大館ミントンハウス      ファン交流       弘前大学フランコフォニーの親分さん

ミントンハウスのファンつながり。

弘前大学の人文学部准教授でフランス語教師をしつつ、りんごつながりでブルターニュのシードルづくりの人たちとつながりなどの中心的役割を果たしている熊野真規子さんのことを聞いたので、ファンレターを出した。ぼくもフランスにはお世話になっているクチなので(アンドレ・ブルトンを中心とする、第一次世界大戦における人間同士の殺戮に対する絶望から生まれた運動としてのシュールレアリスムを勉強していたので。師匠はプルースト研究者だが。)、かつ日本では文科省が「文系」(いまどき「文系vs理系」などというガラパゴス世界観は日本くらいじゃないのかな?)学部は「経済成長に役に立たない」から「基本的に廃止せよ」とのお達しを出している昨今、かつ日本ではアメリカ経由の世界観リスク観しか大メディアでは報じられないため、自ら積極的に欧州などのメディアをきっちり見聞きしておかないと、いつか来た道になると思っている。日本で垂れ流されている情報(特に地上波TVの言説・グルメ・お笑い関係の情報は)はそもそも一億総○○にするためのものであるのは言うまでもないと思うので、相手にしてはいけない、マジで。

フランコフォニーFrancophonie(世界中の様々な文化圏に属する、民主主義や人権といった普遍的な価値観とフランス語とを共有すること)を手段として、気づきやつながりを創造していっている人たちへエールを送りたいなあ。

弘前の伝統もある(太宰も、ハイカラ好きも、フレンチ・レストランが異様に多い街であることも、そして世界に冠たるリンゴも)。目の付け所は良かったね、だけで終わらせてはもったいないね。イノベーションをおこそう。

「皆さんが見つけた、弘前にあるフランスに関わりあるものや人を教えて下さい」という取り組みも、イノベーションにつながるね。Allez!

大館ミントンハウス   佐東画伯       兼マスター兼オーナー

昨年11月のパリのテロ事件の直後にミントンに行ったときに、マスターの佐東さんと、ふとしたことでパリの話になった。ぼくもパリは出張含めて何回行っているのかな、5回か。サン・ドニ近辺でのテロだったから、昔からイスラム系の人たちが多い物騒な地区ではあったし、佐東さんもちょうどパリに行っていたことは知っていたので、大丈夫でしたかと聞いたところ、作品をサロンに出展したので行っていたのだとのこと。もう何年も入選作を出展している常連なのだ。今年はニューヨークにも進出するとおっしゃっている。ぼくもニューヨークは7月ごろに行こうかと企んでいるところ。

佐東さんのサロン出展作品をいくつか紹介。どれも鮮烈な水彩=Water Colorだ。

M.Akira SATO_Salon D'automne 2012M.Akira SATO_Salon D'automne 2013 M.Akira SATO_Salon D'automne 2015

 

 

デクスター・ゴードン    最後の映画「レナードの朝Awakenings(1990)」つながりで         ランディ・ニューマン   

デックスの死後公開された最後の映画は、嗜眠性脳炎患者にパーキンソン病要の薬を応用して目覚めさせる実際の試みを医療フィクションものに仕立てた「レナードの朝」で、役はミュージシャンのロランド。医師役はロビン・ウィリアムズ(注)で、ランディ・ニューマンが音楽担当。病院に父親を見舞いに来ていたポーラが好きになり、レナードが勇気を出してポーラに心のうちを打ち明け、彼女の手を取ってダンスをするシーンで流れるDexter’s Tune という死ぬほど美しい曲がある。これはランディ・ニューマンのソングブックvol 1のオープナーIt’s Lonely At The Topのイントロとして使われているけど。

ランディ・ニューマン(1943~)はLA生まれのシンガー・ソングライター。70年代からイーグルズ、ジャクソン・ブラウンらと親交がある、この人もミュージシャンズ・ミュージシャン。最近は一家の伝統芸?(伯父、叔父が映画音楽の大作曲家)である映画音楽中心に活動していて、トイ・ストーリーの「君はともだち」なんかも文句なしの名作。

ぼくは1980年にBorn Again(カバーが目がグリーン$$のいで立ちのランド(と仲間内では呼ばれるので、ぼくもそう呼ばせていただくとして)がバンクランプのあるデスクで執務している。デスクに飾ってある家族の写真にも妻・子供2人全員の目がグリーン$$になっている!)を買って、しょっぱなのMoney That I Loveの強烈なアイロニーにまず参り、Ghostsの静謐で美しい虚無に参り、以来ずっとファン。

映画音楽というのは、視覚と聴覚と記憶と想像力を、刺激するものなのだろうし、そういう視点でランドはものすごくエモーショナルな作品を作る天才。彼のウィットが聴いた皮肉は英国人にはさらに受けると見えて結構英国に仕事に行っていて、2008年のツアーでロンドン東部にあるロンドン交響楽団のセント・ルークス(18世紀の教会を音楽ホールに改装)で行われたLive in Londonでもお客さんを大いに笑わせている。このスモールライブでも演奏したが、The Guardian 紙の日曜版Observerの企画How I Wrote(「名作のいきさつ」シリーズでしょうか)に呼ばれて夜行便で会場に着き、あー声がガラガラだよ、よれよれの表情だよなー、などといらついて、メーク担当に頬紅塗ってよ、まだ昼前だから雰囲気でないな、シャブはないの?などと回りを大笑いさせて、ピアノに向かって、この曲。ランドの腫瘍内科医の弟アランAlanから23歳のアメフトのスターが脳腫瘍で治療の甲斐なくあっという間に天に召されたことを聞いて作った曲なんだって。人はある年齢になってからは乗り越えられない悲しみというのがあるって、演奏前に話しかけます。泣けます。

(注)2014年にうつ病で自死したと報道されていたが、つい3か月くらい前に夫人のスーザンさんが、うつ病が主原因ではなくレビー小体型認知症への闘いの結果の自死だと明かした。この映画とロビンの死に因縁めいたものを感じる。

デクスター・ゴードン    1ホーン・カルテットの夜    映画「ラウンド・ミッドナイト」

ニューヨークに5年ほど住んでいた1980年代後半。モンクはこの世を去っていたが晩年のマイルスは、マーカス・ミラーMarkus Millerらのフュージョン系ミュージシャンとのコラボをしていた。ポップ分野ではマドンナが1983年のデビューアルバムが大ヒットし、地位を確立して行った。ボーダーラインBorderlineがMTVでよくかかっていたなあ。ジャズはブルーノート、ヴィレッジ・ヴァンガードの主要どころと43丁目の6番とブロードウェーの間で当時の勤務先からも近かったタウンホール(なぜかブラジルの独立記念日あたりにジョアン・ジルベルトとか弟子のカエターノ・ベローゾとかも来て演奏していました。もちろん行きました!)とか聴きにいっていたかな。

チケットの半券を大事に持っていたから日付もはっきりしているけれど、ワンノブ人生最高の演奏を聴いたのは、デクスター・ゴードンDexter Gordon(1923~1990)の1988年12月9日、コネチカット州スタンフォードStamfordのパレス劇場(Palace Theater)でのもの。メンバーはTommy Flanagan(p)、Ron Carter(b)、そしてBilly Higgins(ds)。このトリオを従えて吹くのだから悪いはずはないのだけれど、1986年の映画「ラウンド・ミッドナイト」にバド・パウエル+レスター・ヤング風の役で出演し演技も高い評価を得て(オスカー主演男優賞にノミネート)、サントラ盤も売れ、この年のグラミー賞ジャズ・ソロ部門を受賞し晩年の最後の輝きを示していたときだった。ただ、デックス(Dexというのがファンが呼ぶ愛称)は1962年にアメリカからパリへ、その後デンマークへ移住し、祖国アメリカには仕事があるときだけ戻っていた。少なくないジャズ・ミュージシャンがこうした形で欧州に移住している。ケニー・クラーク、バド・パウエル、ケニー・ドリュー、ジョニー・グリフィン等々。マイルスでさえ、パリに演奏旅行して心から自分たちの音楽を親しみ、対等に接してくれる文化の都に心惹かれ、アメリカに戻りたくなくなった、と記している。(マイルスの場合はジュリエット・グレコとの大恋愛があったからなおさらであっただろう。)(注) いかに名前が売れてきたジャズ・ミュージシャンであろうとも、黒人が生きていくにはひどい目に遭わなくてはいけないのがアメリカという国なのだ、ということだろう。この辺の人種差別問題は21世紀になってからも、セントルイスなどの事件によって、むしろ深刻さを増しているのかもしれない。パリもイスラム国関連のテロがあったし、EU全体が移民に対して神経質になっている現在では、外国人に対する包容的態度は変化してくるのかもしれない。

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さて、1988年暮れのデックスに戻ろう。会社の仕事を終えて家に帰り、一人で師走のI-95をスタンフォードまで一人で車を走らせ、比較的こぢんまりとした会場の10列目くらいで、プレイヤーの息遣いも聞き取れるロケーション。セット・リストはメモしてなかったから、正確には思い出せないけれど2枚のサントラ盤Round Midnight とThe Other Side of Round Midnightの1986年発表のピースが主に、You’ve Changedもやったはず。 ここでは、Round Midnightに入っているChan’s Song (Never Said)を。主人公のサックス吹きDale Turnerが娘のChanに捧げますとして演奏する映画のシーンからのものと、ぼくが当時よく聞いてた(同い年なので特に!ファンです)ダイアン・リーブズDiane Reevesのセルフタイトル盤Diane Reeves (1987)に作曲者ハービー・ハンコック自らピアノで参加しています。ちなみに作詞はスティーヴィー・ワンダー。名曲。

(注)2006年の英紙The Guardian のマイルスが生きていれば80歳になることを記念して、ジュリエット・グレコとマイルスの恋愛を祝うというインタビュー記事。サルトルが、「君はジュリエットと結婚したらいいじゃないか」とマイルスに言ったのよ、彼は「ぼくはジュリエットを愛しすぎて彼女を不幸にさせちゃうよ」と答えたわ。私が彼についてアメリカに行ったら(人種問題から)散々非難されてうまくいかなかったでしょう、とジュリエット・グレコは答えている。

デックスの夫人マキシン・ゴードンが書いていて2014年には出版の予定としていたその名も「Dexter Calling:デクスター・ゴードンの人生と音楽」 という伝記が、今年には出版されるようだ。マキシン自身の年頭のあいさつに記されている。早く読みたいな。

「証言で綴る日本のジャズ」(著)小川隆夫

ジャズファンで小川隆夫さんを知らない人はまずいない。ご自身も若いころプロミュージシャンを目指し(エリック・クラプトンが弾いていたギブソンも所有している)、新宿が熱い時代のピットインに足しげく通っていたのだから、筋金入りのジャズ愛好家人生を歩んできた人。小川さんDJで2010年から5年弱InterFMで放送していたJazz Conversationは小川ジャズライフを聴取者と共有するとてもいい番組だった。その中の名物コーナーMeet the Star のインタビューを中心に日本のジャズを作ってきたミュージシャンや、クラブやジャズ喫茶の店主、そして貴重な録音を残すなど、ミュージシャンを支援した人たちの、あのときこのときの真実を語ってもらった貴重な記録が、「証言で綴る日本のジャズ」(駒草出版、以下ぼくのブログでは「証言」または「小川さんの証言」ということにする。)として昨年秋に出版され、ぼくもとても面白く読んだ。そして、つくづく、ぼくの世代くらいまではジャズ・シーンにおいても、戦後日本の興隆と停滞、そして若い世代の羽ばたきを実体験として、または十分に感覚的な理解を伴って、見て来られたのだなあと、思った。一方で、インタビューされた大重鎮の方々は、主に昭和ヒトけた世代なので、出版時点で鬼籍に入られた方もいらっしゃるのは、仕方のないこと。この方々の世代から、いずれ聞けなくなる話を内外ミュージシャンの動き、録音技術、ホール・クラブ・ジャズ喫茶などの演奏空間などの側面から業界横断的に記録した、ということだけでも極めて意味のある作品だというべきだろう。

それにしても、ジャズはせいぜい100年程度の歴史のとても新しい音楽で、さらに言えば「踊る音楽」から「聴く音楽」になってから6、70年しか経っていないなかで、日本人ミュージシャンがどのように道を切り開いていったのか、先人たちの証言は興味深い。戦後の連合国軍占領下で首都圏中心に多くの米軍基地の将校クラブ等での音楽ニーズに応えるため、日本人ミュージシャンが東京駅など主要駅で毎日トラックに乗せられて駆り出された様子(ベースは「演奏しないでいい、持って立っているだけでいい」というのは笑える)、連合国軍から再独立(サンフランシスコ講和条約:1951年9月8日調印、1952年4月28日発効)し在日米軍の聴衆ではなく日本人向けに米国人が演奏しに来たこと、などとても興味深いエピソードが満載。おすすめです。太平洋戦争の「終戦」は本来は講和条約締結によって日本が独立を回復した時と考えるのが妥当だよね。

ぼくは小川さんの証言のエッセンスは、日本のジャズの先導者たちが苦労しながら米国軍人相手に腕を上げ、当時のドル円の為替水準もあって破格の収入を得ることで力をつけていき、秋吉敏子、渡辺貞夫などが先陣を切ってアメリカのバークレーメソッドを学習して理論に裏打ちされた日本人のジャズを打ち立て、後進に伝えたこと、その後文字通り世界を股にかけて日本人のジャズを、しかし世界に通じるJazzをクリエートしていったということ、その土台には、日本人の努力もさることながら、アメリカの有力ジャズメンの中の日本滞在中に日本のジャズメンとの交流の中で日本人を大いに鍛えた何人かの人たちの存在も忘れてはいけない、ということだと思う。何回かに分けて、ぼくも証言の中から印象深いエピソードを取り上げて考察してみることにしよう。

今回は証言からのtakeawayシリーズに先立ち、ぼくの小川さんとのお付き合い(こちらがファンだということに過ぎませんが、10 1/2 CAFÉ +でのONGAKUゼミナールではぼくも80年代NY在住だったことなどでしばし雑談しました)のきっかけとなった10年前の「となりのウイントン」(NHK出版)の書評を紹介することにしよう。10年前の短い文章なので、今から読み返すと舌足らずのところもとあるけれど、ご容赦ください。ラストでニューヨークから日本へ戻るときにプーさん(菊地雅章)から自宅ロフトで録音したピアノソロのカセットテープをもらって感激するくだりがあってとても心温まります。プーさん、ぼくも好きだな…。合掌。

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ジャズとニューヨークへの賛歌、そして「おかしな日本」

・・・小川隆夫著『となりのウイントン』

整形外科医とイベント・プロデューサーの二足の草鞋。超個人的ジャズ史、そしてニューヨーク。おお、これは読まないでいられようか。それはぼくも筆者がマンハッタンに住んでいた1981~83年の翌年から5年間ニューヨークに日本企業の駐在員として生活をした経験があるからだし、ジャズを高校生からずっと聴いてきた日本人だからだ。

著者が描くように、ニューヨークにはジャズや他の芸術を学び、自己を磨く苦労をしている人々への社会的な愛情がある。人間に必要なものについての一人ひとりの志が、組織、地域、社会というような形で社会化できるしくみと個人の行動規範があるように思う。それに比べて日本のジャズは、「マスコミが取り上げるものに流される」し、音楽はファド(一時的な流行)として消費されるだけ。こんなことでは音楽文化が育たない。本書でも、コマーシャルに取り上げられた年は3000席のホールが満員になって、翌年同じ会場が空席だらけとなった、ロン・カーターのコンサートの話が紹介されている。

著者はジャズの歴史の中で、最良の時期のニューヨーク・シーンを見聞きし、その証人となった一人であることは疑いがない。ニカ男爵夫人のような伝説的人物との邂逅やマイルス、モンクといった第一級アーチストの生死、日野皓正を始めとする日本人ジャズマンの辛苦。そうしたことへ共感や場の雰囲気というものと著者の若き日の成長を共有できるのも、本書の魅力だ。ぼくのように著者に感情移入してしまう要素を備えた読者でなくても、ジャズを愛していて「マスコミが取り上げるものに流される」日本のおかしさを感じている方についても、この書から多くの発見と示唆をうけることだろう。

今年は、コルトレーン来日40周年の年だった。坂田明さんが、「もっときちんと生きなければいけないということをコルトレーンに教えてもらった」(*)のが1966年だ。日本のジャズを支える何かが久しくなくなっている、そういうことを改めて気づかせてくれる書でもある。

(*)坂田明「コルトレーンが人生を教えてくれた。」 (JazzToday 2006.07)。なお、コルトレーンの来日(1966年7月)時の演奏は多くのミュージシャン、評論家、ファンに対して賛否両論を巻き起こしたことは広く知られているとおり。世界的なコルトレーン研究家である藤岡靖洋さんの著作「コルトレーン ジャズの殉教者」(岩波書店、2011)に詳しい。なお、日野皓正も坂田明と同じように「自分も根性入れてやらなきゃと思ったね」というコメントを紹介している。

レコード大会

秋田大潟村の河内スタヂオで久しぶりのレコード大会。

Kochi Studio

ぼくらの後にタモリ倶楽部では12月に「輝かないニッポンレコード大会」っていうのをハーマン・インターナショナルの試聴室でやってましたが。石神井高校の第34回卒業記念レコードなど、いやー最高!(笑)

ぼくらの大会はフツーにジャズをスコッチ片手に楽しむだけだが、今回のピックは

・アーマド・ジャマルAhmad JamalのChamber Music of the New Jazz、

・モーズ・アリソンMose AllisonのLocal Color

・クアルテート・エン・シーQuarteto Em CyのAnthologia do samba cancao

・ビル・エバンスBill EvansのWaltz for Debbyのオリジナルアナログ音源のダイレクトカット盤

最初の2枚はぼくがワシントンDCに出張した際、週末にメリーランド州シルバースプリングのJoe’s Record Paradise という中古レコード屋さんでそれぞれ20ドルで入手したもの。日本の中古価格の5分の1くらいかな。ワシントン近郊ではここがジャズだけでなくソウルもR&Bも品揃えが豊富で、レンタカーせずともDCのメトロセンターから電車で行けて駅からも歩けるのでおすすめです。

クアルテート・エン・シーは、ブラジルのフリマサイトから苦労して買った(これについては別途アップします。いやー、たった60ドルを送金するのに都心まで行ってコンプライアンス・オフィサーまで出てきて。)の1975年大傑作。アリー・バローゾやカルロス・リラなどの名作を取り上げた最高のサンバ・カンソン集。誰もが知っているエバンスの超超名盤なんだけど、ぼくが今回持参したのは何年か前に買った「オリジナルアナログテープより変換した192kHz/24ビットマスターを基にダイレクト・トランファー・カッティングした」という、ふつうのWFDじゃないもの。こんなレコードを河内スタヂオの大音響でゼイタクに聴いて酔っ払いました。(レコードジャケット写真です。手作り感満載。)

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長年、音楽経験と集めた音源が蓄積してくるとアルバム何千枚か分の音楽在庫から、そのときの好み、気分、思い出したことから主体的に選択する曲、決定版アーチスト、その後のフォロワー、革新者、などなど「聴く」行動をガイドしてくれるものが欲しくなる。ぼくのように、いまだに昔の名盤も聞きたいが新しい作品についてもできる限りアンテナを張っておきたいという欲張りタイプの人間は、どうしたらいいか。レコードが高かった時代には、ジャズ喫茶が新しい作品をいち早く顧客に提供する役目を果たしていたし、ぼくが東京のジャズ喫茶に親しみだした1970年代後半でもジャズの情報はジャズ喫茶とスイング・ジャーナルなどのジャズ専門誌だった。いまもジャズ・ライフなどの雑誌はあるものの、Webがこれだけ発達した現在は、欧米各国のジャズ放送を直接聴くという手もある。

その場合は、やはりセンター・オブ・エクセレンス(COE:ある分野でコアなテクノロジー、人材などがある結果、先頭を走っている地域:この用語はベンチャー投資や起業に関する経済学や大学のハイテク先端研究領域などではよく使われる)の一つのニューヨークの(正確にはハドソン河対岸のニュージャージー州ニューアークの放送局だけど)WBGOも、今はWEBで(iPhoneアプリでも)放送が聴けるのでおすすめ。この正月のWGBO発のニュースは、インド系でイタリア出身のルドレシュ・マハンサッパRudresh MahanthappaがNPR音楽批評家賞を受賞した、というものだった。イタリアも現在のジャズのCOEだということがよくわかるという出来事。インド系の人たちはグローバルに見たら中国系(華僑系)よりも先にジャズCOEに到達しているのかな。

昨日のニール・ヤングの     パリ・プライベート・ショー!

ジャズ喫茶や音楽雑誌が情報を得る場だったことは昔からそうだったと思うけど、あるミュージシャンについて、「母国や海外でツアーでの評判は、次のアルバムは」的な情報は、そもそも海外ミュージシャン(「外タレ」という言葉は1980年代までは外国から日本市場にやってきてコンサート等を行う外国人ミュージシャンを指していただが、現在は「主に日本国内でのみ芸能活動を行っている外国人のタレント」を指すものとなっている(注)。前者の意味での「外タレ」は死語。)について、日本のメディアが報じることはまずないので、またプリントメディアで仮にカバーするとしても1か月2か月後になるので、豊かな音楽人生を歩むためには(!)、早く情報を入手できる自前の手段を持つ必要がある。現在ではこうした手段は基本的にはweb上に提示されているものから、自分で取捨選択でき、有料・無料の情報提供サービスを受けることができる。

メルマガ登録をしておいた英UNCUT誌の今日のトップニュースは、ニール・ヤングのファンとしてはかなりの(!)ニュースだったので紹介する。当然ながら(!)は「驚き」。この驚きには「ファン」であることの立ち位置や理解によっていろんな内容が入るかもしれないけどね。

ニールが前作「ザ・モンサント・イヤーズ」で起用したプロミス・オブ・ザ・リアル(ウィリー・ネルソンの息子たちが在籍するユニット)と共に、パリで投信運用会社カルミニャックCarmignac Gestionのための「プライベート・ショー」を開催。セットリストには曲は発表されてから46年間演奏されていなかったTill the Morning Comes、1997年以来の4回目の演奏となるCripple Creek Ferryを披露した、というもの。どちらもAfter the Gold Rush(1970)のA面とB面それぞれのラスト・チューンで、この2曲をメドレーで演奏している。あれ、Creepleというミススペルになってるけど。

UNCUTはカルミニャックは2012年10月にも同様のプライベート・ショーをローリング・ストーンズを招いて行った実績がある、と伝えている。ぼく的にはもちろん驚きは、うれしい驚き。この懐かしい曲をこれだけの長い間演奏していなかったことは知らなかった。

でも、遺伝子組み換え作物の種子や農薬の販売大手であるモンサントに反対する立場をとるニールとカルミニャックの投資ポートフォリオや投資姿勢にコンフリクトがあったりしないのかなあ、と思ってカルミニャックのサイトを一応チェックしてみた。個々のファンドに組み込まれている個別銘柄までは当然わからないけれど、当然このレベルの投信運用会社なら環境・社会・ガバナンス(ESG)問題に配慮することにより、社会的責任を果たすことを基本精神とする国連の「責任投資原則」Principles of Responsible Investmentを守る機関であると公表している。外部機関(MSCI)のESG指標を用いて客観的に投資基準に合った対象を選んでいますよ、としているから、ま、問題ないでしょう。(ちなみに、日本では昨年に同様の機関投資家向けの行動原則「日本版スチュワードシップ・コード」が導入されているけれど、ESGへの視点までは含んでいない。日本的には「一気にハードル」を上げると「調和を乱す」ので、みたいな気配りや暗黙の了解とかがありますね。)

それにしてもストーンズとニール・ヤングか。いいセンスしてます。パリ本拠で運用資産500億ユーロ(約7兆円)。1989年創業。創業者かつ総帥はエドゥアール・カルミニャックEdouard Carmignac (1947~)、コロンビア大MBA(1970)で米国の証券会社で働いていた経験あり。多分この頃だねニール・ヤングを聴き始めたのは。息子のシャルリCharlyはフランスのMoriartyというバンドでギターを弾いてるそうだし。自分のバンドーム広場のオフィスにはアンディ・ウォーホールの毛沢東とレーニンの肖像画が飾ってあるんだって。(出所)

Wiki情報によれば、カルミニャックは社会党オランド政権に対して、富裕層への課税は国を破壊するとして公に批判しているそうだから、そういう「富裕層」の利害を体現する立場の会社である。当たり前だけど。でも、毛沢東とレーニンはあの世でカルミニャックをどう思って見てるのかなあ。

Judy Blue Eyes の       ジュディ・コリンズ

ジュディ・コリンズ(1939~)は確かにきれいな青い目をしている。この人もNHK-FMの世界の音楽で結構かかったんじゃないのかな。ワシントン州シアトル生まれ、コロラド州デンバー育ち。父親は盲目のラジオDJだったそうだ。夫がコネチカット大学の教員だった関係で彼女のフォーク・グループが注目され、ニューヨークのグリニッジ・ビレッジへのデビューとなる、という流れ。ジュディ・コリンズが取り上げてヒットし、それによって有名になったシンガーソングライターたちは少なくない。ランディ・ニューマンRandy NewmanのI Think It’s Going to Rain Today、とレナード・コーエンLeonard CohenのSuzanne(1966年の6枚目アルバムIn My Life)、ジョニ・ミッチェルJoni MitchellのBoth Sides, Now(1967年の7枚目アルバムWildflowers)、そしてサンディ・デニーSandy DennyのWho Knows Where the Time Goes(1968年8枚目同名アルバム)それぞれに所収。目利きジュディの面目躍如というところ。

青い目のジュディに恋したステーブン・スティルスがベースとギターで参加している8枚目大ヒットアルバムWho Knows Where the Time Goes所収のSomeday Soonがとてもいい感じ。バディ・エモンズのペダルスティール・ギターが光る。エモンズは1967年頃に友人のカントリーの大物Roger Millerロジャー・ミラーの紹介でナッシュビルからLAに移ってスタジオ・ミュージシャンとして活動し始めていた。その最初のレコーディング・セッションがジュディのSomeday Soonだったらしい(wiki情報)。「Big E」「世界最高のステール・ギタリスト」と言われた人で、残念ながら去年死んじゃったけど。この人もプロのミュージシャンが尊敬し、慕うミュージシャンズ・ミュージシャンの一人。1963年にはジャズ・ミュージシャンたちとSteel Guitar Jazzというなかなかの名盤も残している一方、カーペンターズの大ヒットアルバムA Song for You(1972)のトップ・オブ・ザ・ワールド(アグネス・チャンがカバーしましたね)、Now & Then(1973)のジャンバラヤでもバディ・エモンズはグルーヴィなプレイを聞かせる。ベスト盤には当然ですが両方入ってます。

Someday Soon。ロデオ(荒馬乗り)の男に恋した娘が、両親に反対されても(反対されるとなお燃えるというのは古今東西同じか?)いつかもうすぐ一緒になるわ、という他愛ないラブソング。若い頃に自身がロデオ乗りだったカナダのイアン・タイソンIan Tyson(1933~ バンクーバー育ち、1958年以降主にトロント、自分の牧場のあるアルバータ州で活動)の曲。ぼくが持っていたのは廃盤LP「青春の光と影 ベスト・オブ・ジュディ・コリンズ」のオープニング・チューンだったけれど、今入手可能なベスト盤はこれ。

1990年のグレアム・ナッシュの番組でジュディ・コリンズが出演し、サプライズゲストの形でスティルスが登場してコリンズ ウィズ スティルス=ナッシュでSomeday Soonを歌ったyou tube 音源、とってもいいです。

大館ミントンハウス

ぼくのジャズとの出会いは単純明快で、大館のミントンハウスというジャズ喫茶のオープンによる。奥羽越列藩同盟側へのお仕置きで明治廃藩置県の際に秋田県に「割譲」された盛岡藩(南部藩)の鹿角郡(いまの鹿角市と小坂町。アルザス・ロレーヌが現在はフランス領であるがもともと南ドイツ文化圏であるのと同じく鉱物資源をめぐって国境線が変わる例。)の生まれだったぼくは、30キロほど日本海側の大館市にある秋田県の県立高校に入学し、下宿屋に住んで晴れて一人生活を始めていた。大館は忠犬ハチ公のふるさとで、そのことは知っている人はそれなりに多いかな?その大館で、ニール・ヤング、キャロル・キング、サイモン&ガーファンクル、ビートルズなどを聞き、NHK-FMをFM fanなどの番組雑誌を買ってエアチェック、ヤマハのフォークギターとラジカセで好きな曲をコピーしてレパートリーを増やす、そんな音楽生活。

その県立高校は当時40人くらいのクラスが8クラスあった時代で、10部屋ほどのその下宿屋にはなんと他に3人もクラスメートが同宿していて、入学式終了後帰った下宿屋にクラスメートがいるので????何だ?お前も、あれ?お前も???ここの下宿か?ってな具合でびっくり。そこで仲良くなった一人に河内スタヂオの河内くんがいる。河内スタヂオはスコット・ハミルトンScott Hamiltonと日本の誇る名クラリネット・プレーヤー北村英治さんとの2003年共演作の録音(Vintage。ピアノはエディ・ヒギンズですよ!)を手掛けるほどの世界級になっている。琵琶湖に次ぐ日本で2番目の大きさだった八郎潟を埋め立てて大規模な農地として生まれ変わった大潟村に入植したお父さんに連れられて大館の県立高校にやってきた彼は、ブラジルなどに農業研修に行っていたお兄さんの影響などから音楽についても、ファッションなど世の中のことについても物しり。VANやJUNや化粧品(資生堂はダサいし、カネボウ?とんでもねえと。なんといったってMax Factorだぜ!)など田舎者のぼくらのファッション・リーダー。

高校2年の初夏のある日、河内が「すげえかっこいい喫茶店」を見つけてきた。マイルスの四部作もあるし、すんごいスピーカーで聴けるぞ、行こう。それが新町のMinton House。去年久しぶりにマスターの佐東さんに挨拶に行って、オープンが1974年の5月だったことを確認。ぼくらがほぼ最初の顧客層に入っていたのは間違いないことがわかって、感慨もひとしお。JBL-L45もそのままの姿でうれしかった。

MintonHouse

レッド・ミッチェルがケニー・ドリューとのデュオで来たとき(1982)もミントンが大好きになり壁にも自作レコードにもサインしまくり。サインしたレコードは、トミフラ、ジェリー・ドジオンJerry Dodgion(as/ss)とのドラムレストリオによる1979年の名盤Communication Live at Fat Tuesday’s。ぼく的にはジェリー・ドジオンはハービー・ハンコックのSpeak Like a Child (1968)でのアルトフルートもいいです。

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We Shall Overcome

前回にジョーン・バエズがワシントン大行進で歌って彼女の代名詞的な歌になったWe Shall Overcomeについて触れたので、ちょっとレビューしていたところ、バエズが来日した当時日本で「フォークの女王」となっていた森山良子(1948~)が1990年の25周年記念コンサートではなんと「”We Shall Overcome”を歌った日」という曲を歌っていることを発見。Webでyou tube 音源が見られますが、「あれからどのくらいこの時代は進んだのかしら」といういささか感傷的な雰囲気もある歌詞ではあるものの、聴衆の多くは森山と同世代のカレッジ・フォークやそれ以後の日本の「フォーク」に親しんだ人たちだろうし、なかなかの郷愁的共感を呼ぶパフォーマンス。

過去の反体制社会運動(を思い出させるイベントを題材にして)に「”We Shall Overcome”を歌った日」と同じような郷愁的アプローチなのは「いちご白書をもう一度」というバンバンの歌、作詞作曲荒井由実でヒットした曲です。バンバン・荒井由実の曲では「彼と見た映画がいちご白書だった思い出」だけで、映画に描かれたコロンビア大学の学生がベトナム戦争に大学が関与していることに異議申し立てをして反対闘争を行ったことの内容について明示的にも暗示的にも描かれるわけでは、まったくない。青春の一コマの映画デートの思い出だからね。

ぼく的には映画「いちご白書」(Strawberry Statement: Notes of a College Revolutionary)は高校時代に見ていたく感激した作品。原題は「大学革命家の手記」だからね。原著者ジェームズ・クーネン(1948~)のコロンビア大学生としての闘争記を基にした映画。「受験戦争」だあ?グダグダ文句言っている場合か?ってなわけで。1970年公開のカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞している。バフィ・セントマリーのサークル・ゲームが主題歌でオープニングに、ニール・ヤングのThe LonerとDown by the River、CSN&YのSuite: Judy Blue Eyes「青い目のジュディ」(言わずと知れたジュディ・コリンズJudy Collinsに捧げたステーブン・スティルスの名曲、1969年のウッドストックの最終日にも演奏された)、レノン・マッカートニーのGive Peace a Chance(プラスチィック・オノ・バンド)も挿入されている。いい音楽たっぷり、プラス、アメリカも戦争反対が盛り上がってるよなあ、ニューヨークいいなあとミーハー的に見ていたと思う。ただ、大学に行ってからはクラスに「ぼくは革マルなので中核派に襲われたらよろしく(何を?なんだけど)お願いします」などと自己紹介するヤツがいたりして、当時の日本で反体制運動とされていたことの分裂状況等を実際に身近に見るようになった。

Suite: Judy Blue Eyes「青い目のジュディ」のおすすめは、サン・ルイス・オビスポのCalTech(カリフォルニア工科大)でのCS&N2012ツアーから。サン・ルイス・オビスポは昔Big Sur(CSN&Yやジョニ・ミッチェルが出た1969ビッグ・サー・フォーク・フェスティバルの!)Monterey(ジャニス・ジョプリンなどが出た1967モントレー・ポップ・フェスティバルの!興奮すんなって?!)まで国道101号線(この道はアメリカ大陸の国道網の最西端に位置して太平洋岸を南北に走る景色最高のほぼ渋滞なし気分最高の道路です)をドライブしたことがあって、サン・フランシスコとロス・アンジェルスのほぼ中間点にある、古い町。ここでも「ウッドストック世代」の人たちが、えー!すごいなスティルス、あれから43年も経つのか、でもいいね~、オープンチューニング、ありがと~、なんて、大盛り上がり。ウッドストック・フェスティバルなどについてはそのうちに書きます。

 


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