ゴードン・ライトフットGordon Lightfoot

ゴードン・ライトフットGordon Lightfoot (1938~トロント近くのオリリア出身)

小学2年のビートルズ体験以後では最初のぼく的ヒットをもたらした人の一人。ちなみに、レコードを買ってもらった最初は1966年のモンキーズのデビュー曲「恋の終列車Last Train to Clarksville」c/w「希望を胸に」。田舎のレコード屋にはライトフットの作品は置いてなかった上に、自分に、アーチスト名と曲名を突き止めてレコード屋に注文して買うという知識がまだなかった。それにまだ個人によるカタログ注文などがポピュラー音楽全般にできるわけではなかったと思う。

さて、ライトフットを知ったのはたぶん小学校6年か、中学1年のNHK-FMの日曜朝の「世界のメロディ」だったと思う。そのあとにあの偉大な小泉文夫先生の「世界の民族音楽」をやっていた。我が家ではこの頃にソニーのオープンリール・テープレコーダーTC-900(エンジ色で結構シックだった)を購入していたので、録音レバーと一緒に進行レバーをガチャッと回す両手オペレーションの、今から考えるととっても面倒なものだったけれど、ラジオのスピーカーの前にマイクを置いて録音する極めて原始的な方法でのエアチェック。ラジオでかかって、お、いいなとガチャッと録音した曲は結構覚えているものだけれど、特にカナダ・アメリカ系「フォークソング」はいろいろ覚えている。ライトフットはIn the Early Morning Rain とSoftly、エリック・アンダーセンのCome to My Bedside, My Darling(加藤和彦などが日本語カバーをしました)、1963年8月のワシントン大行進(キング牧師のI Have a Dream演説(注1)で有名な)のときWe Shall Overcome「勝利を我等に」(注2)を歌い、ディランのWhen The Ship Comes In「船が入ってくるとき」でコーラスをとり、そしてディランを世に出してブレークするまでの間、一時恋愛関係にもあったジョーン・バエズ、等々。バエズは1967年1月に来日していますね。ヤマハの音楽日めくりというなかなか楽しいwebがあるので参考に。

http://www.yamaha.co.jp/himekuri/view.php?ymd=20010111

前置きはそろそろこれくらいにして、ライトフット。

In the Early Morning Rainはいい曲です、ほんとに。ファースト・アルバムLightfoot!(1966)所収。オレの彼女は雨なんか降らないサンシャインの西海岸にでかいボーイング707で行っちゃうってよ、この朝っぱらからの雨の中、このオレったら1ドルしかなくって行く当てもない、汽車なら飛び乗る(注3)ところだけどジェット機じゃなあ、飛び乗れゃしねえ、ちぇっ、という内容。ディランはライトフットのファンであることを公にしていて1970年の自画像Self Portraitでカバー。コーラスワークではPP&M(ピーター・ポール&マリー)のカバーが素晴しいが、おらが故郷トロントの先輩ライトフットに敬意を表したニールヤングも2014年のディランなどの名曲のカバー・アルバムA Letter Homeでカバー。このアルバムはわざとモノラルで録音されて昔のラジオの風情を演出しているものなので、普通のステレオサウンドで聞きたければFarm Aid 2013のyou tube 音源がおすすめです。

Softlyはライトフット定番の12弦をmaj7th多用しとてもロマンチックな仕上がりの名曲。1967年のセカンド・アルバムThe Way I Feel に入っている。このアルバムはCanadian Railroad Trilogyも入っている名盤。こっちの曲については、1967年はカナダ建国100年の年で、ライトフットがカナダの公共放送であるカナダ放送協会(CBC)から委託を受けて作ったもの。国家発展の礎となった大陸横断鉄道(Canadian Pacific Railroad)建設の夢に向けて血と汗を流した国民をたたえる内容。1972年BBCライブyou tube音源に、カナダ人でこの曲を知らないということはあり得ないし、もしそうであれば人生に失敗する(!)とまでコメントしている人がいる。うーん、言いたいことはわかるけど、日本にそのような歌があるのかなあ。ともあれ今回紹介した3曲が今はファースト、セカンド・アルバムの2枚1CDでお得に聴けるのはうれしい限り。

(注1)1963年8月28日に行われたMarch on Washington for Jobs and Freedomだから、正しくは「仕事と自由を求めるワシントン行進」。約25万人(大部分がアフリカ系黒人)が行進した。キング牧師は当日別のスピーチ予定稿を用意していたが、I Have a Dreamの部分は予定稿にはなかった。出演した黒人霊歌の女王マヘリア・ジャクソンがスピーチ中の牧師に2回も「あの夢のことを聴衆みんなに言いなさいよ、マーチン」とせっついて、牧師が原稿を離れて即興的に行ったもの。その2か月ほど前の6月23日に行ったデトロイトの市民権運動での演説で大体の骨格ができており、それを聞いたジャクソンが強い感銘を受けていたためだと言われている。

http://www.thisdayinquotes.com/2013/08/the-mlk-speech-that-almost-wasnt-i-have.html

(注2)2010年2月10日にディラン、バエズ、ジョン・メレンキャンプ、スモーキー・ロビンソン等錚々たるミュージシャンがホワイトハウスで開催された「市民権運動から生まれた音楽を祝うイベント」でそれぞれバラク大統領ら政府高官や関係者に演奏を披露した際、バエズは「勝利を我等に」を歌っている。

(注3)「汽車に飛び乗る」というのはもちろん無賃乗車しながらアメリカを渡り歩いた渡り鳥労働者、ホーボー(hobo)の行動を暗示する内容。文学・音楽の世界ではディランの師匠ウディ・ガスリーを含め多くの人がホーボーをアメリカの自由なフロンティア精神を体現している人たちと考え、憧れと共感を示した。(Wikipediaより一部引用)なお、西海岸に行っちゃう彼女を追っかけて行った訳ではないかもしれないが、ライトフットは1958年から2年ほどハリウッドの音楽学校でジャズ作曲技法とオーケストレーションを学んでいる。

 

50年くらい親しんできた音楽/ジャズとカナダ・アメリカフォーク系

音楽はかれこれ50年ぐらい親しんできた。ポピュラー音楽のこの50年の発展・変遷は著しいものがある。51年前の1964年にぼくは小学校2年生。東京オリンピックが10月で、三波春夫の「オリンピックの顔と顔、それトトントトトント」(東京五輪音頭)とやっていた同じ年に、マイルス・デイビス 、(マイルスコンボの一員として)ハービー・ハンコック、ウイントン・ケリー、デイブ・ブルーベック、デューク・エリントンなど錚々たるミュージシャンたちが初来日している。この賑やかさは驚き。

戦後の日本人にとっては、ジャズが身近になった背景にはいくつかの理由があるだろう。まず第一に安価に家庭でFEN(極東の米軍放送)が流す最新ジャズを聴ける環境があったこと。ぼくの田舎は山に囲まれていたけれど夜は810MHzが聞こえた。横須賀を中心に関東では日本人と進駐軍のミュージシャン(その後西海岸で活躍するハンプトン・ホーズが有名。当時の日本人たちはHawesをホースと聞いて、馬さんというニックネームで呼んでたそうです。)同士の交流がその後の秋吉敏子や渡辺貞夫などのモダンジャズ先駆者を生み出す土台となった。ちなみにいわゆるビートルズなどのBritish Invasion後一変したロックの分野ではモダンジャズにしばらく遅れて1972年頃からミュージシャンの来日が増えてきている。日本初のロック・プロモーターとしてUDOが設立されたのが1972年。札幌オリンピックの年だね。トワ・エ・モワの「虹と雪のバラード」です。札幌オリンピック後の春に高校入学してほどなくしてから狂っていたニール・ヤング初来日が1976年3月10日(武道館!行きました!)。この辺の「カナダ&アメリカ・フォークミュージック」に由来するミュージシャンたち」はジャズと共にずっとぼくの音楽人生の重要な位置を占めてきて、今ではみんな大御所になっているので、このブログでもちょっとずつ書いていきます。

今年の山楽レビューと来年のプラン:南ア椹島までの狭隘クネクネ県道について

年末年始は何事についても今年のレビューと来年どうするか、ということを考えるタイミング。今年の山楽については(1)北海道の200名山が完了できたこと、(2)白樺荘ベースで大無間山と椹島ベースで笊ヶ岳をそれぞれ日帰り、合計3泊で完了できたことがアチーブメントだったかな、と思っています。とくに大無間山を崩壊著しい鋸歯尾根を使わずに北東尾根利用で(webに情報を掲示してくださった皆様に感謝)行くことができたことはうれしい。だって単独行だし、ルート自体に物理的リスクが高いものをわざわざ選択したくないから。反省点としてはルート確認が難しい場合に利用しているガーミンGPS(日本正規代理店のものはバカ高いので米国出張時に買った英語版OREGON 450を日本語化)が、畑薙第二発電所からの送電線がGPS電波を干渉して、数十メートルルート誤差を生じさせていたため、第二鉄塔からうろうろした挙句、明神橋そばの送電鉄塔巡視路取付きに降りるルートを外してしまい、ルートを探しあてるまで45度くらいの急傾斜のザレをヒーヒー上り返すはめに。高電圧の送電線の場合GPSは狂うことがあるので、視界が利かない時は特に注意しなければならないと思います。

小無間北東尾根1805Mピーク
小無間北東尾根1805Mピーク

来年は残雪期オンリーの北陸の笈ケ岳と毛勝山(最近は夏道で12時間コースもあるようだけど標高差1600メートルはうーんキツイ。大無間も同じくらいだけど。)をゴールデンウィークあたりに完了して、あとは奥大日岳、雪倉岳の北アルプス2峰、上河内岳、池口岳の南アルプス+深南部各1つで200名山完了。

ところで、南アは存在感のあるいい山が多いのは魅力だけれど、椹島までのアプローチが嫌いだよホントに。まだ、長野側の易老渡の方が個人的には好きだなあ。易老渡も何年か前の台風豪雨の復旧作業員の方に死者が出たり、路肩が崩壊したりしてよく通行止めになっていたけど。いずれにしても体を楽にしてかつ時間と行動の自由を確保したいからレンタカーしていくのが最近のパターンで、井川湖御幸線(県道27号)は狭隘クネクネが延々と続く路線で3年前の聖・赤石・荒川三山縦走のアプローチのときに夜かつ雨模様のときに走行することになってホトホト死ぬ思いをしたので、今年は同じく狭隘でも路線バスも走っている県道189号線(三ツ峰落合線)の方がまだいいかと(でも山越え峠道でこちら側がガケになっている場面で対向車線にダンプが急に見通しの悪いカーブから出てきたり!ギエー!)。でも地元ではおばちゃんもこの狭隘クネクネ道路を平均60キロで走っているので驚異。慣れるものなんだろうな。

音楽山楽

音楽ライフは小学2年のビートルズに始まり50年、秋田・岩手・青森三県境の奥羽山脈主脈の麓に育ったわりに(だからこそ?)、山の魅力は不惑の年恰好まで知らずに来たため、山楽ライフは20年。200名山完登までは6つほどピークハントのカウントダウンは続けて、その後は東北の藪山をナタを手にのんびり歩こうかと思っています。ちなみに日本三県境の最北がわが故郷の四角岳(1003m)です。


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