デクスター・ゴードン    1ホーン・カルテットの夜    映画「ラウンド・ミッドナイト」

ニューヨークに5年ほど住んでいた1980年代後半。モンクはこの世を去っていたが晩年のマイルスは、マーカス・ミラーMarkus Millerらのフュージョン系ミュージシャンとのコラボをしていた。ポップ分野ではマドンナが1983年のデビューアルバムが大ヒットし、地位を確立して行った。ボーダーラインBorderlineがMTVでよくかかっていたなあ。ジャズはブルーノート、ヴィレッジ・ヴァンガードの主要どころと43丁目の6番とブロードウェーの間で当時の勤務先からも近かったタウンホール(なぜかブラジルの独立記念日あたりにジョアン・ジルベルトとか弟子のカエターノ・ベローゾとかも来て演奏していました。もちろん行きました!)とか聴きにいっていたかな。

チケットの半券を大事に持っていたから日付もはっきりしているけれど、ワンノブ人生最高の演奏を聴いたのは、デクスター・ゴードンDexter Gordon(1923~1990)の1988年12月9日、コネチカット州スタンフォードStamfordのパレス劇場(Palace Theater)でのもの。メンバーはTommy Flanagan(p)、Ron Carter(b)、そしてBilly Higgins(ds)。このトリオを従えて吹くのだから悪いはずはないのだけれど、1986年の映画「ラウンド・ミッドナイト」にバド・パウエル+レスター・ヤング風の役で出演し演技も高い評価を得て(オスカー主演男優賞にノミネート)、サントラ盤も売れ、この年のグラミー賞ジャズ・ソロ部門を受賞し晩年の最後の輝きを示していたときだった。ただ、デックス(Dexというのがファンが呼ぶ愛称)は1962年にアメリカからパリへ、その後デンマークへ移住し、祖国アメリカには仕事があるときだけ戻っていた。少なくないジャズ・ミュージシャンがこうした形で欧州に移住している。ケニー・クラーク、バド・パウエル、ケニー・ドリュー、ジョニー・グリフィン等々。マイルスでさえ、パリに演奏旅行して心から自分たちの音楽を親しみ、対等に接してくれる文化の都に心惹かれ、アメリカに戻りたくなくなった、と記している。(マイルスの場合はジュリエット・グレコとの大恋愛があったからなおさらであっただろう。)(注) いかに名前が売れてきたジャズ・ミュージシャンであろうとも、黒人が生きていくにはひどい目に遭わなくてはいけないのがアメリカという国なのだ、ということだろう。この辺の人種差別問題は21世紀になってからも、セントルイスなどの事件によって、むしろ深刻さを増しているのかもしれない。パリもイスラム国関連のテロがあったし、EU全体が移民に対して神経質になっている現在では、外国人に対する包容的態度は変化してくるのかもしれない。

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さて、1988年暮れのデックスに戻ろう。会社の仕事を終えて家に帰り、一人で師走のI-95をスタンフォードまで一人で車を走らせ、比較的こぢんまりとした会場の10列目くらいで、プレイヤーの息遣いも聞き取れるロケーション。セット・リストはメモしてなかったから、正確には思い出せないけれど2枚のサントラ盤Round Midnight とThe Other Side of Round Midnightの1986年発表のピースが主に、You’ve Changedもやったはず。 ここでは、Round Midnightに入っているChan’s Song (Never Said)を。主人公のサックス吹きDale Turnerが娘のChanに捧げますとして演奏する映画のシーンからのものと、ぼくが当時よく聞いてた(同い年なので特に!ファンです)ダイアン・リーブズDiane Reevesのセルフタイトル盤Diane Reeves (1987)に作曲者ハービー・ハンコック自らピアノで参加しています。ちなみに作詞はスティーヴィー・ワンダー。名曲。

(注)2006年の英紙The Guardian のマイルスが生きていれば80歳になることを記念して、ジュリエット・グレコとマイルスの恋愛を祝うというインタビュー記事。サルトルが、「君はジュリエットと結婚したらいいじゃないか」とマイルスに言ったのよ、彼は「ぼくはジュリエットを愛しすぎて彼女を不幸にさせちゃうよ」と答えたわ。私が彼についてアメリカに行ったら(人種問題から)散々非難されてうまくいかなかったでしょう、とジュリエット・グレコは答えている。

デックスの夫人マキシン・ゴードンが書いていて2014年には出版の予定としていたその名も「Dexter Calling:デクスター・ゴードンの人生と音楽」 という伝記が、今年には出版されるようだ。マキシン自身の年頭のあいさつに記されている。早く読みたいな。

「証言で綴る日本のジャズ」(著)小川隆夫

ジャズファンで小川隆夫さんを知らない人はまずいない。ご自身も若いころプロミュージシャンを目指し(エリック・クラプトンが弾いていたギブソンも所有している)、新宿が熱い時代のピットインに足しげく通っていたのだから、筋金入りのジャズ愛好家人生を歩んできた人。小川さんDJで2010年から5年弱InterFMで放送していたJazz Conversationは小川ジャズライフを聴取者と共有するとてもいい番組だった。その中の名物コーナーMeet the Star のインタビューを中心に日本のジャズを作ってきたミュージシャンや、クラブやジャズ喫茶の店主、そして貴重な録音を残すなど、ミュージシャンを支援した人たちの、あのときこのときの真実を語ってもらった貴重な記録が、「証言で綴る日本のジャズ」(駒草出版、以下ぼくのブログでは「証言」または「小川さんの証言」ということにする。)として昨年秋に出版され、ぼくもとても面白く読んだ。そして、つくづく、ぼくの世代くらいまではジャズ・シーンにおいても、戦後日本の興隆と停滞、そして若い世代の羽ばたきを実体験として、または十分に感覚的な理解を伴って、見て来られたのだなあと、思った。一方で、インタビューされた大重鎮の方々は、主に昭和ヒトけた世代なので、出版時点で鬼籍に入られた方もいらっしゃるのは、仕方のないこと。この方々の世代から、いずれ聞けなくなる話を内外ミュージシャンの動き、録音技術、ホール・クラブ・ジャズ喫茶などの演奏空間などの側面から業界横断的に記録した、ということだけでも極めて意味のある作品だというべきだろう。

それにしても、ジャズはせいぜい100年程度の歴史のとても新しい音楽で、さらに言えば「踊る音楽」から「聴く音楽」になってから6、70年しか経っていないなかで、日本人ミュージシャンがどのように道を切り開いていったのか、先人たちの証言は興味深い。戦後の連合国軍占領下で首都圏中心に多くの米軍基地の将校クラブ等での音楽ニーズに応えるため、日本人ミュージシャンが東京駅など主要駅で毎日トラックに乗せられて駆り出された様子(ベースは「演奏しないでいい、持って立っているだけでいい」というのは笑える)、連合国軍から再独立(サンフランシスコ講和条約:1951年9月8日調印、1952年4月28日発効)し在日米軍の聴衆ではなく日本人向けに米国人が演奏しに来たこと、などとても興味深いエピソードが満載。おすすめです。太平洋戦争の「終戦」は本来は講和条約締結によって日本が独立を回復した時と考えるのが妥当だよね。

ぼくは小川さんの証言のエッセンスは、日本のジャズの先導者たちが苦労しながら米国軍人相手に腕を上げ、当時のドル円の為替水準もあって破格の収入を得ることで力をつけていき、秋吉敏子、渡辺貞夫などが先陣を切ってアメリカのバークレーメソッドを学習して理論に裏打ちされた日本人のジャズを打ち立て、後進に伝えたこと、その後文字通り世界を股にかけて日本人のジャズを、しかし世界に通じるJazzをクリエートしていったということ、その土台には、日本人の努力もさることながら、アメリカの有力ジャズメンの中の日本滞在中に日本のジャズメンとの交流の中で日本人を大いに鍛えた何人かの人たちの存在も忘れてはいけない、ということだと思う。何回かに分けて、ぼくも証言の中から印象深いエピソードを取り上げて考察してみることにしよう。

今回は証言からのtakeawayシリーズに先立ち、ぼくの小川さんとのお付き合い(こちらがファンだということに過ぎませんが、10 1/2 CAFÉ +でのONGAKUゼミナールではぼくも80年代NY在住だったことなどでしばし雑談しました)のきっかけとなった10年前の「となりのウイントン」(NHK出版)の書評を紹介することにしよう。10年前の短い文章なので、今から読み返すと舌足らずのところもとあるけれど、ご容赦ください。ラストでニューヨークから日本へ戻るときにプーさん(菊地雅章)から自宅ロフトで録音したピアノソロのカセットテープをもらって感激するくだりがあってとても心温まります。プーさん、ぼくも好きだな…。合掌。

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ジャズとニューヨークへの賛歌、そして「おかしな日本」

・・・小川隆夫著『となりのウイントン』

整形外科医とイベント・プロデューサーの二足の草鞋。超個人的ジャズ史、そしてニューヨーク。おお、これは読まないでいられようか。それはぼくも筆者がマンハッタンに住んでいた1981~83年の翌年から5年間ニューヨークに日本企業の駐在員として生活をした経験があるからだし、ジャズを高校生からずっと聴いてきた日本人だからだ。

著者が描くように、ニューヨークにはジャズや他の芸術を学び、自己を磨く苦労をしている人々への社会的な愛情がある。人間に必要なものについての一人ひとりの志が、組織、地域、社会というような形で社会化できるしくみと個人の行動規範があるように思う。それに比べて日本のジャズは、「マスコミが取り上げるものに流される」し、音楽はファド(一時的な流行)として消費されるだけ。こんなことでは音楽文化が育たない。本書でも、コマーシャルに取り上げられた年は3000席のホールが満員になって、翌年同じ会場が空席だらけとなった、ロン・カーターのコンサートの話が紹介されている。

著者はジャズの歴史の中で、最良の時期のニューヨーク・シーンを見聞きし、その証人となった一人であることは疑いがない。ニカ男爵夫人のような伝説的人物との邂逅やマイルス、モンクといった第一級アーチストの生死、日野皓正を始めとする日本人ジャズマンの辛苦。そうしたことへ共感や場の雰囲気というものと著者の若き日の成長を共有できるのも、本書の魅力だ。ぼくのように著者に感情移入してしまう要素を備えた読者でなくても、ジャズを愛していて「マスコミが取り上げるものに流される」日本のおかしさを感じている方についても、この書から多くの発見と示唆をうけることだろう。

今年は、コルトレーン来日40周年の年だった。坂田明さんが、「もっときちんと生きなければいけないということをコルトレーンに教えてもらった」(*)のが1966年だ。日本のジャズを支える何かが久しくなくなっている、そういうことを改めて気づかせてくれる書でもある。

(*)坂田明「コルトレーンが人生を教えてくれた。」 (JazzToday 2006.07)。なお、コルトレーンの来日(1966年7月)時の演奏は多くのミュージシャン、評論家、ファンに対して賛否両論を巻き起こしたことは広く知られているとおり。世界的なコルトレーン研究家である藤岡靖洋さんの著作「コルトレーン ジャズの殉教者」(岩波書店、2011)に詳しい。なお、日野皓正も坂田明と同じように「自分も根性入れてやらなきゃと思ったね」というコメントを紹介している。