ブルックリンを散歩して、ブルックリン・ビールを飲んだ!

先週は3年ぶりにニューヨークに滞在した。内部監査の国際大会に出て、2日間は前から行ってみたかったブルックリンを歩いてみた。

ぼくが住んでいた1980年代後半は、アメリカ経済がどん底だった時代。日本人だとわかるとろくなことはないというのが大っぴらには言われないが身を守る智恵、先輩駐在員からは面倒なことに巻き込まれるリスクが場所・時間によってものすごく変化する、その辺の感覚を身につけろと言われたものだった。その点、ブルックリンはブロンクスと並んで常時一人で足を踏み入れてはいけない場所だった。実際ぼく自身、最初にしばらく住んだクイーンズのフォレスト・ヒルズでは、夏の朝5時頃にジョギングして、街角でたむろしていた3人組に、難癖つけられて追いかけられたことがある。必死に走って逃げたので(幸いというか、相手は酒が入っていたから、スピードはそれほどではなかった)事なきを得た。いや、怖かった。

で、30年後、車でしか、かつスタテン・アイランドに遊びに行ったときなど数回しか通ったことのないブルックリン・クイーンズ・エクスプレスウェー(BQE)からの風景ではなく、地下鉄で主要なスポットになっている地域の駅から、まちを、お店を歩いて見て、BQEのすぐ横の下道(したみち)マーシー・アヴェニューも歩いてみた。もともとマンハッタン南部のダウンタウンとブルックリンはホントに目と鼻の先で、地下鉄の2ライン、3ラインのウォール・ストリートの次の駅がブルックリンのクラーク・ストリート。この間2分。世界の富の中心のウォール街からイースト・リバーを渡って隣の町がもうブルックリンなんだよね。なんか新鮮な感じ。

ブルックリンの地図で分かりやすいのはないかなと探したら、これなんかがいいかなと思います。この中のブルックリンの地図。

brooklyn_map

結論から言えば、昔に比べて格段にまちが新しく、きれいになって、ショコラティエや一本200ドルのジーンズを売っているショップやら、サンスイの70年代の名機を展示しているオーディオ店やら、ベドフォード・アヴェニュー駅(地下鉄Lトレイン)を中心としたウィリアムズバーグ地区は日中は大丈夫かな。(上の地図のJMZという地下鉄マークのあるあたり)マンハッタンのダウンタウン対岸の昔から高級住宅地だったブルックリン・ハイツ(2トレインか3トレインのクラーク・ストリート駅やAトレインかCトレインのハイ・ストリート駅でアクセス。上の地図の37のマークあたり)も州の裁判所の建物があるあたりを通ってさらに南のスミス・ストリートをベルゲン・ストリートあたりまで歩いてみたが、ここら辺も日中は大丈夫。昔はクイーンズ中心地のフォレスト・ヒルズあたりでも、日中に大丈夫かなと思って歩いていると、突然街並みが荒れてきて、ジャンキーっぽい人間が公園のベンチにへたり込んでいる、という感じだった。ブルックリンはもともとアイリッシュやポーランドやギリシャの移民の町だったところで、今でもそういうルーツの音楽をやっているカフェがあったりして、夜に行ってみようかなと思ったが、滞在中毎日(!)朝のニュースでブルックリンのどこそこで昨夜殺人がありました、強盗がありました、強姦がありましたと放送しているくらいに依然として夜は危ない町なので、やめました。

それが現実。

ウィリアムズバーグのMikey’s Hook-upにて

Mikey's Hook-up

上段のサンスイの名機AU999が895ドル、下の方のヤマハCA610 IIが645ドル。開店15周年のセール中でした。

さて、もう一つ。ブルックリンといえば、ビールでしょ。

ホテルに投宿する前に、コンビニでビールを仕入れよと思い、近くのDuane Readeドゥエイン・リードに寄ったら、ブルックリン・ビール4種×3本の1ダースセットが20ドル弱で売っていたので買ってタクシーで移動。なお、ニューヨークではドラッグストア業態が品揃えを食料、パーソナルケア用品などにも拡大して日本のコンビニに相当するものになっている。Duane Reade、Rite Aid, CVS/ファーマシーは80年代からあったが、その後ウォルマート系列のWalgreen(Duane Readeを2010年に買収)が店舗を増やしている感じ。

買ったのはこれ、ブルックリン・ボックス・セット。IPA(インディア・ペール・エール)という少しアルコール度の高い種類のビールでホップの風味が強く、ガッツリ味わいがある。ぼく的には緑のラベルのブルックリン・ラガーがバランスがよく飽きがこないので好き、赤いラベルのブルックリン・ディフェンダーは西海岸系のストロングな味でこれもいい。メキシカン料理などにマッチするはず。楽天でも売っていますね。でも値段は6本で2500円。倍以上するね。

BrooklynBeer

 

PokemonGO騒ぎにちょっとコメント

PokemonGOの騒ぎが一段落したのかと思う。

先週ニューヨークに行っていて、久しぶりのメモワールの題材として、当初は考えていなかったけれど当地でもニュースになっていたので、ちょっと書きます。

この超モンスタータイトルのおかげで、「ソシャゲ」(ソーシャル・ゲーム)が一気に沈むことに危機感を感じた(従来のモバゲーなんかからの広告収入が一気に細ってしまう)テレビ業界がネガティブ・キャンペーンを繰り広げたという観測がある。靖国神社でプレイしている人たち、それも外国人が多くいることについての懸念や、しまいには不特定多数が集まる場所はすべてゲーム開発段階からポケモンが現れる場所にしてはいけない、という議論も巻き起こっている。任天堂は7月22日、PokemonGoに係る業績の影響は「ない」と発表したため、ストップ安。7月7日終値14935円から1週間で25,000円、19日ザラバ高値32,700円まで高騰したが、今日も前日比5%を超える安値。

任天堂は権利保有会社のポケモンに32%出資しているだけで持分法適用子会社として応分のライセンス料などを開発会社の米国ナイアンティックからもらえるだけだ。有価証券報告書など開示資料を見ればわかることだけれど、期待だけでこんなに株価が上がってしまったのだろうか?1週間で時価総額が1兆4000億円増えた。個人投資家の中にナイーブな人たちがいたかもしれないが、全体としての動きからはこれは考えにくい。米国で大ヒットしていると爆謄させるネタをばらまいておいて、任天堂決算発表(7月27日)の前に任天堂自身が「業績に影響ない」「今期(2017年3月期)も最終利益350億円に変更なし」とわざわざ発表させ、一転して売り浴びせて「いじくっている」機関投資家の姿が浮かんでくるような気がしますが。米国内での報道にも、「投資家は任天堂がPokemonGoの開発をしたのではないことに気づき、株価は急落」[1]というのもあるにはあるが。

PokemonGoについて以下のような記事も注目。

  • アップルが米メディアに対し、世界数十カ国で公開済みのゲームPokemon GOの最初の1週間のダウンロード数がApp Store開設以来の過去最高だったと認めた。[2]
  • プラットフォーム(TVゲームの場合はゲーム機そのもの。任天堂、セガ、ソニー3強時代はそれぞれのゲーム機で遊べるゲームタイトルの人気が勝敗を分けた。現在はスマホで遊べるゲームが主体なので、アップル、アンドロイドがプラットフォーム)を持つ強みが如何なく発揮される。バロンズ誌によれば、ローンチ10日での市場浸透は2100万人(3億2000万人の米国人口の6%)に達しており、経験則から市場飽和が20%、1人1日当たり5セントを消費するとして今後2年間に30億ドルの収益をもたらすものと予想。[3]

この2つ目の記事にはPokemonGO以前の最大のモバゲータイトル「キャンディクラッシュ」は2013年と2014年のコンバージョン・レートが2%だったとしている。コンバージョン・レートとは課金に移行するプレーヤーの割合。通常は人気タイトルでもこのくらいだったのがその10倍の20%とはただただ強烈。フォーチュン誌によると、アップルのiTunesなどデジタル・ダウンロード収入は2013年で160億ドルを超えているとのこと。[4] アップルは音楽ストリーミングサービス収入がデジタル・ダウンロードを昨年初めて上回ったそうで、その他(従来のMacだとかiPhoneだとかのハードを作っている部門など)の3つが1/3ずつで、この2年ばかりは四半期合計500億~770億ドル位を稼いでいる姿になっている。

3億2000万人の2割の6400万人が時期はちょっとずつずれていくにしても、上記の予想の2年間ずーっとお金払って遊んでくれるヘビーなユーザー、ちょっとやって3か月くらいで飽きちゃうユーザー、その中間くらいの人たちなどなどの経験則に基づいたアサンプションで収益予測をしているはずだからあんまり狂うことはないのだろうと思う。

アップルのCEOティム・クックも笑いが止まらない様子で、昨日の決算発表では、「ポーケマン」とPokemonの「正しい」発音ができず、(ゲームなど若者の文化に疎い)オヤジみたいだと揶揄されていたようだが、[5] この拡張現実(AR)のゲームは信じられらないほどの現象となっていて、アップルは今後もこの分野(デジタルダウンロード)に投資をしていく、としている。拡張現実について、再確認したかったので元ソニーのエンジニアが立ち上げたVR仮想現実技術の会社のウェブをのぞいてみた。

AR(Augmented Reality:拡張現実)とは、「拡張」という言葉が指す通り、現実世界で人が感知できる情報に、「何か別の情報」を加え現実を「拡張」表現する技術やその手法。

他方でVR(Virtual Reality:仮想現実)については、「バーチャル(仮想)」も含めたあらゆる空間表現を、「まるで現実(リアリティ)であるかのように」体験するための技術や取り組みの総称だと。ARとの大きな違いは、「ARが現実世界をベースに、追加情報を付加」するのに対して、「VR(バーチャルリアリティ)は、様々な形で作られた現実のような世界」に、「ユーザ自身が飛び込む」という部分にある、という。

ARもVRも人間の認知能力を支援したり刺激したりする重要な役目を果たすものであることはわかるだろう。日々人間は自分の五感で感知する情報(朝起きて、窓の外の天気の具合を見て、ニュースを見て、シャワーを浴び体調をチェックして・・・)をもとに、行動する。認知症や自閉症にもこの分野の技術が予防や治療に役立たせることができるはずである。「ポケモンGOは自閉症に好影響?」という記事を参考までに。

山歩きにARの利用はどうなのかな。今すでに利用されているGPSルートガイドにプラスして何らかの「情報」が価値あるものとなるとすると何か?ライチョウだ、コマクサの群生だ、というような「実際にそこまで行って、そこに実際にある(べき)もの」を体験できることが通常の山歩きの楽しみである場合が多いから、また、プロの山歩きの人は結構自分だけの秘密の場所(マツタケが採れる場所などは特に!)を教えない人も多いから、喜びの源泉となるものは共有されないと考えた方がいいかも。だから、ARは危険個所のデータを山歩き中に気象情報とリンクしてリアルタイムで警報を鳴らすなどの利用がお金が採れるビジネスモデルになるかどうか。でも危険かどうか自分の頭で判断できないようになるのは、逆に恐ろしいことではある。

[1] https://techcrunch.com/2016/07/25/investors-realize-nintendo-didnt-develop-pokemon-go-and-shares-plummet/

[2] https://techcrunch.com/2016/07/22/apple-says-pokemon-go-is-the-most-downloaded-app-in-its-first-week-ever/?ncid=rss

[3] http://blogs.barrons.com/techtraderdaily/2016/07/20/pokemon-go-could-add-3b-to-apples-revenues-needham/

[4] http://fortune.com/2014/04/20/how-much-revenue-did-itunes-generate-for-apple-last-quarter-2/

[5] http://www.marketwatch.com/story/tim-cook-pronounces-pokemon-like-a-dad-but-sees-possibilities-for-apple-2016-07-26

 

笈ヶ岳に行ってきた

懸案の笈ヶ岳(おいづるがたけ、1841m)に行ってきた。岐阜・富山・石川の三県境の山ですね。三県境の山では第11位の標高。ちなみに第1位は山梨・長野・静岡県境の三峰岳(2999m)。間ノ岳の南西にある。

4時半に駐車場発、ジライ谷出合から激登3時間弱。冬瓜(かもうり)山から派生するこのジライ尾根がブナオ山から延びる支尾根に合流するあたり(冬瓜平)からは久しぶりのアイゼンピッケル歩行。傾斜がきついところはキックステップ、ピッケルで一歩一歩確保しながら歩行しないと滑落するので、なかなか気が抜けない。頂上11:15着て20分休憩、下山はくたびれて17:40自然観察館着。こういうハードルートは登り下りで所要時間が変わらない結果になるのはよくあること。下山時のルート習熟が疲労によるペースダウンとオフセットされるということだね。

残雪期にのみ登頂可能であるとされているこの山のキツさのエッセンスは、①登山口620mから1500m付近までの激登激降下、数える余裕がなくなるほどの岩場ロープ箇所の連続、木の根むき出しのナイフリッジ②1500m冬瓜平からの雪上歩行中の滑落リスク③頂上稜線の(残雪がなくなっている場合の)ヤブ漕ぎ体力消耗の3点。ぼく的には①の激登激降下が、実にいやらしく(痩せ尾根のブナ・ヒノキの張り巡らされた木の根!これが滑るんだ、特に冬靴の底は平らなのでなおさら)、ことさら下山時は精神的に参ります。③についても、今年はどこもそうだが、残雪が少ないため頂上稜線に出る2か所くらいに激ヤブがあり、かつ稜線上も雪が腐っているところなども気が抜けなかった。残雪の状況は例年の5月末に相当する位に少なく、現時点では冬瓜山・シリタカ山を越える稜線ルートは危険につき利用不可、ぼくらが利用した冬瓜平経由巻き道利用が適当と判断している方が多い。

ちなみに笈ヶ岳頂上から北に延びる稜線は大笠山(1822m)に続いている。最低鞍部が1550mで小ピークが2つあるが、ずーっと踏み跡すらない、笹と灌木のジャングルとなっているところ。昨年10月にあの田中陽希さんがグレートトラバース2「200名山一筆書き」プロジェクトで桂湖から大笠山泊で翌朝笈ヶ岳に8時間かけて攻略に成功。彼のようなスーパーマンをして「厳しい戦いを経験して、やはり計画当初から「最難所となるだろう」の予想通りの山だった」と言わせている。 (出所)ぼくなどの少しばかり山歩きの経験があるくらいでは、当然「自然保護センター中宮展示館からの通常の残雪期アタック対象」であって、かつ天候、ルート、体調それぞれをうまく管理して登る対象。また、ウェブ上には笈ヶ岳西尾根(清水谷)の無雪期の記録もいくつか見られる。これも地元の経験者が中心の歩き方になるだろうね。

行ってみてわかるけれども確かに名山であり、おすすめだが相当にコンディションを整えて行くことが肝要。コンディションは自分でなんとかできるが、直前の天候等によるルートファインディングのリスクや登山口までの足をレンタカー含めてゴールデンウィークに確保する面倒とリスク、などなどを考慮して今回はツアー山行のガイドをリスクヘッジとして使用した。13人の大所帯となったけれどその中でぼくのような外様は3、4人。残りの10人くらいは参加頻度は違えど「常連」さん。今回登頂した方々はぼくらプラス夫婦1組、5人くらいのグループ1組、若者2名1組(軽アイゼンまたは6本爪しかなく途中撤退)、下山時に冬瓜平でテント泊3張り(午後3時頃にスルメを焼いていて、いい匂いではあったなあ)単独者が3名だったかな。全部で30人くらい。4月から5月にかけて週末とGWに集中する山で毎年の人出は300人、500人という感じなのだろう。勉強になりました。

笈ヶ岳ルート
笈ヶ岳ルート
冬瓜平から。左端が笈ヶ岳ピーク。
冬瓜平から。左端が笈ヶ岳ピーク。
シリタカ山肩
シリタカ山肩から望む頂上稜線。まだ遠いなー。
笈ヶ岳 (768x1024)
笈ヶ岳ピーク(1841m)
大笠山へ続く稜線。田中陽希さんの激闘8時間のジャングル。
大笠山へ続く稜線。田中陽希さんの激闘8時間のジャングル。

記録(2016年4月30日: 晴のち曇り一時にわか雨)

中宮展示館発 4:25
ジライ谷出合 4:51
冬瓜平 7:34
シリタカ山肩 9:45
笈ヶ岳 11:15-11:35
冬瓜平 14:15
中宮展示館着 17:40

40年ぶり位の高尾山

GWの笈ヶ岳山行の前に、少しばかり足慣らしをしようと思い、大学生の時に行ったきりだった、高尾山に行ってみようと思い立った。20キロ位のルートを考えて、ヤマレコなどを参考に南高尾山稜を城山まで行って高尾山経由1号路で高尾山口まで戻るループで行くことにした。これだと16キロ。ミシュランに載って以降激混みだという情報は聞いていたので、できる限り早朝にスタートすることにして高尾山口に6時半着。草戸山までの道はなかなかいい感じ、トレランの中年男性に抜かれるまで誰一人会わない静かな道。いいねえと思っていたら西山峠あたりから2人づれの老人が何組か、大垂水峠から城山への上り返しはそれなりにきついけれども、いい感じのヒノキ並木(この城山(670m)は小仏峠のそばだから小仏城山とも呼ばれる山だけれど、津久井城があった津久井湖の南の城山(375m)には江戸幕府直轄の「江川ヒノキ」が残っている。この土地はそういう伝統なのかね?)が続いて、11時前に到着した山頂広場では、桜と花桃が満開で美しい。春霞で富士山の眺望は得られなかったけれども、丹沢の山並み、大室山など道志の山々はまずまず見える。早めのランチを終えてさて帰ろうかと下り始めたら、10人、20人の団体さんがどんどん登ってくる。こんにちは攻撃(登ってくる方々は善意で言ってくれているのだけど、こちらは、ひっきりなし挨拶状態になるのです)に疲労しながらも、高尾山頂は40年ぶりくらいに、踏まないとな、それで薬王院も拝んで、と思ってモミジ台では小学校の遠足部隊に遭遇、山頂大見晴台は別の小学校と大人の30人、50人くらいの団体さんが所せましとシートを敷いてがんがんビールを飲んでいる。薬王院から下は中国の方、フランスの方、おしゃべりしながら行列で登ってくるよ。何が何だかワカラン状態です。

というわけで、結論:高尾山は山歩きには向きません。都市公園です。南高尾山稜から、城山までは静かでまあまあの道なので都心からのアクセスが良好なことも含めおすすめできるけれど(途中の津久井湖岸をズーっと続くトラバース道は退屈)高尾山(特に山頂)を通って戻るのはやめて、稲荷山コースで高尾山口駅にもどる、東海自然歩道を千木良(ちぎら)経由相模湖駅に降りる、日影沢を降りて旧甲州街道をのんびり高尾駅まで歩く(これで20キロくらいかな)、というオプションがいいのではないかと思います。

南高尾城山高尾山ループルート
南高尾城山高尾山ループルート
草戸山
草戸山
中沢山の聖観音菩薩とヤマツツジ
中沢山の聖観音菩薩の後ろ姿とヤマツツジ
相模湖と背後の笹尾根の山並み
相模湖と背後の笹尾根の山並み
感じのいいヒノキ林(植林だけど)
感じのいいヒノキ林(植林だけど)
城山山頂広場の桜
城山山頂広場の桜
城山山頂広場の花桃
城山山頂広場の花桃

記録(2016年4月20日: 晴)

高尾山口発 6:50
草戸山(364m) 8:03-8:08
三沢峠(420m) 8:27
西山峠(475m) 8:50
中沢山(494m) 9:20
コンピラ山(514m) 9:37
大垂水峠 10:00
城山(670m) 10:40-11:00
一丁平 11:12
モミジ台 11:30
高尾山(599m) 11:40
高尾山口着 12:40

 

ブライアン・ウィルソン来日公演

世界初のコンセプト・アルバムとして今でもその価値を失わないザ・ビーチ・ボーイズThe Beach Boysのペット・サウンズPet Soundsのリリースから50周年記念となるブライアン・ウィルソン(1942~)の来日コンサートに行った。

ブライアンは父マレー・ウィルソンMurray Wilson (1918~1973)は作曲家、母オードリーAudree(1917~1990)もピアノを弾くという音楽一家に育ったが、ドラッグやなんかで20年以上も落ちていた時代から「奇跡的によみがえった」1988年のソロアルバム「ブライアン・ウィルソン」の後に出した自伝Wouldn’t Be Nice(1991)で、父親に家庭内暴力を受けていた事実を明かしている。Wkiによればブライアンは父親に角材で頭を殴られ、以来右耳聞こえなくなったとされている。また、この父から長男ブライアンに宛てた1965年5月の手紙の草稿?が5年ほど前に発見されたことから、ペット・サウンズの制作に一人でとりかかろうとしていたブライアンの内面がどのようになっていたか、研究が進むことになった。「お母さんがお前たち3兄弟を女の子のようにベタベタの愛情でスポイルした結果だが、お前たちのような犯罪者でろくでなしは少しくらい有名になったとしても地獄に落ちるぞ、グループは解散しろこれが父として至った結論だ」という厳しい内容。フロイト的精神分析アプローチでは面白い題材だろうけど、今回は割愛します。

で、この親のもとブライアンはカリフォルニア州ホーソーンに生まれた。ホーソーンってロサンゼルス国際空港に隣接しているといっていい町。空港から出て東西を走る105号とサンディエゴ・フリーウェイ405のジャンクション(空港からせいぜい5キロ)の南東に位置していて、交通至便のところ。

ホーソーンにはスペースXの本社とテスラ・モーターズの設計部門があるね。ノースロップ(現ノースロップ・グラマン)の工場もある町だからその伝統・技術が生きているんだろう。ステルス爆撃機のB-2はノースロップ・グラマンの製造。1機2000億円かかる。当然世界一高価な飛行機だって。先月「アメリカ戦略軍がアジア・太平洋にB-2を3機配備して北朝鮮を牽制する」というニュースがあったね。ホーソーンにはマリリン・モンローが8歳くらいまで過ごした家もある。IAMNOTASTALKERというウェブ(映画のロケサイトなどを取材するサイトのようだね。サイトネームが「私はストーカーではありません」というのが笑える)に、モンローの子供時代の家が紹介されている。というわけでホーソーンが世界に誇るいくつかのエピソードがある町だということがわかった。

2人の弟デニス、カールと従兄マイク・ラブ、そしてブライアンの高校の友人アル・ジャーディンとビーチ・ボーイズを結成、1964年ころまでにサーフィンとホットロッドを題材にしたロックでブリティッシュ・インベージョン前のアメリカのポピュラー音楽を代表するグループになった。ブリティッシュ・インベージョンというのは、1964年2月のビートルズを先兵にローリング・ストーンズ、アニマルズなどによる英国ロックがアメリカのトップヒットを独占する状況となったため「イギリスの侵略」と言われる。1980年代前半にもデュラン・デュランなどでもう一度ブリティッシュ・インベージョンがあったね。こうした英国勢の活躍に刺激され、プレッシャーも受け(ブライアン自身がビートルズのラバー・ソウル(1965年12月リリース)に刺激されてこれはイカンとして作ったと再発時のライナーノーツに記している)、コンサート活動をやめて乾坤一擲音楽制作に打ち込んで作ったのが「ペット・サウンズ」だったわけだ。ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブ・バンド」(1967年6月リリース)に先立つ1年前。1曲1曲がメンバーそれぞれの手による曲、他人の曲のカバーだったりの寄せ集めだった従来のLPからLPレコード1枚がコアの作者によって一つのテーマなりストーリーで統一感のあるものになった、これを「コンセプト・アルバム」と呼ぶようになったけれど、今でも最高のコンセプト・アルバムの1枚になっている「サージェント・ペパーズ」よりも前にブライアンが実質一人でやっちまったわけだ。

で、今回の公演は、ブライアンが一人で作りあげた「ペット・サウンズの世界」を50周年の今、73歳のブライアンが日本の皆さまにお届けします、その前座と最後にはホットロッドミュージック、ビーチ・ボーイズのサーフロックメドレーを、ということで、東京フォーラムは一応満員になったし(大阪公演のチケットは完売ではなかったからね、懐の深い東京市場ならではだったといえるかな)、アラカンのぼくより下の世代もオールスタンディングで踊れる時間を持った。良くなかったということはなかった。決して。

でも真ん中にキーボードの前に座って、衰えは仕方がない声でGod Only Knows (LPではB面1曲目)を歌うブライアンに、アーチストとしてのブライアンへのリスペクトを持ったし、彼のドラッグやもろもろの変人扱いされる行動なども含めて「過ぎ去ったアメリカ」への遠い歴史感とを、深く感じることはできた。だってもう生では接することはできないかもしれないんだもの。

前座と最後のサーフロック極め付け部分で、マット・ジャーディンのファルセットがうまい、ほかのミュージシャンがそれぞれ技量を発揮した、そんなことは付け足しだよね。人間は有限な存在です。1ファンとして楽しんだ。

このアルバムのライナーノーツに、ブライアンはこうも記している。「リスナーが聴いて、愛されているという感じを受けるサウンド、これを実験したんだ」確かに。サーファー・ガール(1963年9月リリースの同名アルバム、1曲目)の天国にいるようなハーモニー感は不滅だよね。ぼく的にはYour Summer Dreamが一押しです。同じアルバムの最後手前の曲。

 

アウンサンスーチーさんが「国家顧問」に!

時事通信ニュースによれば、「ミャンマーのティン・チョー大統領は6日、政権の実質トップであるアウン・サン・スー・チー氏を新設の「国家顧問」とする法案に署名した。」とのこと。

ミャンマー(1989年6月までの旧称はビルマ)は1962年から続いた軍事独裁政権下の実質的な鎖国政策によって、半世紀にもわたり民主化を求める国民の希望が押しとどめられてきた歴史を持つ。昔勤務した会社がビルマでの事業を行っており、その関係でビルマ人の同僚がいたことから、現地でその同僚の知人に会えるという幸運もあってビルマに個人旅行をした経験がある。ヤンゴン中心部から10キロほど北のインヤー湖に女子学生を含む民主派学生多数(200人も言われる)が国軍兵士によって暴行され投げ込まれて溺死などしたとされる治安警察の非道に対して国民が立ち上がり、1988年8月8日の全国ゼネストで運動の頂点となったことで「8888民主化運動」と言われている民主化の動きが3月頃から学生を中心に始まっていた。しかし9月には民主化を圧殺する形で国軍がクーデタを起こし軍事政権が誕生、1962年からのネ・ウィン体制が終わったあとに、別の軍人が政権を奪取したに過ぎなかったように見える状態だった。ぼくがビルマに行ったのはそれから約2年後ではあったが、空港やいたるところに兵士や治安警察がいて、こわーい感じは続いていた。

Wikiは当時の事実関係を次のようにまとめている。「全ビルマ学生連盟は一党独裁の打破を求め、1988年8月8日にビルマ全土で大規模なデモを行うことを呼びかけた。学生主体であった運動に、政府職員・仏僧・軍人・税関吏・教師・病院職員なども含んだ、さまざまな分野の市民が合流した。これに対し、軍部は無差別発砲を行いデモの鎮圧を図った。この年の4月に(危篤の母に会うために<筆者注>)帰国していたアウンサンスーチーは、8月26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で演説を行い、この国の民主化運動を象徴する人物となった。」

アウンサンスーチー(1945~)はビルマの国父であるアウンサン(1915~1947)の長女。アウンサンは英国に対する独立戦争のリーダーであったためアウンサン将軍と呼ばれてビルマ人なら誰でも無条件に尊敬する人物。基本的には絶対に批判や中傷の対象となることはないのである。なお、ミャンマーでは姓名の区別がないため、というよりもファミリー・ネームがないため(仏陀の前に個人個人が独立していると考えるのかな)「アウンサンスーチー」と一語で標記する。アウンサンは父、スーは父方の祖母、チーは母親の名前からもらったとい意味では先祖の名前を忠実にもらっている形ではある。ちなみにお墓というものもないのが普通。生まれた1945年はタモリや吉永小百合、ニール・ヤングと同年。

アウンサンについて知らないと、なぜ彼女がこれだけ注目され期待されるか十分には理解されないかもしれない。アウンサンは対英独立戦争の同志たち(三十人の志士)と共にビルマ独立義勇軍を設立、日本軍と接触し、日本統治下の台湾で日本軍の指導(南機関)によるゲリラ戦の訓練を積んだうえで、英国が敵であることには共通の目的であることから日本軍との連携によって日本の対英戦争を共に戦い英軍を駆逐して1943年に日本の支援下にビルマ国を建国した。その後日本がビルマ戦線でも敗色濃厚になるや機転を利かせて、アウンサンはイギリス側に寝返って日本及び日本が支援するビルマ国に対しクーデタを起こし、連合国側の勝利によってビルマは再び英国領となったうえ、英国は独立を許さなかったため、アウンサンは英領ビルマ政府の国防・外務担当閣僚として対英独立交渉を続ける中、1947年1月には英首相アトリーと1年以内の独立を保証する協定締結にこぎつけたが、1948年1月4日のビルマ独立を見ることなく1947年7月、他の6人の閣僚とともに暗殺された。こうしてみると、使える資源(植民地宗主国英国、その敵である日本)をタイミングを計りながら頭を使って利用して、いかに祖国の独立のために身を捧げたかは明らか。日本の軍部からすれば裏切りになったとしても、である。

こうした偉大な国父の娘であるアウンサンスーチー。母のキン・チー(1912~1988)は独立後の政権で社会福祉大臣及びインド・ネパール大使となったこともある人。この母のもとでアウンサンスーチーはインドのカレッジや英国オクスフォード大学に政治学などを学び、1985年には来日し京都大学で父アウンサン関連の歴史資料の研究をしている。ロンドン大のチベット研究でスーチーの夫マイケル・アリス(1946~1999)と知り合い、その後スーチーと40年来家族ぐるみの付き合いを続けてきた大津同志社大非常勤講師への取材記事が、日本でのアウンサンスーチーを描いていて興味深い。

1988年頃に盛り上がった民主化運動後、アウンサンスーチーの日本語自伝や当時のビルマの実情を掘り下げた名著「誰も知らないビルマ」(藤田昌宏著、文藝春秋)などが出版され、それなりに実態が明らかになったわけだけれど、日本に逃れてきたビルマ人たちも政治難民を申請したがなかなか許可されないことで日本滞在を諦めて米国などに移住していった人たちが多かったことを記憶している。ぼくの友人2名もどちらも米国に移住した。現実に軍事政権から故郷に残した親・親類への不利な仕打ちがされないとも限らない、という不安も絶えずあったと聞いている。

今回の国家顧問職(英語ではstate counselor)の創設は、従来外国籍の子供を持つビルマ人は大統領にはなれないという憲法を改正する時間と手間を考慮して、大統領の上の究極的国家元首職として国家顧問としたことで上院下院とも軍人出身国家議員を抑えて承認した。8888民主化運動から28年になろうとしているが、本当にようやく名実ともにアウンサンスーチーが国の母となることになったわけである。

さて、今回は最後に四半世紀以上も前のビルマ旅行からのスナップ写真をご紹介。定番のシュエダゴン・パゴダ(仏陀の聖髪が納められている。ミャンマー最初の世界遺産ピュー遺跡に続いて世界遺産になるか?)、カンドージ湖のカラウェイクパレス(シュエダゴンが左に見える)、乾燥納豆を売るおばさん(結構うまい!)、超古い懐中電灯(使えるんだろうか、そもそも)を売る露店、強烈に古いラジオを直しているらしいエンジニア君。今は、経済状況も一変して、生活もかなり豊かになっているんだろう。

シュエダゴン・パゴダ
シュエダゴン・パゴダ
カンドージ湖と左にシュエダゴンの尖塔
カンドージ湖と左にシュエダゴンの尖塔
乾燥納豆
乾燥納豆
超古い懐中電灯の露店
超古い懐中電灯の露店
古いラジオを直してる?
古いラジオを直してる?

中岳奈良助沢登山口          アクセス林道状況の探索

日曜は天気もまずまず気温も上がるようだったので、計画していた中岳奈良助沢へ。クマさんなどのリスクヘッジで地元のTくんとタッグを組む予定だったが、彼は家の用事ができたためぼくの単独行となったので、のんびり一人で探索してきた。JR花輪線田山駅そばから県道195、結構有名な花輪鉱山跡(オフィスは新調されて立派なものになっていた)から、さらに奥へ、瀬ノ沢林道出合に到着、その先花輪越に上っている100mくらい先で通行止め。軽トラックが3台止まっている。除雪とかの工事の人かな?と思っていたがぼくが探索行を終えて車に持ったときにちょうど彼らが帰るところだったが、肩に猟銃。あとで聞いたTくんの話だと、いまは狩猟期ではないから、害獣駆除の人たちだろう。春クマと北東北3県境くんだりまで進出しているニホンジカが目的だろうね、と。たしかにこの辺にはカモシカしかいなかったはずなのだけど、今日もシカのケーンという鳴き声がたびたび聞こえたなあ。

で、奈良助沢登山口までの探索行。片道8.4km。長い。今年は雪が少なかったのだけど、どうしてどうして林道の残雪は瀬ノ沢林道に入って100mもいかない最初の橋の(イタヤ沢にかかっている)小繋橋あたりから30センチ、奥に行くにつれて1mくらいまで残雪あり。雪崩で数m盛り上がって道路をふさいでいる箇所が4か所、さらに1か所は長さ20mくらいの倒木がどっかーんと。あれあれ。いたるところに最大直径30センチくらいの落石。動かせる岩は沢に落としたり、脇に寄せたりして林道整備にも精を出しました。朝は0度近くまで冷えたので雪は締まっている個所が多く、ツボ足でもそんなに苦労はしなかったが、帰りは気温上昇で腐れ雪になり疲労度も上昇。でも平年なら残雪も倍はあるはずで、4月上旬のこの段階ではもっともっと難儀したはず。上記猟師さんたちの話でも、冬季の雪崩による倒木で通行できなくなるのは毎年のことらしい。

探索の結果、堰堤までの倒木、雪崩箇所がクリーンにならない限りは車では登山口までのアクセスは無理。Tくんの観測では、倒木のちょっと先の堰堤取水堰から上台の秋田県柴平発電所に水を汲みあげているからその管理のために作業が必要なはずで、倒木がその手前にあるから、除去作業が行われるはず、と。そうだなあ、中岳の登山道は相当のヤブになっていることからすれば体力温存して中岳アタックに臨む必要があるから、登山口まではスムーズに軽トラなどでアクセスしたいところです。いずれにしても、あと1か月は林道の障害物は除去されないんだろうから、6月のタケノコシーズンに合わせて行くとするかなあ。中岳の四角沢あたりから採れるものは「四角のタケノコ」は知る人ぞ知る名品だし。(形が四角なではないよ。当たり前だけど。でも四角な茎だとなんかファンシーだね。)

中岳奈良助沢登山口へのアクセス状況
中岳奈良助沢登山口へのアクセス状況
小繋橋
小繋橋
2雪崩箇所
雪崩箇所(この他に3か所あり)
3倒木
倒木
4郡壁沢分岐
郡壁沢分岐
5奈良助沢分岐(前ノ沢支線)
奈良助沢分岐(前ノ沢支線)
6滝の沢1号橋
立派な滝の沢1号橋
登山口1(2万5千図に記載のあるつづれ折)
登山口1(2万5千図に記載のあるつづら折)
8登山口2
登山口2(806mピークに上がる尾根)

探索行記録

瀬ノ沢林道出合                  10:15

中岳奈良助沢登山口        12:55-13:15

瀬ノ沢林道出合                  15:15

 

Scott LaFaro Remembered on 80th Birth Anniversary

2014 marked 100 years since the start of the First World War, with armies modernized to use then advanced technologies like tanks, armored cars and chemical gas. In Jazz arena, last year was centennial celebration of singers Frank Sinatra and Billie Holiday. This year we have Charlie Christian, then next year we will see Dizzy Gillespie, Thelonious Monk and Ella Fitzgerald, followed by Hank Jones in 2018, Art Blakey in 2019, and here comes Charlie Parker in the following year.

Now, today is the 80th birth anniversary of Scott LaFaro. THE great bass player, who as member of the first trio of Bill Evans(1929~1980), which existed from October 1959 to the last day of his life, completely revolutionized the way the piano trio performed.

Born in Irvington, suburbs of Newark, New Jersey and raised in Geneva, upstate New York, Scotty first studied clarinet and saxophone at Ithaca College, soon he changed his instrument to bass. It seems that the existence of his father, professional violinist, and his respect and love for his father’s passion for musical perfection, may have a major influence on this change to string instrument. He joined the Buddy Morrow Orchestra in late 1955, and he decided to leave it and live around Los Angeles until he returned to the East Coast jazz scene after finishing the gig with Benny Goodman Band in March 1959. Scotty’s days in LA was the groundwork for his later accomplishments as bass player that have never seen before.

Bill, on the other hand, left Miles Davis Band in November 1958, and was seeking for how his own trio should perform and who the members should be and in so doing he was playing for various players including Lee Konitz and Chet Baker. He even taught piano at the legendary Lenox School of Jazz for three weeks in August 1959. He was definitely  “setting the pace”. And there he is, Scotty was on board. The first trio of Bill, with Paul Motian on drums, was fully equipped and played in Tony Scott’s Sung Heroes on October that year. Interestingly, prior to Scotty joining Bill’s trio, the bass player was Jimmy Garrison, who would be playing with John Coltrane.

The aspect that I think important for Scotty to develop his gift to bloom, was that he played with Thelonious Monk in November 1959 at the Town Hall and at Storyville in Boston in January next year, and that he told in an interview that he learned a lot about rhythm when he played with Monk and that it was great experience. (p.111, Jade Visions: The Life and Music of Scott LaFaro by Helene Lafaro-Fernandez ) Wow, we should definitely find whoever has tapes for these incredible sessions!

On Sunday 2, 1961, Scotty was on stage for Stan Getz at the Newport Jazz Festival in Rhode Island. After finishing the gig, he drove his car heading for his parents in Geneva and in midnight on July 6, his car went on the shoulder of the Route 20 and hit a tree and burst into flames killing him and his old pal Frank Ottley instantly. He was only 25, and his future so promising and it is still, after those years, painful and agonizing.

Scotty’s greatness is that he set the norm of the bass player not only in the Bill’s trio but also for any serious bass players in a short time, which is therefore revolutionary. People who respect him include Marc Johnson who himself was on bass for Bill’s last trio. Marc played Scotty’s tune Jade Visions with Dave Catney, and more recently Phil Palombi recorded a tribute to Scott, “Re-Person I Knew”, and he uses Scotty’s 1825 Prescott instrument occasionally; all of these are evidential matters as to greatness of his legacy.

In commemoration of his 80th birthday, I pick as “today’s catch” three tunes of Scotty’s last performance in the 1961 Newport Jazz Festival. These are in “Miles Davis and Stan Getz: Tune Up” coupled with Miles’ 1956 performances in Germany, and the other Stan Getz group members were Steve Kuhn, piano, and Roy Haynes, drums.

On introducing the second tune, Stan announced that the next is “Where do you go” by Alec Wilder, however you will notice it is not. It is Gigi Gryce’s Wildwood, instead. Jazz fans talked about this mystery and one of them reasoned that this was caused by a slicing error of recording tapes. I listened to Gryce’s Wildwood played by Art Farmer in 1954, and I agree that it is indeed Wildwood. Take a listen to this crispy wonderful work of Art, really.

On Scotty’s life, his younger sister Helene wrote a great book “Jade Visions: The Life and Music of Scott LaFaro”. There are lots of interesting and heart-warming testimonies by her and Scotty’s friends and colleagues.

 

 

 

スコット・ラファロ生誕80周年

イベント・マーケティングの一つに「周年もの」がある。お店でも「開店○○周年セール」があるし、逆にだましの手口としては延々と続く「閉店セール」もあります。ニューヨーク5番街の42丁目あたりのエレクトロニクスものや靴屋なんかはEVERYTHING MUST GOなどと派手なPOPをウインドウいっぱいに貼って、客寄せしているよね。日本の法令では景表法違反だけれど、この場合でも閉店の意思はある、と抗弁したら行政側もなかなか手を出せないのかな。

さて、一昨年は戦車や毒ガス兵器など科学の発展によって最先端の人殺しの道具も登場し近代戦争の始めとされる第一次世界大戦の100周年、昨年はジャズの世界でフランク・シナトラとビリー・ホリディの生誕100年だった。今年2016年は大物ではチャーリー・クリスチャンが生誕100年、来年がディジー・ガレスピー、セロニアス・モンクそしてエラ・フィッツジェラルド。2018年がハンク・ジョーンズ、2019年がアート・ブレイキー、2020年にようやくチャーリー・パーカー登場、という感じ。

それで・・・今日4月3日はスコット・ラファロの生誕80周年。ビル・エバンス(1929~1980)のファースト・トリオ(「ワルツ・フォー・デビー」など超名盤を世に残してくれた1959年10月から1961年7月まで存在したピアノ・トリオ。ドラムスはポール・モチアン(1931~2011))でピアノ・トリオのインタープレイに革命を起こしたベーシストです。

マンハッタンの対岸のニュージャージー州ニューアーク郊外のアーヴィントンIrvington にイタリア移民の子として生まれ、ニューヨーク州北部のジュニーヴァGenevaで育つ。父親もビッグバンドでプレーするプロのバイオリニストだった。イサカ・カレッジで始めはクラリネットとサキソフォンを学ぶが、2年目にはベースに転向しカレッジをやめて、バディ・モロウBuddy Morrow楽団の西海岸ツアーに参加、1956年9月に楽団をやめて1959年3月のベニー・グッドマンのツアー後にニューヨーク・ジャズシーンに戻るまで、約3年ロス・アンジェルスに滞在。このLA時代がベーシスト・スコッティ(というのがスコット・ラファロの愛称)の土台を築いた時代。

一方、ビル・エバンスは1958年11月にマイルス・バンドを辞めて(翌年3月のカインド・オブ・ブルーKind of Blueの録音には参加している)、リー・コニッツ、チェット・ベーカーなどのバンドで演奏しながら自分自身のトリオがどうあるべきか、メンバーには誰がいいのかと模索しているところで、8月は3週間にもわたり、1960年まで4年間続けられた、かの有名なバークリー音楽院よりも講師の面々の豪華さが今でも伝説となっているレノックス・スクール・オブ・ジャズという学校でピアノを教えるなど、自分のペースを整えている段階ともいえる状態だった。そこにスコッティが参戦したというわけだ。こうして、1959年10月のトニー・スコット(cl)のサング・ヒーローズSung Heroesが公式録音ではビル・エバンスのファースト・トリオの3人が初めてそろった録音となる。ちなみにその直前のビル・エバンス・トリオのベースはその後コルトレーン・カルテットで不動の地位を築いたジミー・ギャリソン。

スコッティがニューヨークに戻ってからの才能開花過程でぼくが見逃せないと思っているのは、1959年11月から翌年1960年1月にかけてモンクのグループで演奏し「素晴らしい経験だった」としている点。前者はタウンホール、後者はボストンのストーリーヴィルで演奏だったことがわかっている。録音した人はいなかったのかなあ・・・これから発掘されないかなあ・・・期待したいなあ。この経験が1959年12月28日録音のポートレート・イン・ジャズに結実したと思うから。

1961年7月2日(日曜日)ニューポート・ジャズ・フェスティバルにスタン・ゲッツ・カルテットの一員として出演したのち、実家のあるニューヨーク州ジュニーヴァGenevaに車で向かう途中の7月6日未明に道路から逸れて木に激突して炎上、同乗者ハイスクールからの  友人フランク・オットリーとともに即死。享年25。クリフォード・ブラウンもリッチー・パウエル(バド・パウエルの弟です)とパウエルの奥さんが運転する車で25歳で交通事故死したが、どちらも天才的なジャズ・ミュージシャンだっただけに、なんか心が痛む。

スコッティの偉業は、その後のビル・エバンス・トリオのベーシストの規範となったのみならず、ジャズ・ベーシストなら誰でも影響を受けるほどの革命を短期間で成し遂げたことた。スコッティを尊敬する人たちの中には、もちろんビル・エバンスのラスト・トリオのベーシストのマーク・ジョンソンMarc Johnson(ビル・エバンスの最後のスタジオ録音で有名なWe Will Meet Againのベーシストで、かつ今のイリアーヌ・イリアスの夫君)がいる。この人はデイブ・キャトニー(p)とスコット・ラファロの名曲Jade Visionsを録音していたりします。残念ながらこのデイブ・キャトニーもAIDS死、33歳。スコッティの没後50年の2011年には、フィル・パロンビPhil Palombiがトリビュート・アルバム「RE:Person I Knew – A Tribute to Scott LaFaro」をリリースするなど、まだまだスコッティの足跡は大きい。この人はスコッティが使っていたPrescott社の1825年製ベースを定期的に借りて演奏していることで有名。

ビル・エバンスがリーダーとなってからのファースト・トリオの公式録音はトニー・スコットとのサング・ヒーローズのちょうど2か月後12月28日の録音のポートレート・イン・ジャズ、その後エクスプロレーションズ(1961年2月2日)、そして1961年6月13日からのヴィレッジ・ヴァンガードでの演奏の最終日25日(日曜日)の昼(日曜は午後のライブがよくあります)と夜のセットを通しで録音していたものをリリースした、「ワルツ・フォー・デビー」と「サンディ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード」のライブ2枚、計4枚しかこの世に存在していなかったが、1992年に1960年3月から4月にかけてバードランドで演奏した際のラジオ音源をCD化したものが発売されファンは大喜び。なにしろポートレート・イン・ジャズから丸々1年以上この偉大なトリオの録音が残っていないのはおかしいじゃないか、ということだったはず。現在も同じ内容の「ザ・1960・バードランド・セッションズ」として入手可能。この合計5枚のアルバム、時間にして1年半この世に存在してそれまでのピアニストが主役でベースとドラムがリズムをきっちり提供する(でもインタープレイは考慮されることはほとんどなかった)ピアノ・トリオの演奏をガラリと変えてしまった、ベースの革命者がスコッティだった。ピアノとベースは対位法で絡みつくように、ドラムスもその2者につかず離れず、またそれぞれのソロの展開も自由奔放の中に相互の対話が維持される、そんなトリオ。

スコッティが参加したビル・エバンス・ファースト・トリオの作品とりわけ、その頂点となったヴィレッジ・ヴァンガードライブ盤2枚のうち、はじめにリリースされたのは「サンディ」の方で、これはスコッティが急死したことを受け、急きょ彼を偲ぶ作品としてfeaturing Scott LaFaroのタイトルを加え、スコッティの自作曲2曲(Gloria’s StepとJade Visions)を含めスコッティのベースがとりわけフィーチャされた曲を中心に、死後3か月後に発売された。日本ではワルツ・フォー・デビーがジャズ入門用のモンスター・アルバムになっていて、ジャケットも印象派風でカッコいいこともあり、こっちの方がはるかに有名になっている感じだがリリースは「サンディ」の4か月後の1962年2月。

今日は、スコッティの死の4日前のスタン・ゲッツ・カルテットでの最後の演奏を聴いてみたい。独立記念日の休みが2日後の7月4日、ロード・アイランドは夏休みリゾート気分満開だっただろうな。ここでの演奏はマイルス・デイビスのドイツでの1956年の録音とカップリングで1994年に発売されている「Miles Davis / Stan Getz ‎– Tune Up」。YouTubeでも聴けるので聴いてみましょう。音は残念ながら良いとは言えないけれど、25歳のスコッティの溌剌としたプレイが聴ける。ピアノはスティーブ・キューン、ドラムスはロイ・ヘインズ。

スコッティはBaubles, Bangles and BeadsとWildwoodそれぞれでソロがフィーチャされAireginでも快調そのもの。

この2曲目でスタン・ゲッツが次の曲は、と紹介しているのは確かに「Alec Wilder のWhere do you goです」と言っているけれど、演奏されているのはジジ・グライスの名曲Wildwoodなのです。この辺のことを気づいたファンが少し前に話題にしていた。テープを継ぎはぎして作ったライブ音源だからまちがって別のライブのwhere do you goを演奏した際の曲名紹介部分を継いでしまったのではないか、という推定をしている。そうなのかもしれないけど、この世に残ったスコッティの最後の録音の一つだぜ、もうちょっと丁寧にやってくれないかね。

スコッティの人生については2歳下の妹のヘレンHelene LaFaro-Fernandezが2009年に書いた「スコット・ラファロ その生涯と音楽」がていねいに描いており、心を打つ。

上記のスコッティの最後の録音のテープ継ぎはぎミスらしいとされる、Where do you go ならぬWildwoodの本家本元演奏例としては、ジジ・グライスがアレンジ参加のアートファーマー初リーダー作「アート・ファーマー・セプテット」(のちに「ワーク・オブ・アートWORK OF ART」として再発)で聴けます。ちなみにこのアルバムの前半4曲でクインシー・ジョーンズもアレンジ参加している。弱冠20歳。メンバーのほとんどはライオネル・ハンプトンのビッグ・バンドのメンバーだったんだね。クインシーじいさんのほとんど初期のアレンジ作品だね。)このアルバムは初期ハードバップの傑作です。

日本最北の3県境の山四角岳(1,003m) 2016年第1回は 中岳・奈良助沢から行こうかと・・・

3県境地点が日本には48か所あるけれど、おらが故郷の四角岳(1,003m)は最北地点。奥羽山脈主稜線上にあるこの山もクマさんがたくさん出回るので、クマ鈴、笛やら、ラジオやらうるさくして登山道上にお出ましにならないようにしながら歩くしかない。昨年6月の初登頂時も、1週間ほど前に秋田県鹿角市大湯から入る不老倉登山口の米代川源流地点で下山後クマと鉢合わせ、格闘になってケガをした方がいた。(北海道のヒグマと「格闘」となることはありえませんが・・・)この方は自宅のある大館市まで(30キロはあるよね)運転して帰宅して(すごい!)病院に行ってその結果ニュースになっていました。なので、このとき単独行だったぼくは、まず朝夕のクマさんの食事時間を外し、クマ鈴2個をストックに1個つけて手でジャラジャラ鳴らし、もう1個をザックにつけて歩行の動きで鳴るようにし、さらにオーイ、とかホーとか「声掛けを徹底」してまるで登山者が3人も4人もいるようにクマさんを騙して?歩いたのでした。

四角岳は三県の県境の市町(秋田県鹿角市、岩手県八幡平市、青森県田子町)が6月に美化登山をしているようだ。調べてみると、3県の日本山岳会支部が話し合って、2010年6月に親睦登山を始めた、昭和40年頃まではまだ四角、中岳直下には不老倉・四角鉱山があって一部まだ採鉱をしていたとのこと。(出所)もう50年も前の話。今は釣りや山菜取りの人たち、そして登山客しか近寄らない地域になっている。実際のところ、昨年の初登頂時も、国道103号線大湯温泉からの道は1kmほどで人家は消える。それからの砂利道が10kmくらいで次第に細く、整備の対象にならない山奥の林道によくある道路中央部が盛り上がり草ぼうぼうになってくる中をゆっくり走るから小1時間かかる。6月はタケノコの最盛期でクマさんもタケノコグルメの毎日で忙しくあちこちに出没すること必定。何十人も参加する美化登山ならクマさんも人間には近づかないだろうが、ぼくとしては単独行で、かつ登山目的ではしばらく人が行ってないように思われる奈良助沢左俣からいきたいが、リスクヘッジで地元の友人とタッグを組むとするか。冬眠から出てくるのが4月中旬から5月にかけてと言われているから、4月初めのうちに今季の足慣らし山行で行こうかなあ。うーん。

shikaku_narasuke
奈良助沢からの中岳・四角岳

 


Warning: Trying to access array offset on value of type null in /home/users/1/ongakusangaku/web/yorikido.com/wp-content/plugins/amazonjs/amazonjs.php on line 637

Warning: Trying to access array offset on value of type null in /home/users/1/ongakusangaku/web/yorikido.com/wp-content/plugins/amazonjs/amazonjs.php on line 637

Warning: Trying to access array offset on value of type null in /home/users/1/ongakusangaku/web/yorikido.com/wp-content/plugins/amazonjs/amazonjs.php on line 637

Warning: Trying to access array offset on value of type null in /home/users/1/ongakusangaku/web/yorikido.com/wp-content/plugins/amazonjs/amazonjs.php on line 637

Warning: Trying to access array offset on value of type null in /home/users/1/ongakusangaku/web/yorikido.com/wp-content/plugins/amazonjs/amazonjs.php on line 637

Warning: Trying to access array offset on value of type null in /home/users/1/ongakusangaku/web/yorikido.com/wp-content/plugins/amazonjs/amazonjs.php on line 637

Warning: Trying to access array offset on value of type null in /home/users/1/ongakusangaku/web/yorikido.com/wp-content/plugins/amazonjs/amazonjs.php on line 637

Warning: Trying to access array offset on value of type null in /home/users/1/ongakusangaku/web/yorikido.com/wp-content/plugins/amazonjs/amazonjs.php on line 637

Warning: Trying to access array offset on value of type null in /home/users/1/ongakusangaku/web/yorikido.com/wp-content/plugins/amazonjs/amazonjs.php on line 637

Warning: Trying to access array offset on value of type null in /home/users/1/ongakusangaku/web/yorikido.com/wp-content/plugins/amazonjs/amazonjs.php on line 637

Warning: Trying to access array offset on value of type null in /home/users/1/ongakusangaku/web/yorikido.com/wp-content/plugins/amazonjs/amazonjs.php on line 637

Warning: Trying to access array offset on value of type null in /home/users/1/ongakusangaku/web/yorikido.com/wp-content/plugins/amazonjs/amazonjs.php on line 637

Warning: Trying to access array offset on value of type null in /home/users/1/ongakusangaku/web/yorikido.com/wp-content/plugins/amazonjs/amazonjs.php on line 637