アウンサンスーチーさんが「国家顧問」に!

時事通信ニュースによれば、「ミャンマーのティン・チョー大統領は6日、政権の実質トップであるアウン・サン・スー・チー氏を新設の「国家顧問」とする法案に署名した。」とのこと。

ミャンマー(1989年6月までの旧称はビルマ)は1962年から続いた軍事独裁政権下の実質的な鎖国政策によって、半世紀にもわたり民主化を求める国民の希望が押しとどめられてきた歴史を持つ。昔勤務した会社がビルマでの事業を行っており、その関係でビルマ人の同僚がいたことから、現地でその同僚の知人に会えるという幸運もあってビルマに個人旅行をした経験がある。ヤンゴン中心部から10キロほど北のインヤー湖に女子学生を含む民主派学生多数(200人も言われる)が国軍兵士によって暴行され投げ込まれて溺死などしたとされる治安警察の非道に対して国民が立ち上がり、1988年8月8日の全国ゼネストで運動の頂点となったことで「8888民主化運動」と言われている民主化の動きが3月頃から学生を中心に始まっていた。しかし9月には民主化を圧殺する形で国軍がクーデタを起こし軍事政権が誕生、1962年からのネ・ウィン体制が終わったあとに、別の軍人が政権を奪取したに過ぎなかったように見える状態だった。ぼくがビルマに行ったのはそれから約2年後ではあったが、空港やいたるところに兵士や治安警察がいて、こわーい感じは続いていた。

Wikiは当時の事実関係を次のようにまとめている。「全ビルマ学生連盟は一党独裁の打破を求め、1988年8月8日にビルマ全土で大規模なデモを行うことを呼びかけた。学生主体であった運動に、政府職員・仏僧・軍人・税関吏・教師・病院職員なども含んだ、さまざまな分野の市民が合流した。これに対し、軍部は無差別発砲を行いデモの鎮圧を図った。この年の4月に(危篤の母に会うために<筆者注>)帰国していたアウンサンスーチーは、8月26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で演説を行い、この国の民主化運動を象徴する人物となった。」

アウンサンスーチー(1945~)はビルマの国父であるアウンサン(1915~1947)の長女。アウンサンは英国に対する独立戦争のリーダーであったためアウンサン将軍と呼ばれてビルマ人なら誰でも無条件に尊敬する人物。基本的には絶対に批判や中傷の対象となることはないのである。なお、ミャンマーでは姓名の区別がないため、というよりもファミリー・ネームがないため(仏陀の前に個人個人が独立していると考えるのかな)「アウンサンスーチー」と一語で標記する。アウンサンは父、スーは父方の祖母、チーは母親の名前からもらったとい意味では先祖の名前を忠実にもらっている形ではある。ちなみにお墓というものもないのが普通。生まれた1945年はタモリや吉永小百合、ニール・ヤングと同年。

アウンサンについて知らないと、なぜ彼女がこれだけ注目され期待されるか十分には理解されないかもしれない。アウンサンは対英独立戦争の同志たち(三十人の志士)と共にビルマ独立義勇軍を設立、日本軍と接触し、日本統治下の台湾で日本軍の指導(南機関)によるゲリラ戦の訓練を積んだうえで、英国が敵であることには共通の目的であることから日本軍との連携によって日本の対英戦争を共に戦い英軍を駆逐して1943年に日本の支援下にビルマ国を建国した。その後日本がビルマ戦線でも敗色濃厚になるや機転を利かせて、アウンサンはイギリス側に寝返って日本及び日本が支援するビルマ国に対しクーデタを起こし、連合国側の勝利によってビルマは再び英国領となったうえ、英国は独立を許さなかったため、アウンサンは英領ビルマ政府の国防・外務担当閣僚として対英独立交渉を続ける中、1947年1月には英首相アトリーと1年以内の独立を保証する協定締結にこぎつけたが、1948年1月4日のビルマ独立を見ることなく1947年7月、他の6人の閣僚とともに暗殺された。こうしてみると、使える資源(植民地宗主国英国、その敵である日本)をタイミングを計りながら頭を使って利用して、いかに祖国の独立のために身を捧げたかは明らか。日本の軍部からすれば裏切りになったとしても、である。

こうした偉大な国父の娘であるアウンサンスーチー。母のキン・チー(1912~1988)は独立後の政権で社会福祉大臣及びインド・ネパール大使となったこともある人。この母のもとでアウンサンスーチーはインドのカレッジや英国オクスフォード大学に政治学などを学び、1985年には来日し京都大学で父アウンサン関連の歴史資料の研究をしている。ロンドン大のチベット研究でスーチーの夫マイケル・アリス(1946~1999)と知り合い、その後スーチーと40年来家族ぐるみの付き合いを続けてきた大津同志社大非常勤講師への取材記事が、日本でのアウンサンスーチーを描いていて興味深い。

1988年頃に盛り上がった民主化運動後、アウンサンスーチーの日本語自伝や当時のビルマの実情を掘り下げた名著「誰も知らないビルマ」(藤田昌宏著、文藝春秋)などが出版され、それなりに実態が明らかになったわけだけれど、日本に逃れてきたビルマ人たちも政治難民を申請したがなかなか許可されないことで日本滞在を諦めて米国などに移住していった人たちが多かったことを記憶している。ぼくの友人2名もどちらも米国に移住した。現実に軍事政権から故郷に残した親・親類への不利な仕打ちがされないとも限らない、という不安も絶えずあったと聞いている。

今回の国家顧問職(英語ではstate counselor)の創設は、従来外国籍の子供を持つビルマ人は大統領にはなれないという憲法を改正する時間と手間を考慮して、大統領の上の究極的国家元首職として国家顧問としたことで上院下院とも軍人出身国家議員を抑えて承認した。8888民主化運動から28年になろうとしているが、本当にようやく名実ともにアウンサンスーチーが国の母となることになったわけである。

さて、今回は最後に四半世紀以上も前のビルマ旅行からのスナップ写真をご紹介。定番のシュエダゴン・パゴダ(仏陀の聖髪が納められている。ミャンマー最初の世界遺産ピュー遺跡に続いて世界遺産になるか?)、カンドージ湖のカラウェイクパレス(シュエダゴンが左に見える)、乾燥納豆を売るおばさん(結構うまい!)、超古い懐中電灯(使えるんだろうか、そもそも)を売る露店、強烈に古いラジオを直しているらしいエンジニア君。今は、経済状況も一変して、生活もかなり豊かになっているんだろう。

シュエダゴン・パゴダ
シュエダゴン・パゴダ
カンドージ湖と左にシュエダゴンの尖塔
カンドージ湖と左にシュエダゴンの尖塔
乾燥納豆
乾燥納豆
超古い懐中電灯の露店
超古い懐中電灯の露店
古いラジオを直してる?
古いラジオを直してる?

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