピックに向けてここに「新国立競技場」が建設されようとしている。

剣道豆知識というウェブサイトがあって、明治維新で武士脱刀令、廃刀令が相次いで公布され、身分制度も廃止されて武士階級は消滅、府県によっては剣術の稽古そのものを禁ずるところもあり、一般に剣術は時代遅れと罵られ士族階級は生活が困窮して行ったけれども、明治10年の西南戦争の鎮圧に東京警官隊の中から選抜された抜刀隊の大きな働きがあり、これを契機として、警視庁では剣道が見直され、また自由民権運動の全国的な盛り上がりに対処することもあって、奨励されるようになった。明治27年の日清戦争に勝って尚武の精神の横溢していた翌年、武道の総本山として大日本武徳会が設立され、以後太平洋戦争に至るまで、学校における剣道の正課授業、武術教員の養成及び紀元二千六百年奉祝等の天覧試合などを通じて全国に「尚武精神」を広めていった、というわけだ。太平洋戦争では日本刀を用いて敵を斬殺できる場面があったとしても、それは陸上戦で追い詰められて最期の決死の場面でのことだったろうし、「尚武精神」と日本刀の技術も実務上の戦略上の有効性はほとんどなかったということだ、残念ながら。ぼくの子供のころはチャンバラ遊びはまだしていたけれどね。丹下左膳や鞍馬天狗だよ。

ブドーカンは完全に外国ミュージシャンの日本(とグローバル市場)における地位を証明する代名詞になっているけれど、なんと、最初の「外タレ」は1965年7月の日フィルを指揮したレオポルド・ストコフスキーだった。バッハのトッカータとフーガニ短調、ベートーベンの運命などを演奏しているね。聴いてみたいと思い探してみたけれど、廃盤のようで残念。外タレはその後、ビートルズ、ウォーカー・ブラザーズ、モンキーズと続き、1970年代に入るとシカゴ、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル等、大物は「初来日」=武道館公演という定式が確立した感がある。「人気外タレが武道館」というブランド価値が認識されたことから、西条秀樹を嚆矢(1975年)として日本人ソロ・アーティストも続々とワンマン公演を行うようになって、現在に至る。

さて、ニール・ヤングの初来日公演の模様はそれぞれ海賊版が出ていたことは知っていたが、先ごろ武道館公演のものをウェブで入手。この手の海賊版は日本のオークション・サイトでもよく販売されているけど、何回か購入したことのあるDiscogでも見つけたので、オーダーを入れたらなんと売主は日本人でかつ隣町の在住の人だった。売主さんは買い手が外国とばっかり思って送料を6ドルで決済したのだが、相手は日本人と気が付いて実際の送料との差額を戻してくれた。ありがとう!そうなんですね、中古CDの商売は一定固定額でもらう送料(国内でも普通に350円)が収益源だもんね。

ニールの初来日公演に関する日程感。名古屋、大阪3日、福岡、東京2日の7回の日本公演の後にはオスロ(3/15)、デンマーク(16)、ドイツ(18-20)、パリ(23)、オランダ・ベルゴー(24-26)ロンドン(28-4/4)、グラスゴー(4/2)でユーロ・ジャパンツアー終了。ハマースミス・オデオン(現ハマースミス・アポロ)で4日間連続となったロンドン公演もいい演奏だったと言われているけれども、ファンの間ではツアーの始めとなった日本公演の質の高さには定評がある。

Tell Me Why がオープニングでマーチンD-45がキラキラしてカッコいいなあ、いい音だなあ、ハマリングの箇所もなにげにいろいろ自在でうーん、と感動していたことを思い出すなあ。After the Gold Rush とか日本公演だけで演奏したOnly Love Can Break Your HeartやHeart of Goldなどの過去の人気曲はもちろんカバーしたけれども、多くの最新曲を披露している。このツアーで披露した世界初演10曲のうち半分の5曲が日本公演での披露。その5曲はどんな曲かチェックしよう。Disc1の4曲目のToo Far Gone は幻のアルバムとなってリリースされなかったChrome Dreams(1977) に収録される予定だった曲。6曲目のLet It Shine は半年後の9月に発売されたStills-Young BandのLong May You Runに収録される曲。8曲目のNo One Seems to Knowは未だにアルバムには収録されていないがこのツアーでは殆ど毎回演奏した曲。Disc1最後のLotta LoveはComes A Time(1978)に収録、そしてDisc2の1曲目の永遠の名曲となるLike A Hurricane(American Stars ‘n Bars収録77年6月)。スティーブン・スティルスとのLong May You Runの前、1975年11月のZumaの後というタイミングでの日本・ヨーロッパのツアーだったニールには、1973年暮れに身近な2人(クレージー・ホースの盟友ダニー・ホイッテンDanny WhittenとCSN&Yのローディ(業界用語でツアーの楽器の運送・セッティング等の裏方さん)だったブルース・ベリーBruce Berryのドラッグ中毒死があり、また女優キャリー・スノッドグレスCarrie Snodgress(1945~2004)との間の子供の脳性麻痺のことや、その後の別れやらがあってヘビーな時期であった。ダニーとブルースの死を受け止めるために作ったTonight’s the Night(1973年8月。でもこの作品のあまりの「暗さ」のためにレコード会社のリプリーズが、これは売れないとしてお蔵入りを決断し、2年後にザ・バンドのリック・ダンコの強力な後押しもありリリース。当初は売れなかったけれども今ではニールの最高傑作の一つとして評価が確立している。)を作り、Harvest(1972)の大ヒットが及ぼした余波をなんとかこなし、自分の道を苦労しながら一つ一つ歩んでいる、そんな時期だっただろう。日本公演の質の高さも、そんな時期のニールだったからか。そして今もマイペースで社会問題に切り込むニールの出発点は、この時期の自分の道の模索にあったのかな。このぼくもあれから40歳トシを取りました。ありがとう、ニール。

日本公演ちょっと前にクレージー・ホースに参加したフランク“ポンチョ”サンペドロがローリング・ストーン誌のこの時の武道館公演についてインタビューに答えた記事がある。前年のZumaのレコーディングセッション以来の少しの経験しかニールとはなく、緊張もしていたため武道館の演奏前にアシッドを少しやっていたからさ、ギターを弾くと弦一つ一つの音が8色でそれが床にバウンドして天井に当たるんだよ・・・・

おいおい、フランク、ニールがどれだけドラッグで大事な人を失ってきたか、わかってたのかよ、と言いたくなりますが、フランクはフランクなりに必死だったんだろう。2010年にハワイに移り住んで有機農業をコリアン・アメリカンのチョー先生(チョー先生自身は日本人から習っている)に習って、マンゴーやパパイヤを作って、今やインストラクターになっている、そんなフランクだよ。

Youtube 音源でNeil Young – Yesteryear Of The HorseというDVD映像がアップされている。2日間の武道館公演とロンドン及びグラスゴーなど欧州の一部音源も加えた1時間ちょっとの編集もの。武道館の音源は37分くらいまで。音も映像もそれなりだけれど、ご覧ください。

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