与力堂山人 のすべての投稿

小学2年の夏に祖母に連れられて乗った田舎のバスで、運転手がラジオのスイッチを入れたとたんに流れたビートルズのプリーズ・プリーズ・ミーのジョンのハーモニカイントロとポールの通奏”高音”ハーモニーに腰を抜かしてからのいろんな音楽と、白神岳で開眼した山遊びのメモワールです。プルースト的無意志的記憶と音楽の力・コミュニティ・コミュニケーション(原初の意味では「お互いにし合う贈り物」でしょうか)などについても、この与力堂が折に触れて書きたいと思います。

ミヨーの弟子           デーブ・ブルーベック       Dave Brubeck(1920~2012)  

ダリウス・ミヨーの三題話、じゃなくて「三代話」みたいになったけど、ブルーベックがミヨーの弟子だったことは知っていたので、改めて復習と新しい知識を得ようと思う。4歳で母親からクラシック・ピアノを習ったが、父親を手伝いストックトン(日系人の多い土地ですちなみに。ブルーベックは自分のカリフォルニアの家はかなりオリエンタル風だったと言ってる。)の農場に引っ越し、パシフィック・カレッジに入学し獣医師になろうとしたが、教師がお前は音楽に向いているとして、音楽学部に転部。斜視で目が悪く、楽譜が読めなかったため追い出されそうになるものの、対位法や和声では群を抜いているとした教師の応援もあり、音楽教師にはならないと約束させ(学校側は「スキャンダルを恐れて」ということだけど、ひどいもんだ)1942年に卒業。

カレッジを卒業後、陸軍に入隊、1944年にはパットン将軍率いる北フランス戦線に出征。映画にもなった1944年暮れから1945年正月にかけての米軍主体の連合軍対ナチス国防軍のバルジの戦いですね。現地の赤十字でピアノを弾き、目をかけてくれた上官によって最前線での戦闘を免除してもらう。芸は身を助くだね。前線の軍楽隊で演奏しているころにポール・デズモンドと出会う。

1946年に大学に戻り(例のGIビル(復員兵援護法)で軍隊から復員すると大学などの授業料を国が負担してくれて学べる。ジョン・コルトレーンもこの制度を利用してますね。)オークランドにあるミルズ・カレッジMills Collegeでダリウス・ミヨーについて学ぶ。お兄さんのハワードがミヨーのアシスタントだったこともあっただろうね。(おお、今のミルズ・カレッジの音楽学部教授はロスコー・ミッチェルRoscoe Mitchellだよ!アート・アンサンブル・オブ・シカゴの!)ミルズ・カレッジ卒業後、カル・ジェイダーCal Tjaderとのトリオ、ミルズ・カレッジのミヨー弟子仲間のBill Smithなどで結成したオクテットなどで数年演奏、1951年にポール・デズモンドとカルテットを結成。サンフランシスコのブラック・ホークでの演奏、大学キャンパスでのコンサート(オバーリン大学などが有名です。Jazz at Oberlin)で評価を確立、という流れです。タイム誌の表紙を飾るというのは名声の頂点を象徴するわけだけど、1954年にブルーベックはジャズマンでルイ・アームストロング(1949年)に次いで2人目の栄誉に輝いた。その後ブルーベック・デズモンドのチームで世界的に知られるようになり、中でも変拍子のテイク・ファイブ(5/4拍子、ブルー・ロンド・ア・ラ・ターク(トルコ風のブルーな輪舞曲、ですか)は(9/8拍子)を含むタイムアウトTime Out(1959)はジャズのレコードで初めて百万枚のセールを達成した。

Brubeck_TimeMagazine

ブルーベックの師ミヨーへの感謝と尊敬は、長男にダリウスと名付けたことでも知れるけれども、ミヨーはブルーベックに「ジャズはアメリカの風土に根差した音楽だろう?生涯ジャズを続けなさい」と励まされた。前回のポストで、ミヨーの世界遍歴(といっても基本は欧州・南北アメリカだけど)で自らの音楽を豊かにしたことについて触れたけれど、その土地に根差した心の音楽というのがあるのだ、その音楽に耳を傾けよということを教えた。実際にブルーベックは4枚の「どこそこのジャズによる印象」をレコードにまとめて発表している。選んだ国・地域はU.S.A.、ユーラシア、日本、ニューヨーク。日本には1964年春に来日、その印象をJazz Impressions of Japan(1964)という作品にまとめている。ジャケットがいいね。歌川広重の東海道五拾三次庄野白雨に似た雨の描画だけれどちょっと違うね。誰か知ってたら教えてください。この日本の印象アルバムは2001年にリイシューされるまで長く廃盤になっていた。

オープニング・チューンのトーキョー・トラフィックTokyo Traffic は羽田に到着して警察に先導してもらって都心に向かう道路のクレージーな混雑状況が第一の印象だったとしていて、中国風のドラが使われていたりしてクリシェのところもあるけれど歯切れのいいナンバー。3曲目のフジヤマFujiyamaも印象的なメロディ(レッド・ツェッペリンLed Zeppellin の天国への階段Stairway to Heaven のもとになっているというハナシもあるようだけど。うーん確かにそんな感じもするなあ)。ラストのコト・ソングKoto Songは東京、名古屋の公演後に京都で休んだ際に聴いた「2人のジャパニーズガール」の演奏からインスパイアされたもの。全般にクオリティは高いです。

hiroshige庄野 白雨
東海道五拾三次庄野白雨(歌川広重)

その後大阪公演を終えて羽田に飛んで数時間のトランジットで香港へ。香港からカリフォルニア・ニューヨーク公演のためにアメリカにとんぼ返り、その後1日2回10日間の英国公演。すごいね。

ミヨーのレクチャー・コンサートを聴いた          Darius Milhaud (1892 ~1974)

恵比寿の日仏会館でたまにやる、作曲家のおさらい的レクチャー・コンサートはその作曲家の研究や演奏の先達が行うこともあり、よく行くイベント。今回は「ダリウス・ミヨーとその音楽の魅力」。音楽評論家の野平多美さんがレクチャー、夫君の野平一郎さんがピアノ、ヴィオラの第一人者川本嘉子さんも参加して、というなかなか豪華なものになった。

1974年にこの世を去ったダリウス・ミヨー。徴兵年齢に達していたフランスの男性の半分が戦死したと言われている、人類始まって以来の災厄となった第一次大戦後に、フランシス・プーランク、ジョルジュ・オーリックなどと印象派に代わる新しいフランス音楽を担う若手「6人組」としてパリの音楽シーンに登場していた。若いころから慕っていた郷里の詩人フランシス・ジャムの計らいで詩人・外交官ポール・クローデルに私淑。(クローデルは大正10(1921)年から約5年は駐日フランス大使。ロダンとの愛が有名なカミーユ・クローデルは4歳上のお姉さん。映画にもなりましたね。)第一次世界大戦下の1917年にはブラジルの文化大使となったクローデルに誘われて秘書としてブラジルに同行。フランスへの帰途の途中にニューヨークのハーレムでジャズも聴いている。このときの経験が、対位法、西欧中世のポリトーナル(多調)の基盤に加え、ミヨーの音楽にブラジルの音楽(ブラジルのショパンと言われるナザレーの演奏に触発され、ショーロやタンゴの旋律を引用して作った「ブラジルの憂愁」やアメリカのジャズ(アルトサックスのソロを室内楽の編成でジャズオーケストラの作品とし、パリの1923年の初演時には大酷評(!)された「世界の創造」)と彩りとリズムを与えた。1923年のパリはまだジャズが輸入された直後だったから先進的過ぎたんだろうね。

ミヨーは南仏の自然を愛し、気持ちの優しい、誠実で誰にでも穏やかに接する人間だったといわれている。2008年に105歳で大往生を遂げた奥さんのマドレーヌはいとこだったため(結婚前も結婚後もマドレーヌ・ミヨー!)、ミヨーが子供のときからのいろんなエピソードを残してくれている(注)。ミヨーの生家はアーモンドの輸入業者で、家は出入りする運送業者や商人たち、車や機械のいろんな「豊かな音」に満ちていたこと。ユダヤ人だったミヨーがナチス・ドイツの危険から逃れるためにリスボン経由アメリカに逃れたときも、入国ヴィザにおける制限事項として財産を持って入国してはいけないという条件を「文字通り」に理解し一文無しの状態でニューヨークに渡ったため、翌日から音楽を演奏するなどして移動資金を手に入れなければならなかったこと。西海岸までレンタカーしてトンデモ珍道中だったこと、など。それでも誰にでも好かれる性格も幸いしてか、西海岸のミルズ・カレッジでの教師の職を友人が見つけてくれて、第二次大戦終結の1946年に帰国しパリ音楽院の作曲家教授に就任してからもミルズ・カレッジでの教授を継続しデイブ・ブルーベックやバート・バカラックら多くのアメリカ人作曲家・ミュージシャンを育てた。

2014年に没後40周年を記念して、ダリウス・ミヨー没後40年記念ボックス(10CD)が発売となって、お得にいろんな作品に接することができる。野平・川本デュオの熱演は素晴らしいものだったので多くの人とシェアできないのは残念だけれど、当日の演目「第2ソナタ」と「4つの顔」(このアルメニア人のホブハニシアンの演奏もいいね。最初のLa CalifornienneとラストのLa Parisienneが特に素晴らしい)、それとこれもぼくの好きな「ブラジルの憂愁」(サウダージ!です)を、YouTube音源から。「ブラジルの憂愁」のブラトキは子供の時からの先天的な病気で白内障となりそのハンディを公にしないで若い頃から世界各地で演奏していたが、44歳で手術が成功して視力を回復した、という人。

「ブラジルの郷愁」Saudade do Brasil Op.67(1920) Marcelo Bratke(p)

「第2ソナタ」ヴィオラとピアノのためのOp.244 (1944)Tomas Tichauer(vla), Barbara Civita(p)

「4つの顔」Op.238 (1943) Gor Hovhannisyan(vla), Gary Kirkpatrick(p)

(注)Conversations With Madeleine Milhaud: Roger Nichols (1996)。この本の6年後の102歳(!)のときのインタビュー映像もあるので、興味がある方はどうぞ。これ。

セシル・マクロリン・サルヴァント           Cecil McLorin Salvant

このバレンタイン・デー・ウィークエンドにニューヨークのリンカーンセンターで公演していたセシル・マクロリン・サルヴァント。1989年マイアミ生まれ。8歳でマイアミ合唱協会で歌い始め、2007年には法律を学ぶためにフランスのエクサンプロバンスに移るが、同時にミヨー音楽院にも顔を出してジャズも勉強して、あれよあれよという間に2010年、最近はジャズ・ミュージシャンの登竜門として確立した感のあるセロニアス・モンク・コンペティションで優勝。父はハイチ人の医師、母はグアドループ出身のフランス系混血。

3年くらい前のニューヨーク・タイムズ紙にセシルの紹介記事があったのでおさらいしてみた。昨年の最新作「フォー・ワン・トゥ・ラヴ」For One to Love発表後のユニオン・スクウェアのJazz Standardでのギグ(8月末)の批評記事も併せて参考にした。誰が彼女の才能を見つけたのか興味があるし。両親の祖国とマイアミという環境はいわゆるジャズの伝統的COEであるニューヨークとも現在の欧州COEのイタリアでも北欧でもない。クレオール的なもの(混血志向)があるのかなというカン。

ミヨー音楽院のジャズ教師のジャン・フランソワ・ボネル(sax.cl)になんか歌ってみろと言われ、Body and Soul を披露したところ、ボネルが彼女の才能を見抜いた。サラ・ボーンのBrazilian Romanceは母親が家でかけていたため諳んじていたけれども他の先人たち、ビリー・ホリディもエラもベッシー・スミスも知らなかったため、先生はこうした先人たちの音楽を教え込み、4か月後には地元 エクサンプロバンスで最初のギグ。

彼女のマネジメントを行っているエド・アレンデルという人が、顧客は他にウイントン・マーサリスだけだ、というのが弱冠26歳だというセシルのすごさを物語る。マネジメントを行う人=マネジャーなんだけれど、マネジメントの巧拙(プラス運もあるが)でミュージシャンもアーチストもせっかくの才能を発揮できないまま埋もれてしまうことも多いだろうし。

ニューヨーク・タイムズ前述記事は、「音楽的才能がある若いミュージシャンの成長の尺度はものまねをいかに抑えられるかという点にあって、サラ・ボーンのように、ビリー・ホリディのように歌えることに全く問題はないのだが、彼女の他のミュージシャンと違うところは、まったく別の路線からジャズに来ていること。昨年の最高の音楽は英国のジョージ・ベンジャミンの歌劇Written on Skinリトゥン・オン・スキンだという。」(このオペラは2012年エクサンプロバンス音楽祭で初演され全欧で評判となったもの。従来のオペラの境界を拡大した意欲作とされている。)ははーん、やっぱりね。

上記最新作を聞いてみる。あ、サラ・ボーン、お、ビリー・ホリディという瞬間瞬間があるけれども、そのうちそれだけではない力強いもの、たおやかなもの、いろんな表現が一つ一つ軽々と広々とデリバーされているのかな。ニューヨーク・タイムズのshe’s too good not to get better.という評価がまったく妥当なものだということがわかる。ダリウス・ミヨー、フランシス・ジャムを生んだエクサンプロバンスの開放性と、自分のハイチ、グアドループというクレオールの(カリビアンにはコロンブスの新大陸「発見」当時からの歴史的背景から現在でも英、仏、蘭などの海外県・領土があり、住んでいる人たちはこうしたフランス人やオランダ人と現地人(現地人自体がアフリカや他のカリビアン諸国から連れて来られた人たちとの混血)との混血なので初めから、いろいろなものを「混血」していくことに慣れているのか。最新作でもう一つうれしい驚きはバルバラ(1930~1997)の名曲Le Mal de Vivreを歌っていること。

この名曲は、大学で仏文を勉強したフランコフォル・アメリカンのステーシー・ケントも全曲フランス語のアルバムRaconte-Moi(2010)に収録。

セシルはまだ27歳。すでにすごいけれども、これからさらにどんなすごさを身に着けていくのかなこのシンガーは。

大館ミントンハウス      ファン交流       弘前大学フランコフォニーの親分さん

ミントンハウスのファンつながり。

弘前大学の人文学部准教授でフランス語教師をしつつ、りんごつながりでブルターニュのシードルづくりの人たちとつながりなどの中心的役割を果たしている熊野真規子さんのことを聞いたので、ファンレターを出した。ぼくもフランスにはお世話になっているクチなので(アンドレ・ブルトンを中心とする、第一次世界大戦における人間同士の殺戮に対する絶望から生まれた運動としてのシュールレアリスムを勉強していたので。師匠はプルースト研究者だが。)、かつ日本では文科省が「文系」(いまどき「文系vs理系」などというガラパゴス世界観は日本くらいじゃないのかな?)学部は「経済成長に役に立たない」から「基本的に廃止せよ」とのお達しを出している昨今、かつ日本ではアメリカ経由の世界観リスク観しか大メディアでは報じられないため、自ら積極的に欧州などのメディアをきっちり見聞きしておかないと、いつか来た道になると思っている。日本で垂れ流されている情報(特に地上波TVの言説・グルメ・お笑い関係の情報は)はそもそも一億総○○にするためのものであるのは言うまでもないと思うので、相手にしてはいけない、マジで。

フランコフォニーFrancophonie(世界中の様々な文化圏に属する、民主主義や人権といった普遍的な価値観とフランス語とを共有すること)を手段として、気づきやつながりを創造していっている人たちへエールを送りたいなあ。

弘前の伝統もある(太宰も、ハイカラ好きも、フレンチ・レストランが異様に多い街であることも、そして世界に冠たるリンゴも)。目の付け所は良かったね、だけで終わらせてはもったいないね。イノベーションをおこそう。

「皆さんが見つけた、弘前にあるフランスに関わりあるものや人を教えて下さい」という取り組みも、イノベーションにつながるね。Allez!

大館ミントンハウス   佐東画伯       兼マスター兼オーナー

昨年11月のパリのテロ事件の直後にミントンに行ったときに、マスターの佐東さんと、ふとしたことでパリの話になった。ぼくもパリは出張含めて何回行っているのかな、5回か。サン・ドニ近辺でのテロだったから、昔からイスラム系の人たちが多い物騒な地区ではあったし、佐東さんもちょうどパリに行っていたことは知っていたので、大丈夫でしたかと聞いたところ、作品をサロンに出展したので行っていたのだとのこと。もう何年も入選作を出展している常連なのだ。今年はニューヨークにも進出するとおっしゃっている。ぼくもニューヨークは7月ごろに行こうかと企んでいるところ。

佐東さんのサロン出展作品をいくつか紹介。どれも鮮烈な水彩=Water Colorだ。

M.Akira SATO_Salon D'automne 2012M.Akira SATO_Salon D'automne 2013 M.Akira SATO_Salon D'automne 2015

 

 

デクスター・ゴードン    最後の映画「レナードの朝Awakenings(1990)」つながりで         ランディ・ニューマン   

デックスの死後公開された最後の映画は、嗜眠性脳炎患者にパーキンソン病要の薬を応用して目覚めさせる実際の試みを医療フィクションものに仕立てた「レナードの朝」で、役はミュージシャンのロランド。医師役はロビン・ウィリアムズ(注)で、ランディ・ニューマンが音楽担当。病院に父親を見舞いに来ていたポーラが好きになり、レナードが勇気を出してポーラに心のうちを打ち明け、彼女の手を取ってダンスをするシーンで流れるDexter’s Tune という死ぬほど美しい曲がある。これはランディ・ニューマンのソングブックvol 1のオープナーIt’s Lonely At The Topのイントロとして使われているけど。

ランディ・ニューマン(1943~)はLA生まれのシンガー・ソングライター。70年代からイーグルズ、ジャクソン・ブラウンらと親交がある、この人もミュージシャンズ・ミュージシャン。最近は一家の伝統芸?(伯父、叔父が映画音楽の大作曲家)である映画音楽中心に活動していて、トイ・ストーリーの「君はともだち」なんかも文句なしの名作。

ぼくは1980年にBorn Again(カバーが目がグリーン$$のいで立ちのランド(と仲間内では呼ばれるので、ぼくもそう呼ばせていただくとして)がバンクランプのあるデスクで執務している。デスクに飾ってある家族の写真にも妻・子供2人全員の目がグリーン$$になっている!)を買って、しょっぱなのMoney That I Loveの強烈なアイロニーにまず参り、Ghostsの静謐で美しい虚無に参り、以来ずっとファン。

映画音楽というのは、視覚と聴覚と記憶と想像力を、刺激するものなのだろうし、そういう視点でランドはものすごくエモーショナルな作品を作る天才。彼のウィットが聴いた皮肉は英国人にはさらに受けると見えて結構英国に仕事に行っていて、2008年のツアーでロンドン東部にあるロンドン交響楽団のセント・ルークス(18世紀の教会を音楽ホールに改装)で行われたLive in Londonでもお客さんを大いに笑わせている。このスモールライブでも演奏したが、The Guardian 紙の日曜版Observerの企画How I Wrote(「名作のいきさつ」シリーズでしょうか)に呼ばれて夜行便で会場に着き、あー声がガラガラだよ、よれよれの表情だよなー、などといらついて、メーク担当に頬紅塗ってよ、まだ昼前だから雰囲気でないな、シャブはないの?などと回りを大笑いさせて、ピアノに向かって、この曲。ランドの腫瘍内科医の弟アランAlanから23歳のアメフトのスターが脳腫瘍で治療の甲斐なくあっという間に天に召されたことを聞いて作った曲なんだって。人はある年齢になってからは乗り越えられない悲しみというのがあるって、演奏前に話しかけます。泣けます。

(注)2014年にうつ病で自死したと報道されていたが、つい3か月くらい前に夫人のスーザンさんが、うつ病が主原因ではなくレビー小体型認知症への闘いの結果の自死だと明かした。この映画とロビンの死に因縁めいたものを感じる。

デクスター・ゴードン    1ホーン・カルテットの夜    映画「ラウンド・ミッドナイト」

ニューヨークに5年ほど住んでいた1980年代後半。モンクはこの世を去っていたが晩年のマイルスは、マーカス・ミラーMarkus Millerらのフュージョン系ミュージシャンとのコラボをしていた。ポップ分野ではマドンナが1983年のデビューアルバムが大ヒットし、地位を確立して行った。ボーダーラインBorderlineがMTVでよくかかっていたなあ。ジャズはブルーノート、ヴィレッジ・ヴァンガードの主要どころと43丁目の6番とブロードウェーの間で当時の勤務先からも近かったタウンホール(なぜかブラジルの独立記念日あたりにジョアン・ジルベルトとか弟子のカエターノ・ベローゾとかも来て演奏していました。もちろん行きました!)とか聴きにいっていたかな。

チケットの半券を大事に持っていたから日付もはっきりしているけれど、ワンノブ人生最高の演奏を聴いたのは、デクスター・ゴードンDexter Gordon(1923~1990)の1988年12月9日、コネチカット州スタンフォードStamfordのパレス劇場(Palace Theater)でのもの。メンバーはTommy Flanagan(p)、Ron Carter(b)、そしてBilly Higgins(ds)。このトリオを従えて吹くのだから悪いはずはないのだけれど、1986年の映画「ラウンド・ミッドナイト」にバド・パウエル+レスター・ヤング風の役で出演し演技も高い評価を得て(オスカー主演男優賞にノミネート)、サントラ盤も売れ、この年のグラミー賞ジャズ・ソロ部門を受賞し晩年の最後の輝きを示していたときだった。ただ、デックス(Dexというのがファンが呼ぶ愛称)は1962年にアメリカからパリへ、その後デンマークへ移住し、祖国アメリカには仕事があるときだけ戻っていた。少なくないジャズ・ミュージシャンがこうした形で欧州に移住している。ケニー・クラーク、バド・パウエル、ケニー・ドリュー、ジョニー・グリフィン等々。マイルスでさえ、パリに演奏旅行して心から自分たちの音楽を親しみ、対等に接してくれる文化の都に心惹かれ、アメリカに戻りたくなくなった、と記している。(マイルスの場合はジュリエット・グレコとの大恋愛があったからなおさらであっただろう。)(注) いかに名前が売れてきたジャズ・ミュージシャンであろうとも、黒人が生きていくにはひどい目に遭わなくてはいけないのがアメリカという国なのだ、ということだろう。この辺の人種差別問題は21世紀になってからも、セントルイスなどの事件によって、むしろ深刻さを増しているのかもしれない。パリもイスラム国関連のテロがあったし、EU全体が移民に対して神経質になっている現在では、外国人に対する包容的態度は変化してくるのかもしれない。

DexterGordonDec1988 (1024x576)PalaceTheatre

さて、1988年暮れのデックスに戻ろう。会社の仕事を終えて家に帰り、一人で師走のI-95をスタンフォードまで一人で車を走らせ、比較的こぢんまりとした会場の10列目くらいで、プレイヤーの息遣いも聞き取れるロケーション。セット・リストはメモしてなかったから、正確には思い出せないけれど2枚のサントラ盤Round Midnight とThe Other Side of Round Midnightの1986年発表のピースが主に、You’ve Changedもやったはず。 ここでは、Round Midnightに入っているChan’s Song (Never Said)を。主人公のサックス吹きDale Turnerが娘のChanに捧げますとして演奏する映画のシーンからのものと、ぼくが当時よく聞いてた(同い年なので特に!ファンです)ダイアン・リーブズDiane Reevesのセルフタイトル盤Diane Reeves (1987)に作曲者ハービー・ハンコック自らピアノで参加しています。ちなみに作詞はスティーヴィー・ワンダー。名曲。

(注)2006年の英紙The Guardian のマイルスが生きていれば80歳になることを記念して、ジュリエット・グレコとマイルスの恋愛を祝うというインタビュー記事。サルトルが、「君はジュリエットと結婚したらいいじゃないか」とマイルスに言ったのよ、彼は「ぼくはジュリエットを愛しすぎて彼女を不幸にさせちゃうよ」と答えたわ。私が彼についてアメリカに行ったら(人種問題から)散々非難されてうまくいかなかったでしょう、とジュリエット・グレコは答えている。

デックスの夫人マキシン・ゴードンが書いていて2014年には出版の予定としていたその名も「Dexter Calling:デクスター・ゴードンの人生と音楽」 という伝記が、今年には出版されるようだ。マキシン自身の年頭のあいさつに記されている。早く読みたいな。

「証言で綴る日本のジャズ」(著)小川隆夫

ジャズファンで小川隆夫さんを知らない人はまずいない。ご自身も若いころプロミュージシャンを目指し(エリック・クラプトンが弾いていたギブソンも所有している)、新宿が熱い時代のピットインに足しげく通っていたのだから、筋金入りのジャズ愛好家人生を歩んできた人。小川さんDJで2010年から5年弱InterFMで放送していたJazz Conversationは小川ジャズライフを聴取者と共有するとてもいい番組だった。その中の名物コーナーMeet the Star のインタビューを中心に日本のジャズを作ってきたミュージシャンや、クラブやジャズ喫茶の店主、そして貴重な録音を残すなど、ミュージシャンを支援した人たちの、あのときこのときの真実を語ってもらった貴重な記録が、「証言で綴る日本のジャズ」(駒草出版、以下ぼくのブログでは「証言」または「小川さんの証言」ということにする。)として昨年秋に出版され、ぼくもとても面白く読んだ。そして、つくづく、ぼくの世代くらいまではジャズ・シーンにおいても、戦後日本の興隆と停滞、そして若い世代の羽ばたきを実体験として、または十分に感覚的な理解を伴って、見て来られたのだなあと、思った。一方で、インタビューされた大重鎮の方々は、主に昭和ヒトけた世代なので、出版時点で鬼籍に入られた方もいらっしゃるのは、仕方のないこと。この方々の世代から、いずれ聞けなくなる話を内外ミュージシャンの動き、録音技術、ホール・クラブ・ジャズ喫茶などの演奏空間などの側面から業界横断的に記録した、ということだけでも極めて意味のある作品だというべきだろう。

それにしても、ジャズはせいぜい100年程度の歴史のとても新しい音楽で、さらに言えば「踊る音楽」から「聴く音楽」になってから6、70年しか経っていないなかで、日本人ミュージシャンがどのように道を切り開いていったのか、先人たちの証言は興味深い。戦後の連合国軍占領下で首都圏中心に多くの米軍基地の将校クラブ等での音楽ニーズに応えるため、日本人ミュージシャンが東京駅など主要駅で毎日トラックに乗せられて駆り出された様子(ベースは「演奏しないでいい、持って立っているだけでいい」というのは笑える)、連合国軍から再独立(サンフランシスコ講和条約:1951年9月8日調印、1952年4月28日発効)し在日米軍の聴衆ではなく日本人向けに米国人が演奏しに来たこと、などとても興味深いエピソードが満載。おすすめです。太平洋戦争の「終戦」は本来は講和条約締結によって日本が独立を回復した時と考えるのが妥当だよね。

ぼくは小川さんの証言のエッセンスは、日本のジャズの先導者たちが苦労しながら米国軍人相手に腕を上げ、当時のドル円の為替水準もあって破格の収入を得ることで力をつけていき、秋吉敏子、渡辺貞夫などが先陣を切ってアメリカのバークレーメソッドを学習して理論に裏打ちされた日本人のジャズを打ち立て、後進に伝えたこと、その後文字通り世界を股にかけて日本人のジャズを、しかし世界に通じるJazzをクリエートしていったということ、その土台には、日本人の努力もさることながら、アメリカの有力ジャズメンの中の日本滞在中に日本のジャズメンとの交流の中で日本人を大いに鍛えた何人かの人たちの存在も忘れてはいけない、ということだと思う。何回かに分けて、ぼくも証言の中から印象深いエピソードを取り上げて考察してみることにしよう。

今回は証言からのtakeawayシリーズに先立ち、ぼくの小川さんとのお付き合い(こちらがファンだということに過ぎませんが、10 1/2 CAFÉ +でのONGAKUゼミナールではぼくも80年代NY在住だったことなどでしばし雑談しました)のきっかけとなった10年前の「となりのウイントン」(NHK出版)の書評を紹介することにしよう。10年前の短い文章なので、今から読み返すと舌足らずのところもとあるけれど、ご容赦ください。ラストでニューヨークから日本へ戻るときにプーさん(菊地雅章)から自宅ロフトで録音したピアノソロのカセットテープをもらって感激するくだりがあってとても心温まります。プーさん、ぼくも好きだな…。合掌。

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ジャズとニューヨークへの賛歌、そして「おかしな日本」

・・・小川隆夫著『となりのウイントン』

整形外科医とイベント・プロデューサーの二足の草鞋。超個人的ジャズ史、そしてニューヨーク。おお、これは読まないでいられようか。それはぼくも筆者がマンハッタンに住んでいた1981~83年の翌年から5年間ニューヨークに日本企業の駐在員として生活をした経験があるからだし、ジャズを高校生からずっと聴いてきた日本人だからだ。

著者が描くように、ニューヨークにはジャズや他の芸術を学び、自己を磨く苦労をしている人々への社会的な愛情がある。人間に必要なものについての一人ひとりの志が、組織、地域、社会というような形で社会化できるしくみと個人の行動規範があるように思う。それに比べて日本のジャズは、「マスコミが取り上げるものに流される」し、音楽はファド(一時的な流行)として消費されるだけ。こんなことでは音楽文化が育たない。本書でも、コマーシャルに取り上げられた年は3000席のホールが満員になって、翌年同じ会場が空席だらけとなった、ロン・カーターのコンサートの話が紹介されている。

著者はジャズの歴史の中で、最良の時期のニューヨーク・シーンを見聞きし、その証人となった一人であることは疑いがない。ニカ男爵夫人のような伝説的人物との邂逅やマイルス、モンクといった第一級アーチストの生死、日野皓正を始めとする日本人ジャズマンの辛苦。そうしたことへ共感や場の雰囲気というものと著者の若き日の成長を共有できるのも、本書の魅力だ。ぼくのように著者に感情移入してしまう要素を備えた読者でなくても、ジャズを愛していて「マスコミが取り上げるものに流される」日本のおかしさを感じている方についても、この書から多くの発見と示唆をうけることだろう。

今年は、コルトレーン来日40周年の年だった。坂田明さんが、「もっときちんと生きなければいけないということをコルトレーンに教えてもらった」(*)のが1966年だ。日本のジャズを支える何かが久しくなくなっている、そういうことを改めて気づかせてくれる書でもある。

(*)坂田明「コルトレーンが人生を教えてくれた。」 (JazzToday 2006.07)。なお、コルトレーンの来日(1966年7月)時の演奏は多くのミュージシャン、評論家、ファンに対して賛否両論を巻き起こしたことは広く知られているとおり。世界的なコルトレーン研究家である藤岡靖洋さんの著作「コルトレーン ジャズの殉教者」(岩波書店、2011)に詳しい。なお、日野皓正も坂田明と同じように「自分も根性入れてやらなきゃと思ったね」というコメントを紹介している。

レコード大会

秋田大潟村の河内スタヂオで久しぶりのレコード大会。

Kochi Studio

ぼくらの後にタモリ倶楽部では12月に「輝かないニッポンレコード大会」っていうのをハーマン・インターナショナルの試聴室でやってましたが。石神井高校の第34回卒業記念レコードなど、いやー最高!(笑)

ぼくらの大会はフツーにジャズをスコッチ片手に楽しむだけだが、今回のピックは

・アーマド・ジャマルAhmad JamalのChamber Music of the New Jazz、

・モーズ・アリソンMose AllisonのLocal Color

・クアルテート・エン・シーQuarteto Em CyのAnthologia do samba cancao

・ビル・エバンスBill EvansのWaltz for Debbyのオリジナルアナログ音源のダイレクトカット盤

最初の2枚はぼくがワシントンDCに出張した際、週末にメリーランド州シルバースプリングのJoe’s Record Paradise という中古レコード屋さんでそれぞれ20ドルで入手したもの。日本の中古価格の5分の1くらいかな。ワシントン近郊ではここがジャズだけでなくソウルもR&Bも品揃えが豊富で、レンタカーせずともDCのメトロセンターから電車で行けて駅からも歩けるのでおすすめです。

クアルテート・エン・シーは、ブラジルのフリマサイトから苦労して買った(これについては別途アップします。いやー、たった60ドルを送金するのに都心まで行ってコンプライアンス・オフィサーまで出てきて。)の1975年大傑作。アリー・バローゾやカルロス・リラなどの名作を取り上げた最高のサンバ・カンソン集。誰もが知っているエバンスの超超名盤なんだけど、ぼくが今回持参したのは何年か前に買った「オリジナルアナログテープより変換した192kHz/24ビットマスターを基にダイレクト・トランファー・カッティングした」という、ふつうのWFDじゃないもの。こんなレコードを河内スタヂオの大音響でゼイタクに聴いて酔っ払いました。(レコードジャケット写真です。手作り感満載。)

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長年、音楽経験と集めた音源が蓄積してくるとアルバム何千枚か分の音楽在庫から、そのときの好み、気分、思い出したことから主体的に選択する曲、決定版アーチスト、その後のフォロワー、革新者、などなど「聴く」行動をガイドしてくれるものが欲しくなる。ぼくのように、いまだに昔の名盤も聞きたいが新しい作品についてもできる限りアンテナを張っておきたいという欲張りタイプの人間は、どうしたらいいか。レコードが高かった時代には、ジャズ喫茶が新しい作品をいち早く顧客に提供する役目を果たしていたし、ぼくが東京のジャズ喫茶に親しみだした1970年代後半でもジャズの情報はジャズ喫茶とスイング・ジャーナルなどのジャズ専門誌だった。いまもジャズ・ライフなどの雑誌はあるものの、Webがこれだけ発達した現在は、欧米各国のジャズ放送を直接聴くという手もある。

その場合は、やはりセンター・オブ・エクセレンス(COE:ある分野でコアなテクノロジー、人材などがある結果、先頭を走っている地域:この用語はベンチャー投資や起業に関する経済学や大学のハイテク先端研究領域などではよく使われる)の一つのニューヨークの(正確にはハドソン河対岸のニュージャージー州ニューアークの放送局だけど)WBGOも、今はWEBで(iPhoneアプリでも)放送が聴けるのでおすすめ。この正月のWGBO発のニュースは、インド系でイタリア出身のルドレシュ・マハンサッパRudresh MahanthappaがNPR音楽批評家賞を受賞した、というものだった。イタリアも現在のジャズのCOEだということがよくわかるという出来事。インド系の人たちはグローバルに見たら中国系(華僑系)よりも先にジャズCOEに到達しているのかな。

昨日のニール・ヤングの     パリ・プライベート・ショー!

ジャズ喫茶や音楽雑誌が情報を得る場だったことは昔からそうだったと思うけど、あるミュージシャンについて、「母国や海外でツアーでの評判は、次のアルバムは」的な情報は、そもそも海外ミュージシャン(「外タレ」という言葉は1980年代までは外国から日本市場にやってきてコンサート等を行う外国人ミュージシャンを指していただが、現在は「主に日本国内でのみ芸能活動を行っている外国人のタレント」を指すものとなっている(注)。前者の意味での「外タレ」は死語。)について、日本のメディアが報じることはまずないので、またプリントメディアで仮にカバーするとしても1か月2か月後になるので、豊かな音楽人生を歩むためには(!)、早く情報を入手できる自前の手段を持つ必要がある。現在ではこうした手段は基本的にはweb上に提示されているものから、自分で取捨選択でき、有料・無料の情報提供サービスを受けることができる。

メルマガ登録をしておいた英UNCUT誌の今日のトップニュースは、ニール・ヤングのファンとしてはかなりの(!)ニュースだったので紹介する。当然ながら(!)は「驚き」。この驚きには「ファン」であることの立ち位置や理解によっていろんな内容が入るかもしれないけどね。

ニールが前作「ザ・モンサント・イヤーズ」で起用したプロミス・オブ・ザ・リアル(ウィリー・ネルソンの息子たちが在籍するユニット)と共に、パリで投信運用会社カルミニャックCarmignac Gestionのための「プライベート・ショー」を開催。セットリストには曲は発表されてから46年間演奏されていなかったTill the Morning Comes、1997年以来の4回目の演奏となるCripple Creek Ferryを披露した、というもの。どちらもAfter the Gold Rush(1970)のA面とB面それぞれのラスト・チューンで、この2曲をメドレーで演奏している。あれ、Creepleというミススペルになってるけど。

UNCUTはカルミニャックは2012年10月にも同様のプライベート・ショーをローリング・ストーンズを招いて行った実績がある、と伝えている。ぼく的にはもちろん驚きは、うれしい驚き。この懐かしい曲をこれだけの長い間演奏していなかったことは知らなかった。

でも、遺伝子組み換え作物の種子や農薬の販売大手であるモンサントに反対する立場をとるニールとカルミニャックの投資ポートフォリオや投資姿勢にコンフリクトがあったりしないのかなあ、と思ってカルミニャックのサイトを一応チェックしてみた。個々のファンドに組み込まれている個別銘柄までは当然わからないけれど、当然このレベルの投信運用会社なら環境・社会・ガバナンス(ESG)問題に配慮することにより、社会的責任を果たすことを基本精神とする国連の「責任投資原則」Principles of Responsible Investmentを守る機関であると公表している。外部機関(MSCI)のESG指標を用いて客観的に投資基準に合った対象を選んでいますよ、としているから、ま、問題ないでしょう。(ちなみに、日本では昨年に同様の機関投資家向けの行動原則「日本版スチュワードシップ・コード」が導入されているけれど、ESGへの視点までは含んでいない。日本的には「一気にハードル」を上げると「調和を乱す」ので、みたいな気配りや暗黙の了解とかがありますね。)

それにしてもストーンズとニール・ヤングか。いいセンスしてます。パリ本拠で運用資産500億ユーロ(約7兆円)。1989年創業。創業者かつ総帥はエドゥアール・カルミニャックEdouard Carmignac (1947~)、コロンビア大MBA(1970)で米国の証券会社で働いていた経験あり。多分この頃だねニール・ヤングを聴き始めたのは。息子のシャルリCharlyはフランスのMoriartyというバンドでギターを弾いてるそうだし。自分のバンドーム広場のオフィスにはアンディ・ウォーホールの毛沢東とレーニンの肖像画が飾ってあるんだって。(出所)

Wiki情報によれば、カルミニャックは社会党オランド政権に対して、富裕層への課税は国を破壊するとして公に批判しているそうだから、そういう「富裕層」の利害を体現する立場の会社である。当たり前だけど。でも、毛沢東とレーニンはあの世でカルミニャックをどう思って見てるのかなあ。