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セロニアス・モンク生誕99周年

今週月曜日の10月10日がモンクの誕生日。1917年生まれ。来年は100年だから、たくさんの回顧ものが出るだろうから、天の邪鬼のぼくとしては、99年で取り上げることとする。

1917年はなんといってもロシア革命の年。日本は大正6年だよ。欧州では第一次世界大戦のさなか、3月に社会主義右派によるロシア革命がおこり、国会臨時委員会が暫定政権を樹立、ロマノフ朝が滅亡。その後11月にレーニン率いる社会主義左派ボリシェヴィキの武装蜂起によりソビエト政権が樹立され、1991年まで存続したソビエト連邦の土台となった。世界で初めて社会主義国が誕生した意味は大きなものだった。1919年にはコミンテルン(共産主義インターナショナル:第三インター)が結成されて、世界革命の実現を目指す組織とされた。その後、第二次世界大戦で独ソ戦が勃発し、ソ連がイギリスとともに連合国となったことから「世界革命」は意義を失い、コミンテルンは瓦解した。日本共産党もコミンテルン日本支部であった。片山潜、野坂参三という人たちが日本から世界革命を目指していたわけだ。

当時日本は英国と日英同盟を結んでいたため、1914年にはドイツに宣戦布告しており、英国の要請によって、東太平洋やインド洋、さらにはインド洋経由で地中海にも艦隊を派遣し船団護衛に参加。日本は初めて世界規模の戦争の当事国になっていた。青島はドイツ領だったことで、中国に対し青島におけるドイツ権益の日本への譲渡、大連の租借などを中国に認めさせ、その後の中国への帝国主義的進出の足掛かりを作っていったわけだ。

そんな年に、モンクは生まれた。村上春樹のモンクについてこう書いている。「彼の音楽はたとえて言うなら、どこからともなく予告なしに現れ、何かすごいもの、理解しがたいパッケージをテーブルの上にひょいと置いて、一言もなくまたふらりと姿を消してしまう「謎の男」みたいだった」(セロニアス・モンクのいた風景/村上春樹『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮社、1997年12月))

俳句だね。ミニマルでありかつ宇宙的。

さて、ぼくが最初に買ったモンクのアルバムは、アンダーグラウンド(1968年リリース)。74年ころに買ったんだと思う。高校生。街にミントンハウスというジャズ喫茶がオープンして、マイルスやロリンズやらを聞き始めていたのでモンクもたぶん聞いていたかもしれない。ミントンハウスについては前の記事を参照。

モンクがジャズの仕事を始めたのが1940年代前半のハーレム118丁目と7番街のセシル・ホテルの1階にあったミントンズ・プレイハウスで、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー及びチャーリー・クリスチャンらと共に40年代のビバップ革命を展開した歴史的な場所。テナーサックスのヘンリー・ミントンが開いたクラブで1974年に火災のため閉鎖。その後2006年に「アップタウン・ラウンジ・アット・ミントンズ・プレイハウス」として再オープンしたが現在は再び改装中だということになっている。(Wiki

でもWebを見ると、ミントンズかつセシルとしていろいろライブとショーをやってるね。

今日はMidnight Jazz Breakfast hosted by Carla Hall and Patti LaBelle でなんと金曜日の夜11:30から深夜1:30まで、ABCテレビの料理ショーでも知られたカーラ・ホールCarla Hall となんとR&Bの大御所パティ・ラベルPatti Labelle (マイケル・マクドナルドとのデュエットOn My Ownは大好きだよ。80年代後半によくラジオでかかってたなあ)が共同ホストとして、ニューヨークで最もデカダント(退廃的)なブレックファストを提供します。歴史あるミントンズでライブジャズでダンスしてはどうでしょう・・・ということ。うーむ。なかなか魅力的だね。こんど行ってみたいスポット。退廃的なブレックファストね・・・。

ミントンズとセシルを調べていたら、リチャード・パーソンズという人が2006年にこの2つの施設に投資して現在に至っている。この人はシティ・グループの会長やタイム・ワーナーのCEOも務めた大物。真夜中のミントンズMinton’s At Midnightという歴史あるステージを復活させ、ジャズ・ミュージシャンとヒップホップ・アーチストを結びつける場としたいんだよ、とハリウッド・リポーター誌に語っている。

それで、と。モンクのアンダーグラウンドに戻ろう。ジャズの情報自体はあんまりなかったから、ミントン=モンクという連想があってこのレコードを買ったわけではなく、いわゆるジャケ買い。見てくださいよ。あやしいモンクおじさんが自動小銃を肩に第二次世界大戦のフランスのレジスタンス戦士になっている。ナチスの旗があり、若い女性兵士が後ろに。これはチャーリー・パーカーやモンクのパトロンとなった、ロスチャイルド家の出のニカ男爵夫人の若いころの写真じゃないかということらしい。(ロビン・ケリーの以下伝記による)

メンバーは60年代のカルテットメンバー、すなわちテナーサックスにチャーリー・ラウズCharlie Rouse、ベースはラリー・ゲイルズLarry Galesそしてドラムスはベン・ライリーBen Riley。これはこのメンバーでの最後のスタジオ録音、かつこの後にスタジオ録音した作品は大編成バンドでのMonk’s Blues(1968)とロンドンでブラック・ライオン・レーベルでの録音(1971)のみである。1976年のニューポート・ジャズ・フェスティバルでの出演を最後に引退し、1982年2月17日に脳出血でこの世を去っている。

モンクは1966年7月に旧友バド・パウエル、1967年には、5月エルモ・ホープ、そして7月にジョン・コルトレーンを失い、自身の健康も悪化する精神的にも肉体的にも大変ななかで、このアルバムはUgly Beauty、Raise Four、Boo Boo’s Birthday、Green Chimneysの4曲の新作を含む力作。Boo Boo’s BirthdayのBoo Booはモンクの長女バーバラのニックネームでこの曲もいいが、Raise Fourがいいですねー。フォー(4度)を上げて、つまり5度をフラット(フラッテド・フィフス)のメロディの12小節ブルース。テナーのチャーリー・ラウズは父親が死んでこの時(1968年のバレンタイン・デー)のセッションは欠席したため、トリオでの演奏になっている。

モンクの伝記の決定版はUCLAで米国史出身のロビン・ケリーによるThe Life and Times of Thelonious Monk(2009)。残念ながら日本語版はまだ出ていない。モンク家に残っている大量の楽譜、写真などの記録に初めてアクセスし、家族に丹念にインタビューするなどして10年かけて仕上げた大作。(モンクに関する資料は息子でドラマーのT.S.モンクがクラーク・テリーなどと1983年に設立した非営利団体のセロニアス・モンク・インスティチュート・オブ・ジャズの所有となっている。評議員会会長はハービー・ハンコック。)ニカ男爵夫人との出会いや他のミュージシャンとのやり取り、よき父であり夫であった側面とともにエキセントリックでクレイジーな側面もあったことなど、事実と証言を丹念に紹介していて、従来のモンク伝とは全くレベルと深さが違う。52丁目にあったダウンビート・クラブでマイルス・デイヴィスがモンクからラウンド・ミッドナイトの演奏の仕方を必死に「こんな感じでいいかい?」「いや、だめだな」「これでどう?」「うん、それなら演奏していいよ」と「習っていた」ことなども微笑ましい。おすすめ。

なおロビンの奥さんはリサ・ゲイ・ハミルトンLisa Gay Hamilton。一昨年Redemption Trail(ブリッタ・ショーグレン監督)で主演女優賞を取っているね。ブラック・パンサーのメンバーで殺された父を持つ娘役だということらしい。見てみようかな。

昭和4年生まれのセシル・テイラー ・・・ ユニット構造の征服者!の50周年記念

ぼくの父親は昭和4年生まれで今年亡くなったが、ビル・エバンスもセシル・テイラーも、さらには日本人では秋吉敏子も、ピアノではないが北村英治も、昭和4年。北村さんはぼくの同級生がやってる秋田・大潟村の河内スタヂオでスコット・ハミルトン、エディ・ヒギンズとの共演盤(文句なし。素晴らしい!)なんかを録音していて、秋吉さんについては、長年の支援者のジョニーさんの盛岡の店でのソロライブにも行ったことがある。この2人の日本人ジャズ・ミュージシャンはそれぞれのやり方で日本のジャズを切り開いてこられた方々だ。ビル・エバンスとセシル・テイラーもお互いにまったく違うやり方でジャズの風景を形作ったジャイアンツである。

セシル・テイラーは最近はヨーロッパでの活動が多かったけれど、2014年には京セラの稲盛名誉会長が設立した稲盛財団の京都賞を芸術分野で受賞している。京都賞って従来ノーベル賞がなかった分野について「科学や文明の発展、また人類の精神的深化・高揚に向けての創造的な活動に対する顕彰」をすることで、今や世界的に権威が高いものとなっていると言われている。昨日死んだアンジェイ・ワイダ(1987年受賞)、日本では関空旅客ターミナルの設計で知られるレンゾ・ピアノ(1990)、セシル受賞の前の音楽部門の受賞者はピエール・ブレーズが受賞。

セシル・テイラーがデビューしたのは1956年の「ジャズ・アドバンス」。マイルス・デイビスがプレスティジとの契約を早く履行してコロンビアに移籍するため、例の「四部作」マラソン・セッションを5月と10月にしていた同じ年に、セシルはその後のジャズインプロヴィゼーションの地平を切り開く力仕事をしたというわけだ。オープナーからぶっ飛びます。モンクのベムシャ・スイング。出だしのテーマがなんとなくおとなしめに提示された後、セカンドコーラスから一気にパ-カッシブで眩暈的な世界が提示される。ベースとドラムス(バージン諸島生まれのデニス・チャールズ)が4ビートできっちり運転しているからなおさら、緊張感に包まれる。「スウィング」をタイム(拍)、ピッチ及び強度の統合による「エネルギー」に変えた、とゲーリー・ギデンズは評した(注)が、そのエネルギーがバシバシ伝わる。

ベースはブエル・ニードリンガー。もともとクラシックのチェロを学んでいて60年代以後、ヒューストン管弦楽団でも活躍。フランク・ザッパとも活動していたらしいから、何とも器用でバーサタイルな人なんだね。イェール大学を1年でドロップアウトして(自分の周りにいる人間たちが、マッカーシー委員会による赤狩りの尋問をする側の人間と同じようなやつらばかりだったので、とのことだ)イェールの同窓会でラズウェル・ラッドと会い、その縁でスティーブ・レイシーに、スティーブがセシルをブエルに紹介、という形でつながっている。

セシルとの出会いについてブエルがオールアバウトジャズ誌に語ったところによれば、以下のような感じ。

彼がお父さんと一緒に住んでいた98シェリフ・ストリート(イースト・ビレッジの南側だね)の6階の部屋に階段をよっこら上って行って、確か(ドラムの)デニス・チャールズは居なかったから、スティーブ・レイシーとぼくとの3人。セシルが出会いがしらに「コテージ(別荘)の売り物を知ってるか?」「知らないよ」「ま、いいや、俺たちはこれからそれを演奏するんだからな」って。ぼくは当時すでにストラヴィンスキーとかを聞いていたし、主流ではない作曲家にはもう慣れていたからね。最初の出会いはほんとにいい感じだったなあ。でもオーネット・コールマンが出てきて、セシルへの注目はオーネットに奪われてしまった。オーネットに投資した連中(ジャズ・レビュー誌の共同創始者のガンサー・シューラーとショー・ウェンシ、及びMJQのジョン・ルイス)がいて、そのカネでね。(出所

なお、ショー・ウェンシHsio Wen ShihはMIT卒業の建築士だったそうで、実際にオーネットのマネジャーもしていたようだが、1960年代中頃には消息不明になっていたらしい。名前からして、チャイニーズ・オリジンであることは間違いない。HsioがもともとHsiaoであれば蕭、Wenは文、Shihは士かも。ガンサー・シューラーも、ジャズ・レビューのもう一人の共同創始者のナット・ヘントフも彼について語っていないところを見ると、いわくありげだなあ。

デビュー10年たった1966年には、ブルーノートに2枚の作品を発表。Unit Structures とConquistador!。RVG(ヴァン・ゲルダー)の音だよ!翌67年はセッションの記録がないし、その後もポツポツとフランスなどで演奏したようだけれどスタジオ録音は1978年のCecil Taylor Unitあたりまでなく()、コンサートのライブばかりである。ということもあって、このブルーノート盤がセシル・テイラー音楽の一つの完成形だというのが定説となっている。50年前のセシルの完成形を楽しもうっと!

Steps 階段。階段を登っていくと、風景が変わっていく感じの緊張感と高揚感。

Enter Evening(Soft Line Structure) 夜、入場(柔らかい線の構造)。ケン・マッキンタイア(エリック・ドルフィと一緒にやっていた人だね)のバスクラリネットやオーボエが柔らかいいい感じ。

Unit Structure/As of A Now/Section ユニット構造物/一つの「今」時点では/立面図というネーミングがある演奏。ユニットのマンションといえば、黒川紀章の中銀カプセルタワービルを思い出します。そういえば築地市場の豊洲移転を決めた石原東京都知事が三選を狙った2007年の都知事選挙に黒川紀章も出馬したのだったなあ。このCDジャケットも色とりどりのセシルのキューブが積み重ねられているよね。「今」を数えられる普通名詞として表現したりしているのも世界の多様性認識への希求が見られますね。

Tales (8 Whisps) お話・8つの束 変化の富んだお話の束。エンディングとしてもよくできた小品、といっても7分ですが。最後の束が45秒くらいのピアノソロ。これが絶妙に詠っている。

Conquistador 18分のアルバムタイトル曲。7分ちょい過ぎの静から動に変わるあたりの昇天感がいいなあ。終わりにかけての4分くらいはアラン・シルバのアルコベースとの抒情的対話になっていく。

With(Exit)は19分30秒。ショパンのピアノ協奏曲第1番第1楽章、ベルリオーズの幻想交響曲の最初の2楽章の合計と同じくらいの長さ。ある程度複雑な色彩とフィーリングとトーンを一つの作品とするには、この位の時間が必要かつ十分かもね。33回転LPレコードの片面というのが一つの人間的な単位だったのだろうと思う。今は、ぼくのセカンドハウス用サブPCですらiTunesでたまった音楽量が、(ずいぶん消したんだけど)5万曲200日とかとなっていたりするだけで途方もない感なんだけれど、世界標準では2000万とか3000万曲が定額聞き放題とかなっていて、ただただ絶句。

 

夕方にチェルシーを散歩してChelsea Morningを書いたジョニのアパートを見た。

チェルシーはロンドンにもあるが、ニューヨークのチェルシーは14丁目から30丁目、東は5番街西はハドソン川岸までの地域。南にグリニッジジ・ヴイレッジと接する。地価が高騰してソーホーから移ってきたアーチストのギャラリーが増えた1990年代からニューヨークのアートの中心となった。ジョニ・ミッチェルが一時住んだ1960年代はフォーク(その後のシンガー・ソングライターたちの音楽含め)、ロック及びジャズのメッカだったから、多くのタレントが世界から集まってきた。例えば、ビートルズ解散後のジョン・レノンは人生の最後の10年ほどをヨーコ・オノとニューヨークに住んでいたが、ホテル住まいを終えた最初の住居はグリニッジ・ヴィレッジの105バンク・ストリートのアパート。ミネソタからはボブ・ディラン、カナダからはレナード・コーエンやジョニもグリニッジ・ヴイレッジにやってきた。

レナード・コーエンとジョニとのことについてはちょっとメモしておかないといけない。ベテラン音楽ライターでウクレレ奏者でもあるシルヴィー・シモンズのレナード・コーエンの伝記「I’m Your Man: The Life of Leonard Cohen」の紹介には、この2人は短期間恋愛関係にあって、ジョニはレナードを尊敬し、「読むべき本のリスト」を教えもらったりしたという点で、師弟の交わりのようなものでもあったと。レナード・コーエンはボブ・ディランやルー・リードも尊敬し現在存命の大物ミュージシャンズ・ミュージシャンだけれど、Wikiによると上記シモンズ作の決定版ともいえる伝記は中国語を含む世界18言語で翻訳されているらしく、日本語で出ていないのはまったくもって残念だ!近々ぼくも入手予定です。

チェルシー・モーニングは他のジョニ作品の大ヒット曲Both Sides Nowなどを世に知らしめたジュディ・コリンズが1969年4月にシングル・リリースしていますね。ジョニ自身のアルバムではセカンドアルバムClouds(1969年5月1日リリース)所収。ちなみにジュディもレナード・コーエンの名曲スザンヌなど取り上げてますね。ジュディ・バージョンのチェルシー・モーニングがビル&ヒラリー・クリントンの一人娘チェルシーの名前の由来になったというのは有名な話。

おなじみのオープン・チューニング(この曲はオープンD)のD-28のイントロで歌はこんな風に始まる。

Woke up, it was a Chelsea morning, and the first thing that I saw

Was the sun through yellow curtains, and a rainbow on the wall

Blue, red, green and gold to welcome you, crimson crystal beads to beckon

朝起きると最初に目に入ってきたのは黄色のカーテンを通して朝陽が差して、壁には虹がかかった。ようこそって言ってくれてる・・・。なんと瑞々しい抒情。

ジョニ自身は、この曲について、「フィラデルフィアで友達とスラグ・ガラスを町で拾ったのよ。私はこのガラスとワイヤ・ハンガーでモビールを作って、ニューヨークのアパートに飾った。若くてスイートな時代だったわ。レコーディング契約を獲得する前だったし。スィートな曲だけど、私のベストの曲ではない。純情可憐な少女の作品」とロサンゼルス・タイムズのインタビューに答えている。でも美術学校出だけあって、ジョニの詩はとてもカラフルなイメージに満ちている。スラグ・ガラスっていうのは、ガラス溶融炉の残留カスで、天然のガラスにはない鮮やかな色なのだと。人工のものが天然のものよりも鮮やかだというのも面白いね。

このアパートとは1967年にジョニが引っ越してきた41 West 16th Street。真ん中の茶色のレンガの建物。上品でいい建物だな。この窓から朝陽がさして虹が壁に映ったんだね。ジョニ23歳。デイヴイッド・クロスビーがプロデュースしたSong to a Seagull (1968)でデビューする前年です。

41 West 16th Street , New York
41 West 16th Street , New York, New York

さて、グリニッジ・ヴィレッジの歴史をメモしておこう。

グリニッジ・ヴィレッジは1609年にオランダ東インド会社に雇われたヘンリー・ハドソンが「発見」し、当地に先住民であったマンシー族、モホーク族などのインディアン[1]と毛皮などの交易をし、1623年に正式にオランダ西インド会社が設立され、北は現在のニューヨーク州都のオーバニーから南はペンシルバニア州フィラデルフィアあたりまでの新オランダ植民地ができた。当初はインディアンに支援を受けて交易・入植を拡大したが、17世紀中ごろから武力でインディアンを追い出していくわけですね。第二次英蘭戦争(1665~1667)終結時の講和条約によって北米植民地の新オランダをイングランドに割譲し、当時の国王チャールズ2世の弟ヨーク候が戦線指令だったことからニュー・アムステルダムはニューヨークとなった。なお、現在インディアンの各部族は連邦法によって自治国家としての権限を行使できる。連邦保留地(レザヴェーション)に部族国家、部族学校、医療センター、カジノが建設されている。ニューヨークには全米都市で最大の87,000人のインディアンが住んでいるそうです。(Wiki情報

それからの歴史は端折り、産業革命でハドソン川対岸のニュージャージーで工業生産が盛んになると、マンハッタン中心部だったグリニッジ・ヴィレッジは人口が流出して寂れ、家賃の安い、したがってカネはないが夢はある若者たちの住処となったというわけだ。19世紀末から20世紀中ごろまで芸術家の天国、ボヘミアンの町、と呼ばれ、西海岸のサンフランシスコと並んで反体制文化の東海岸の中心地だった。

また、ニューヨークは世界からタレントが集まってきたのは昔からだけれど、2度の世界大戦、さらにナチスによるユダヤ人迫害が拍車をかけたからなのだろうな、目立つようになったのは。アインシュタインなどの科学者、作家ではハインリヒ及びトーマ・マン兄弟、ブレヒト(最初はスウェーデンに逃げた)など、女優ではマレーネ・ディートリッヒ、音楽ではホロヴイッツ、ワルター、シェーンベルク、ミヨー、映画音楽のコルンゴルトなど錚々たる面々。すごいなあ。

[1] 「インディアン」であって「ネイティブ・アメリカン」とすべきではないという決議が1977年に国連議場でされている。(Wiki)

ブルックリンを散歩して、ブルックリン・ビールを飲んだ!

先週は3年ぶりにニューヨークに滞在した。内部監査の国際大会に出て、2日間は前から行ってみたかったブルックリンを歩いてみた。

ぼくが住んでいた1980年代後半は、アメリカ経済がどん底だった時代。日本人だとわかるとろくなことはないというのが大っぴらには言われないが身を守る智恵、先輩駐在員からは面倒なことに巻き込まれるリスクが場所・時間によってものすごく変化する、その辺の感覚を身につけろと言われたものだった。その点、ブルックリンはブロンクスと並んで常時一人で足を踏み入れてはいけない場所だった。実際ぼく自身、最初にしばらく住んだクイーンズのフォレスト・ヒルズでは、夏の朝5時頃にジョギングして、街角でたむろしていた3人組に、難癖つけられて追いかけられたことがある。必死に走って逃げたので(幸いというか、相手は酒が入っていたから、スピードはそれほどではなかった)事なきを得た。いや、怖かった。

で、30年後、車でしか、かつスタテン・アイランドに遊びに行ったときなど数回しか通ったことのないブルックリン・クイーンズ・エクスプレスウェー(BQE)からの風景ではなく、地下鉄で主要なスポットになっている地域の駅から、まちを、お店を歩いて見て、BQEのすぐ横の下道(したみち)マーシー・アヴェニューも歩いてみた。もともとマンハッタン南部のダウンタウンとブルックリンはホントに目と鼻の先で、地下鉄の2ライン、3ラインのウォール・ストリートの次の駅がブルックリンのクラーク・ストリート。この間2分。世界の富の中心のウォール街からイースト・リバーを渡って隣の町がもうブルックリンなんだよね。なんか新鮮な感じ。

ブルックリンの地図で分かりやすいのはないかなと探したら、これなんかがいいかなと思います。この中のブルックリンの地図。

brooklyn_map

結論から言えば、昔に比べて格段にまちが新しく、きれいになって、ショコラティエや一本200ドルのジーンズを売っているショップやら、サンスイの70年代の名機を展示しているオーディオ店やら、ベドフォード・アヴェニュー駅(地下鉄Lトレイン)を中心としたウィリアムズバーグ地区は日中は大丈夫かな。(上の地図のJMZという地下鉄マークのあるあたり)マンハッタンのダウンタウン対岸の昔から高級住宅地だったブルックリン・ハイツ(2トレインか3トレインのクラーク・ストリート駅やAトレインかCトレインのハイ・ストリート駅でアクセス。上の地図の37のマークあたり)も州の裁判所の建物があるあたりを通ってさらに南のスミス・ストリートをベルゲン・ストリートあたりまで歩いてみたが、ここら辺も日中は大丈夫。昔はクイーンズ中心地のフォレスト・ヒルズあたりでも、日中に大丈夫かなと思って歩いていると、突然街並みが荒れてきて、ジャンキーっぽい人間が公園のベンチにへたり込んでいる、という感じだった。ブルックリンはもともとアイリッシュやポーランドやギリシャの移民の町だったところで、今でもそういうルーツの音楽をやっているカフェがあったりして、夜に行ってみようかなと思ったが、滞在中毎日(!)朝のニュースでブルックリンのどこそこで昨夜殺人がありました、強盗がありました、強姦がありましたと放送しているくらいに依然として夜は危ない町なので、やめました。

それが現実。

ウィリアムズバーグのMikey’s Hook-upにて

Mikey's Hook-up

上段のサンスイの名機AU999が895ドル、下の方のヤマハCA610 IIが645ドル。開店15周年のセール中でした。

さて、もう一つ。ブルックリンといえば、ビールでしょ。

ホテルに投宿する前に、コンビニでビールを仕入れよと思い、近くのDuane Readeドゥエイン・リードに寄ったら、ブルックリン・ビール4種×3本の1ダースセットが20ドル弱で売っていたので買ってタクシーで移動。なお、ニューヨークではドラッグストア業態が品揃えを食料、パーソナルケア用品などにも拡大して日本のコンビニに相当するものになっている。Duane Reade、Rite Aid, CVS/ファーマシーは80年代からあったが、その後ウォルマート系列のWalgreen(Duane Readeを2010年に買収)が店舗を増やしている感じ。

買ったのはこれ、ブルックリン・ボックス・セット。IPA(インディア・ペール・エール)という少しアルコール度の高い種類のビールでホップの風味が強く、ガッツリ味わいがある。ぼく的には緑のラベルのブルックリン・ラガーがバランスがよく飽きがこないので好き、赤いラベルのブルックリン・ディフェンダーは西海岸系のストロングな味でこれもいい。メキシカン料理などにマッチするはず。楽天でも売っていますね。でも値段は6本で2500円。倍以上するね。

BrooklynBeer

 

ブライアン・ウィルソン来日公演

世界初のコンセプト・アルバムとして今でもその価値を失わないザ・ビーチ・ボーイズThe Beach Boysのペット・サウンズPet Soundsのリリースから50周年記念となるブライアン・ウィルソン(1942~)の来日コンサートに行った。

ブライアンは父マレー・ウィルソンMurray Wilson (1918~1973)は作曲家、母オードリーAudree(1917~1990)もピアノを弾くという音楽一家に育ったが、ドラッグやなんかで20年以上も落ちていた時代から「奇跡的によみがえった」1988年のソロアルバム「ブライアン・ウィルソン」の後に出した自伝Wouldn’t Be Nice(1991)で、父親に家庭内暴力を受けていた事実を明かしている。Wkiによればブライアンは父親に角材で頭を殴られ、以来右耳聞こえなくなったとされている。また、この父から長男ブライアンに宛てた1965年5月の手紙の草稿?が5年ほど前に発見されたことから、ペット・サウンズの制作に一人でとりかかろうとしていたブライアンの内面がどのようになっていたか、研究が進むことになった。「お母さんがお前たち3兄弟を女の子のようにベタベタの愛情でスポイルした結果だが、お前たちのような犯罪者でろくでなしは少しくらい有名になったとしても地獄に落ちるぞ、グループは解散しろこれが父として至った結論だ」という厳しい内容。フロイト的精神分析アプローチでは面白い題材だろうけど、今回は割愛します。

で、この親のもとブライアンはカリフォルニア州ホーソーンに生まれた。ホーソーンってロサンゼルス国際空港に隣接しているといっていい町。空港から出て東西を走る105号とサンディエゴ・フリーウェイ405のジャンクション(空港からせいぜい5キロ)の南東に位置していて、交通至便のところ。

ホーソーンにはスペースXの本社とテスラ・モーターズの設計部門があるね。ノースロップ(現ノースロップ・グラマン)の工場もある町だからその伝統・技術が生きているんだろう。ステルス爆撃機のB-2はノースロップ・グラマンの製造。1機2000億円かかる。当然世界一高価な飛行機だって。先月「アメリカ戦略軍がアジア・太平洋にB-2を3機配備して北朝鮮を牽制する」というニュースがあったね。ホーソーンにはマリリン・モンローが8歳くらいまで過ごした家もある。IAMNOTASTALKERというウェブ(映画のロケサイトなどを取材するサイトのようだね。サイトネームが「私はストーカーではありません」というのが笑える)に、モンローの子供時代の家が紹介されている。というわけでホーソーンが世界に誇るいくつかのエピソードがある町だということがわかった。

2人の弟デニス、カールと従兄マイク・ラブ、そしてブライアンの高校の友人アル・ジャーディンとビーチ・ボーイズを結成、1964年ころまでにサーフィンとホットロッドを題材にしたロックでブリティッシュ・インベージョン前のアメリカのポピュラー音楽を代表するグループになった。ブリティッシュ・インベージョンというのは、1964年2月のビートルズを先兵にローリング・ストーンズ、アニマルズなどによる英国ロックがアメリカのトップヒットを独占する状況となったため「イギリスの侵略」と言われる。1980年代前半にもデュラン・デュランなどでもう一度ブリティッシュ・インベージョンがあったね。こうした英国勢の活躍に刺激され、プレッシャーも受け(ブライアン自身がビートルズのラバー・ソウル(1965年12月リリース)に刺激されてこれはイカンとして作ったと再発時のライナーノーツに記している)、コンサート活動をやめて乾坤一擲音楽制作に打ち込んで作ったのが「ペット・サウンズ」だったわけだ。ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブ・バンド」(1967年6月リリース)に先立つ1年前。1曲1曲がメンバーそれぞれの手による曲、他人の曲のカバーだったりの寄せ集めだった従来のLPからLPレコード1枚がコアの作者によって一つのテーマなりストーリーで統一感のあるものになった、これを「コンセプト・アルバム」と呼ぶようになったけれど、今でも最高のコンセプト・アルバムの1枚になっている「サージェント・ペパーズ」よりも前にブライアンが実質一人でやっちまったわけだ。

で、今回の公演は、ブライアンが一人で作りあげた「ペット・サウンズの世界」を50周年の今、73歳のブライアンが日本の皆さまにお届けします、その前座と最後にはホットロッドミュージック、ビーチ・ボーイズのサーフロックメドレーを、ということで、東京フォーラムは一応満員になったし(大阪公演のチケットは完売ではなかったからね、懐の深い東京市場ならではだったといえるかな)、アラカンのぼくより下の世代もオールスタンディングで踊れる時間を持った。良くなかったということはなかった。決して。

でも真ん中にキーボードの前に座って、衰えは仕方がない声でGod Only Knows (LPではB面1曲目)を歌うブライアンに、アーチストとしてのブライアンへのリスペクトを持ったし、彼のドラッグやもろもろの変人扱いされる行動なども含めて「過ぎ去ったアメリカ」への遠い歴史感とを、深く感じることはできた。だってもう生では接することはできないかもしれないんだもの。

前座と最後のサーフロック極め付け部分で、マット・ジャーディンのファルセットがうまい、ほかのミュージシャンがそれぞれ技量を発揮した、そんなことは付け足しだよね。人間は有限な存在です。1ファンとして楽しんだ。

このアルバムのライナーノーツに、ブライアンはこうも記している。「リスナーが聴いて、愛されているという感じを受けるサウンド、これを実験したんだ」確かに。サーファー・ガール(1963年9月リリースの同名アルバム、1曲目)の天国にいるようなハーモニー感は不滅だよね。ぼく的にはYour Summer Dreamが一押しです。同じアルバムの最後手前の曲。

 

Scott LaFaro Remembered on 80th Birth Anniversary

2014 marked 100 years since the start of the First World War, with armies modernized to use then advanced technologies like tanks, armored cars and chemical gas. In Jazz arena, last year was centennial celebration of singers Frank Sinatra and Billie Holiday. This year we have Charlie Christian, then next year we will see Dizzy Gillespie, Thelonious Monk and Ella Fitzgerald, followed by Hank Jones in 2018, Art Blakey in 2019, and here comes Charlie Parker in the following year.

Now, today is the 80th birth anniversary of Scott LaFaro. THE great bass player, who as member of the first trio of Bill Evans(1929~1980), which existed from October 1959 to the last day of his life, completely revolutionized the way the piano trio performed.

Born in Irvington, suburbs of Newark, New Jersey and raised in Geneva, upstate New York, Scotty first studied clarinet and saxophone at Ithaca College, soon he changed his instrument to bass. It seems that the existence of his father, professional violinist, and his respect and love for his father’s passion for musical perfection, may have a major influence on this change to string instrument. He joined the Buddy Morrow Orchestra in late 1955, and he decided to leave it and live around Los Angeles until he returned to the East Coast jazz scene after finishing the gig with Benny Goodman Band in March 1959. Scotty’s days in LA was the groundwork for his later accomplishments as bass player that have never seen before.

Bill, on the other hand, left Miles Davis Band in November 1958, and was seeking for how his own trio should perform and who the members should be and in so doing he was playing for various players including Lee Konitz and Chet Baker. He even taught piano at the legendary Lenox School of Jazz for three weeks in August 1959. He was definitely  “setting the pace”. And there he is, Scotty was on board. The first trio of Bill, with Paul Motian on drums, was fully equipped and played in Tony Scott’s Sung Heroes on October that year. Interestingly, prior to Scotty joining Bill’s trio, the bass player was Jimmy Garrison, who would be playing with John Coltrane.

The aspect that I think important for Scotty to develop his gift to bloom, was that he played with Thelonious Monk in November 1959 at the Town Hall and at Storyville in Boston in January next year, and that he told in an interview that he learned a lot about rhythm when he played with Monk and that it was great experience. (p.111, Jade Visions: The Life and Music of Scott LaFaro by Helene Lafaro-Fernandez ) Wow, we should definitely find whoever has tapes for these incredible sessions!

On Sunday 2, 1961, Scotty was on stage for Stan Getz at the Newport Jazz Festival in Rhode Island. After finishing the gig, he drove his car heading for his parents in Geneva and in midnight on July 6, his car went on the shoulder of the Route 20 and hit a tree and burst into flames killing him and his old pal Frank Ottley instantly. He was only 25, and his future so promising and it is still, after those years, painful and agonizing.

Scotty’s greatness is that he set the norm of the bass player not only in the Bill’s trio but also for any serious bass players in a short time, which is therefore revolutionary. People who respect him include Marc Johnson who himself was on bass for Bill’s last trio. Marc played Scotty’s tune Jade Visions with Dave Catney, and more recently Phil Palombi recorded a tribute to Scott, “Re-Person I Knew”, and he uses Scotty’s 1825 Prescott instrument occasionally; all of these are evidential matters as to greatness of his legacy.

In commemoration of his 80th birthday, I pick as “today’s catch” three tunes of Scotty’s last performance in the 1961 Newport Jazz Festival. These are in “Miles Davis and Stan Getz: Tune Up” coupled with Miles’ 1956 performances in Germany, and the other Stan Getz group members were Steve Kuhn, piano, and Roy Haynes, drums.

On introducing the second tune, Stan announced that the next is “Where do you go” by Alec Wilder, however you will notice it is not. It is Gigi Gryce’s Wildwood, instead. Jazz fans talked about this mystery and one of them reasoned that this was caused by a slicing error of recording tapes. I listened to Gryce’s Wildwood played by Art Farmer in 1954, and I agree that it is indeed Wildwood. Take a listen to this crispy wonderful work of Art, really.

On Scotty’s life, his younger sister Helene wrote a great book “Jade Visions: The Life and Music of Scott LaFaro”. There are lots of interesting and heart-warming testimonies by her and Scotty’s friends and colleagues.

 

 

 

スコット・ラファロ生誕80周年

イベント・マーケティングの一つに「周年もの」がある。お店でも「開店○○周年セール」があるし、逆にだましの手口としては延々と続く「閉店セール」もあります。ニューヨーク5番街の42丁目あたりのエレクトロニクスものや靴屋なんかはEVERYTHING MUST GOなどと派手なPOPをウインドウいっぱいに貼って、客寄せしているよね。日本の法令では景表法違反だけれど、この場合でも閉店の意思はある、と抗弁したら行政側もなかなか手を出せないのかな。

さて、一昨年は戦車や毒ガス兵器など科学の発展によって最先端の人殺しの道具も登場し近代戦争の始めとされる第一次世界大戦の100周年、昨年はジャズの世界でフランク・シナトラとビリー・ホリディの生誕100年だった。今年2016年は大物ではチャーリー・クリスチャンが生誕100年、来年がディジー・ガレスピー、セロニアス・モンクそしてエラ・フィッツジェラルド。2018年がハンク・ジョーンズ、2019年がアート・ブレイキー、2020年にようやくチャーリー・パーカー登場、という感じ。

それで・・・今日4月3日はスコット・ラファロの生誕80周年。ビル・エバンス(1929~1980)のファースト・トリオ(「ワルツ・フォー・デビー」など超名盤を世に残してくれた1959年10月から1961年7月まで存在したピアノ・トリオ。ドラムスはポール・モチアン(1931~2011))でピアノ・トリオのインタープレイに革命を起こしたベーシストです。

マンハッタンの対岸のニュージャージー州ニューアーク郊外のアーヴィントンIrvington にイタリア移民の子として生まれ、ニューヨーク州北部のジュニーヴァGenevaで育つ。父親もビッグバンドでプレーするプロのバイオリニストだった。イサカ・カレッジで始めはクラリネットとサキソフォンを学ぶが、2年目にはベースに転向しカレッジをやめて、バディ・モロウBuddy Morrow楽団の西海岸ツアーに参加、1956年9月に楽団をやめて1959年3月のベニー・グッドマンのツアー後にニューヨーク・ジャズシーンに戻るまで、約3年ロス・アンジェルスに滞在。このLA時代がベーシスト・スコッティ(というのがスコット・ラファロの愛称)の土台を築いた時代。

一方、ビル・エバンスは1958年11月にマイルス・バンドを辞めて(翌年3月のカインド・オブ・ブルーKind of Blueの録音には参加している)、リー・コニッツ、チェット・ベーカーなどのバンドで演奏しながら自分自身のトリオがどうあるべきか、メンバーには誰がいいのかと模索しているところで、8月は3週間にもわたり、1960年まで4年間続けられた、かの有名なバークリー音楽院よりも講師の面々の豪華さが今でも伝説となっているレノックス・スクール・オブ・ジャズという学校でピアノを教えるなど、自分のペースを整えている段階ともいえる状態だった。そこにスコッティが参戦したというわけだ。こうして、1959年10月のトニー・スコット(cl)のサング・ヒーローズSung Heroesが公式録音ではビル・エバンスのファースト・トリオの3人が初めてそろった録音となる。ちなみにその直前のビル・エバンス・トリオのベースはその後コルトレーン・カルテットで不動の地位を築いたジミー・ギャリソン。

スコッティがニューヨークに戻ってからの才能開花過程でぼくが見逃せないと思っているのは、1959年11月から翌年1960年1月にかけてモンクのグループで演奏し「素晴らしい経験だった」としている点。前者はタウンホール、後者はボストンのストーリーヴィルで演奏だったことがわかっている。録音した人はいなかったのかなあ・・・これから発掘されないかなあ・・・期待したいなあ。この経験が1959年12月28日録音のポートレート・イン・ジャズに結実したと思うから。

1961年7月2日(日曜日)ニューポート・ジャズ・フェスティバルにスタン・ゲッツ・カルテットの一員として出演したのち、実家のあるニューヨーク州ジュニーヴァGenevaに車で向かう途中の7月6日未明に道路から逸れて木に激突して炎上、同乗者ハイスクールからの  友人フランク・オットリーとともに即死。享年25。クリフォード・ブラウンもリッチー・パウエル(バド・パウエルの弟です)とパウエルの奥さんが運転する車で25歳で交通事故死したが、どちらも天才的なジャズ・ミュージシャンだっただけに、なんか心が痛む。

スコッティの偉業は、その後のビル・エバンス・トリオのベーシストの規範となったのみならず、ジャズ・ベーシストなら誰でも影響を受けるほどの革命を短期間で成し遂げたことた。スコッティを尊敬する人たちの中には、もちろんビル・エバンスのラスト・トリオのベーシストのマーク・ジョンソンMarc Johnson(ビル・エバンスの最後のスタジオ録音で有名なWe Will Meet Againのベーシストで、かつ今のイリアーヌ・イリアスの夫君)がいる。この人はデイブ・キャトニー(p)とスコット・ラファロの名曲Jade Visionsを録音していたりします。残念ながらこのデイブ・キャトニーもAIDS死、33歳。スコッティの没後50年の2011年には、フィル・パロンビPhil Palombiがトリビュート・アルバム「RE:Person I Knew – A Tribute to Scott LaFaro」をリリースするなど、まだまだスコッティの足跡は大きい。この人はスコッティが使っていたPrescott社の1825年製ベースを定期的に借りて演奏していることで有名。

ビル・エバンスがリーダーとなってからのファースト・トリオの公式録音はトニー・スコットとのサング・ヒーローズのちょうど2か月後12月28日の録音のポートレート・イン・ジャズ、その後エクスプロレーションズ(1961年2月2日)、そして1961年6月13日からのヴィレッジ・ヴァンガードでの演奏の最終日25日(日曜日)の昼(日曜は午後のライブがよくあります)と夜のセットを通しで録音していたものをリリースした、「ワルツ・フォー・デビー」と「サンディ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード」のライブ2枚、計4枚しかこの世に存在していなかったが、1992年に1960年3月から4月にかけてバードランドで演奏した際のラジオ音源をCD化したものが発売されファンは大喜び。なにしろポートレート・イン・ジャズから丸々1年以上この偉大なトリオの録音が残っていないのはおかしいじゃないか、ということだったはず。現在も同じ内容の「ザ・1960・バードランド・セッションズ」として入手可能。この合計5枚のアルバム、時間にして1年半この世に存在してそれまでのピアニストが主役でベースとドラムがリズムをきっちり提供する(でもインタープレイは考慮されることはほとんどなかった)ピアノ・トリオの演奏をガラリと変えてしまった、ベースの革命者がスコッティだった。ピアノとベースは対位法で絡みつくように、ドラムスもその2者につかず離れず、またそれぞれのソロの展開も自由奔放の中に相互の対話が維持される、そんなトリオ。

スコッティが参加したビル・エバンス・ファースト・トリオの作品とりわけ、その頂点となったヴィレッジ・ヴァンガードライブ盤2枚のうち、はじめにリリースされたのは「サンディ」の方で、これはスコッティが急死したことを受け、急きょ彼を偲ぶ作品としてfeaturing Scott LaFaroのタイトルを加え、スコッティの自作曲2曲(Gloria’s StepとJade Visions)を含めスコッティのベースがとりわけフィーチャされた曲を中心に、死後3か月後に発売された。日本ではワルツ・フォー・デビーがジャズ入門用のモンスター・アルバムになっていて、ジャケットも印象派風でカッコいいこともあり、こっちの方がはるかに有名になっている感じだがリリースは「サンディ」の4か月後の1962年2月。

今日は、スコッティの死の4日前のスタン・ゲッツ・カルテットでの最後の演奏を聴いてみたい。独立記念日の休みが2日後の7月4日、ロード・アイランドは夏休みリゾート気分満開だっただろうな。ここでの演奏はマイルス・デイビスのドイツでの1956年の録音とカップリングで1994年に発売されている「Miles Davis / Stan Getz ‎– Tune Up」。YouTubeでも聴けるので聴いてみましょう。音は残念ながら良いとは言えないけれど、25歳のスコッティの溌剌としたプレイが聴ける。ピアノはスティーブ・キューン、ドラムスはロイ・ヘインズ。

スコッティはBaubles, Bangles and BeadsとWildwoodそれぞれでソロがフィーチャされAireginでも快調そのもの。

この2曲目でスタン・ゲッツが次の曲は、と紹介しているのは確かに「Alec Wilder のWhere do you goです」と言っているけれど、演奏されているのはジジ・グライスの名曲Wildwoodなのです。この辺のことを気づいたファンが少し前に話題にしていた。テープを継ぎはぎして作ったライブ音源だからまちがって別のライブのwhere do you goを演奏した際の曲名紹介部分を継いでしまったのではないか、という推定をしている。そうなのかもしれないけど、この世に残ったスコッティの最後の録音の一つだぜ、もうちょっと丁寧にやってくれないかね。

スコッティの人生については2歳下の妹のヘレンHelene LaFaro-Fernandezが2009年に書いた「スコット・ラファロ その生涯と音楽」がていねいに描いており、心を打つ。

上記のスコッティの最後の録音のテープ継ぎはぎミスらしいとされる、Where do you go ならぬWildwoodの本家本元演奏例としては、ジジ・グライスがアレンジ参加のアートファーマー初リーダー作「アート・ファーマー・セプテット」(のちに「ワーク・オブ・アートWORK OF ART」として再発)で聴けます。ちなみにこのアルバムの前半4曲でクインシー・ジョーンズもアレンジ参加している。弱冠20歳。メンバーのほとんどはライオネル・ハンプトンのビッグ・バンドのメンバーだったんだね。クインシーじいさんのほとんど初期のアレンジ作品だね。)このアルバムは初期ハードバップの傑作です。

40th Anniversary of the Neil Young’s 1976 Japan Tour

I was nineteen when Neil Young first toured in Japan in 1976. The first concert was in Nagoya on March 3 and the final two days were at Budokan in Tokyo. I went to the last concert on March 11. It was midst of end-of-year recess on the junior year of my university.

Nippon Budokan (or simply Budokan, literally meaning Martial Arts Hall) was completed in 1964 to accommodate Judo competition in the 1964 summer Olympic Game. However, Budokan is now a national and global brand for musicians with highest status as such. No question about it. Names such as the Beatles, Cheap Trick, Bob Dylan and Paul McCartney include people who did their gigs at this venue.

Tracing back its history, the first foreign artist played at Budokan, surprisingly, was Leopold Stokowski conducting Nippon Philharmonic Orchestra in July 1965. At that time he conducted Bach’s Toccata and Fugue in D minor and the Beethoven’s Symphony No. 5 among others. I was very curious to listen to and tried to buy this music, if still available, but it seems out of print and I couldn’t find any clue where I could get a used LP. Stokowski was followed by the Beatles in July 1966, the Walker Brothers and the Monkees both in 1967, and in the 1970’s bands like Chicago, Led Zeppelin, and Deep Purple came and thereby playing at Budokan was formulated as proof of first-grade artists and at the same time brand value of Budokan in music was also established.

Budokan was completed in 1964 with a sum of roughly 2 billion yen that consists of an imperial donation by Emperor Hirohito (I wonder how much, but its not subject to disclosure, I guess.), national expenditure and people’s donation. Japan regained its ndependence in 1952 after the US-led Allied occupation with the effect of  San Francisco Peace Treaty. Since then the National Memorial Service for War Dead has been held by the government on August 15 every year, and after its completion, Budokan has been the venue of this official ceremony.

Martial arts, such as Judo, Kendo and Karate, are by their origin, have been developed by the Samurai warriors and have strongly been influenced by Zen Buddhism. (see this) But after the Meiji Restauration, martial arts was regarded as forming a unity with Shintoism(meaning “Way of the gods”, and the Emperor is the living god. ), which became an established national religion after Meiji era, the government and then the military encouraged martial arts by way of national competitions and mandatory teaching at middle schools. So for the people who can’t erase dreadful memories of pre-WWII warfare and controlled economy off their mind, Budokan evokes uneasy and unsettled feelings.

Not far from Budokan, there is Yoyogi National Stadium where track and field events as well as opening/closing ceremonies of 1964 summer Olympic Game. Yoyogi Stadium was build where pre-war Meiji-Shrine Outer-garden Stadium was. Ms. Sonoko Sugimoto, novelist, said in an NHK program, “Tokyo, rendered in color, 100 years of phoenix-like rise from debris”, that she has seen two very different events at the same location, one that she was an high school student and audience of Departure Ceremony for Students drafted into the Military in 1943 and the opening ceremony of the Olympic Game 21 years later. On the occasion of the opening ceremony,  she wrote “Today’s Olympic Game is tied to that day, and that day is tied to today, which scares me.” Now, Yoyogi Stadium was demolished and on the same site the New National Stadium is now under construction.

Tokyo, rendered in color, 100 years of phoenix-like rise from debris, DVD (Japanese Only)

Enough about the history of Budokan. I knew there are bootleg recordings of each Neil Young concert in Japan, and I have seen some on auction sites. This time I bought “Hurricane Over The Judo Arena”, recorded mainly on March 11, 1976 at the Discog market place. The seller charged $6 for the shipping, but shortly aftere he recognized the buyer is in Japan, he kindly gave me 500 yen back. Surprisingly, I found from the package that he lives in a neighboring city just a few miles from where I live.

Neil’s 1976 Japan/Europe Tour began in Nagoya, Japan and was followed by three days in Osaka, one day in Fukuoka, and was completed with two days at Budokan in Tokyo. After leaving Japan, he continued his gigs in Norway (3/15), Denmark (16), Germany (18-20), Paris, France (23), Netherlands (24-26), London and Glasgow, UK (28-4/4). Four consecutive days of London concerts are known as legendary performance at Hammersmith Odeon (now Hammersmith Apollo), but it is also established reputation that his performance in Japan is no less of quality.

The opener is Tell Me Why. I remember I was extremely impressed that his D-45 was glittering and sounded like heaven, his hammerings with such brilliant tones. He debuted five out of ten new songs in this Japan/Euro Tour though he also played popular tunes like After the Gold Rush, Only Love Can Break Your Heart and Heart of Gold. Five new songs are as follows (Left: track number, Middle: name; Right: Official Release LP)(source):

Disc1-4                Too Far Gone                    Chrome Dreams (1977) Not Released

Disc1-6                Let It Shine                       Long May You Run (1976)

Disc1-8                No One Seems to Know    Not Released

Disc1-13              Lotta Love                         Comes A Time (1978)

Disc2-1                Like A Hurricane              American Stars ‘n Bars(1977)

The Japan/Europe Tour was after the album Zuma and before Long May You Run with Stephen Stills. Neil was still struggling from the loss of his close friends, Danny Whitten, Crazy Horse guitarist, and Bruce Berry, a CSN&Y roadie, due to drug overdoses in 1973. His struggle was further complicated due to his breakup with actress Carrie Snodgress (1945~2004)and their son Zeke’s cerebral palsy. The album Tonight’s the Night was recorded to face the death of Danny and Bruce but the record company Reprise refused to release it because of its darkness and lack of commercial viability. Rick Danko of the Band had a chance to listen to the recording tape and convicted Neil to release it immediately, but it took two years to its release. (Source) I think it was fruitful outcome of his struggle of this period that contributed the quality of his performance in the Japan/Europe tour. Neil has been one of a kind individual who instinctively cuts into social ills. Thank you Neil, I am 40 years older but trying to be staying relevant better than that now.

Frank “Poncho” Sanpedro remembers his experience in the Japan tour in a Rolling Stone article “Flashback: Neil Young & Crazy Horse Rock Japan In 1976”. (Quote) He was merely a fan of Neil Young the previous year, and suddenly “at Tokyo’s Budokan Hall, (snip) Nobody bothered to tell Poncho, and he dropped a bunch of acid before going onstage one of the nights. “I couldn’t even look up,” he told author Jimmy McDonough. “I was so high. I’d hit the strings of my guitar — they were like eight different colors — and they bounced off the floors and hit the ceiling.”(Unquote)  I would have yelled at Poncho saying “you knew how Neil lost his dearest friends due to drug overdose, and you…” but I do understand he was so nervous playing with Neil. I love Poncho like a good-hearted uncle next-door, who is now an instructor of natural farming in Hawaii and grows mangoes and papayas!

Here’s YouTube source of Neil Young –Yesteryear of The Horse. It includes some of the two day performances at Budokan as well as those in Europe. Budokan performances continues until about 37 minutes. Enjoy!

 

 

ニール・ヤング初来日から40周年!

ニール・ヤングの1976(昭和51)年の初来日公演は3月3日の名古屋皮切りで今日10日と11日が武道館。ぼくは2日目の11日に行った。大学1年の春休みだったなあ。

日本武道館は1964(昭和39)年の東京オリンピックに柔道が正式種目に決定したことを受けて、「天皇陛下からの御下賜金の下、国費と国民の浄財およそ20億円をもって」同年9月に完成、開会式の1週間前の10月3日に開館している。御下賜金が幾らだったかは明かされてはいないようですね。個人情報だよ(笑)。日本が独立国として世界に再登場した1952年(昭和27年)から行われている全国戦没者追悼式は1965(昭和40)年からはここ武道館で8月15日に行われるようになった。武道は神道すなわち戦前は天皇そのものと一体化して理解されていたから、そうした歴史を考えるとちょっと恐ろしいものがある。昨年秋にNHKで放送された「カラーでよみがえる東京 ~不死鳥都市の100年~」に登場した作家の杉本苑子は昭和18年の学徒出陣壮行会とその21年後の東京オリンピック開会式のどちらも同じ明治神宮外苑競技場(正確には東京オリンピックの開会式会場は明治神宮外苑競技場が解体され1958(昭和33)年に竣工して昨年に解体された代々木国立競技場)で見たことに触れて「きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれがおそろしい。」とコメントしている。それと同質の恐ろしさ。2020年東京オリンピックに向けてここに「新国立競技場」が建設されようとしている。

剣道豆知識というウェブサイトがあって、明治維新で武士脱刀令、廃刀令が相次いで公布され、身分制度も廃止されて武士階級は消滅、府県によっては剣術の稽古そのものを禁ずるところもあり、一般に剣術は時代遅れと罵られ士族階級は生活が困窮して行ったけれども、明治10年の西南戦争の鎮圧に東京警官隊の中から選抜された抜刀隊の大きな働きがあり、これを契機として、警視庁では剣道が見直され、また自由民権運動の全国的な盛り上がりに対処することもあって、奨励されるようになった。明治27年の日清戦争に勝って尚武の精神の横溢していた翌年、武道の総本山として大日本武徳会が設立され、以後太平洋戦争に至るまで、学校における剣道の正課授業、武術教員の養成及び紀元二千六百年奉祝等の天覧試合などを通じて全国に「尚武精神」を広めていった、というわけだ。太平洋戦争では日本刀を用いて敵を斬殺できる場面があったとしても、それは陸上戦で追い詰められて最期の決死の場面でのことだったろうし、「尚武精神」と日本刀の技術も実務上の戦略上の有効性はほとんどなかったということだ、残念ながら。ぼくの子供のころはチャンバラ遊びはまだしていたけれどね。丹下左膳や鞍馬天狗だよ。

ブドーカンは完全に外国ミュージシャンの日本(とグローバル市場)における地位を証明する代名詞になっているけれど、なんと、最初の「外タレ」は1965年7月の日フィルを指揮したレオポルド・ストコフスキーだった。バッハのトッカータとフーガニ短調、ベートーベンの運命などを演奏しているね。聴いてみたいと思い探してみたけれど、廃盤のようで残念。外タレはその後、ビートルズ、ウォーカー・ブラザーズ、モンキーズと続き、1970年代に入るとシカゴ、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル等、大物は「初来日」=武道館公演という定式が確立した感がある。「人気外タレが武道館」というブランド価値が認識されたことから、西条秀樹を嚆矢(1975年)として日本人ソロ・アーティストも続々とワンマン公演を行うようになって、現在に至る。

さて、ニール・ヤングの初来日公演の模様はそれぞれ海賊版が出ていたことは知っていたが、先ごろ武道館公演のものをウェブで入手。この手の海賊版は日本のオークション・サイトでもよく販売されているけど、何回か購入したことのあるDiscogでも見つけたので、オーダーを入れたらなんと売主は日本人でかつ隣町の在住の人だった。売主さんは買い手が外国とばっかり思って送料を6ドルで決済したのだが、相手は日本人と気が付いて実際の送料との差額を戻してくれた。ありがとう!そうなんですね、中古CDの商売は一定固定額でもらう送料(国内でも普通に350円)が収益源だもんね。

ニールの初来日公演に関する日程感。名古屋、大阪3日、福岡、東京2日の7回の日本公演の後にはオスロ(3/15)、デンマーク(16)、ドイツ(18-20)、パリ(23)、オランダ・ベルゴー(24-26)ロンドン(28-4/4)、グラスゴー(4/2)でユーロ・ジャパンツアー終了。ハマースミス・オデオン(現ハマースミス・アポロ)で4日間連続となったロンドン公演もいい演奏だったと言われているけれども、ファンの間ではツアーの始めとなった日本公演の質の高さには定評がある。

Tell Me Why がオープニングでマーチンD-45がキラキラしてカッコいいなあ、いい音だなあ、ハマリングの箇所もなにげにいろいろ自在でうーん、と感動していたことを思い出すなあ。After the Gold Rush とか日本公演だけで演奏したOnly Love Can Break Your HeartやHeart of Goldなどの過去の人気曲はもちろんカバーしたけれども、多くの最新曲を披露している。このツアーで披露した世界初演10曲のうち半分の5曲が日本公演での披露。その5曲はどんな曲かチェックしよう。Disc1の4曲目のToo Far Gone は幻のアルバムとなってリリースされなかったChrome Dreams(1977) に収録される予定だった曲。6曲目のLet It Shine は半年後の9月に発売されたStills-Young BandのLong May You Runに収録される曲。8曲目のNo One Seems to Knowは未だにアルバムには収録されていないがこのツアーでは殆ど毎回演奏した曲。Disc1最後のLotta LoveはComes A Time(1978)に収録、そしてDisc2の1曲目の永遠の名曲となるLike A Hurricane(American Stars ‘n Bars収録77年6月)。スティーブン・スティルスとのLong May You Runの前、1975年11月のZumaの後というタイミングでの日本・ヨーロッパのツアーだったニールには、1973年暮れに身近な2人(クレージー・ホースの盟友ダニー・ホイッテンDanny WhittenとCSN&Yのローディ(業界用語でツアーの楽器の運送・セッティング等の裏方さん)だったブルース・ベリーBruce Berryのドラッグ中毒死があり、また女優キャリー・スノッドグレスCarrie Snodgress(1945~2004)との間の子供の脳性麻痺のことや、その後の別れやらがあってヘビーな時期であった。ダニーとブルースの死を受け止めるために作ったTonight’s the Night(1973年8月。でもこの作品のあまりの「暗さ」のためにレコード会社のリプリーズが、これは売れないとしてお蔵入りを決断し、2年後にザ・バンドのリック・ダンコの強力な後押しもありリリース。当初は売れなかったけれども今ではニールの最高傑作の一つとして評価が確立している。)を作り、Harvest(1972)の大ヒットが及ぼした余波をなんとかこなし、自分の道を苦労しながら一つ一つ歩んでいる、そんな時期だっただろう。日本公演の質の高さも、そんな時期のニールだったからか。そして今もマイペースで社会問題に切り込むニールの出発点は、この時期の自分の道の模索にあったのかな。このぼくもあれから40歳トシを取りました。ありがとう、ニール。

日本公演ちょっと前にクレージー・ホースに参加したフランク“ポンチョ”サンペドロがローリング・ストーン誌のこの時の武道館公演についてインタビューに答えた記事がある。前年のZumaのレコーディングセッション以来の少しの経験しかニールとはなく、緊張もしていたため武道館の演奏前にアシッドを少しやっていたからさ、ギターを弾くと弦一つ一つの音が8色でそれが床にバウンドして天井に当たるんだよ・・・・

おいおい、フランク、ニールがどれだけドラッグで大事な人を失ってきたか、わかってたのかよ、と言いたくなりますが、フランクはフランクなりに必死だったんだろう。2010年にハワイに移り住んで有機農業をコリアン・アメリカンのチョー先生(チョー先生自身は日本人から習っている)に習って、マンゴーやパパイヤを作って、今やインストラクターになっている、そんなフランクだよ。

Youtube 音源でNeil Young – Yesteryear Of The HorseというDVD映像がアップされている。2日間の武道館公演とロンドン及びグラスゴーなど欧州の一部音源も加えた1時間ちょっとの編集もの。武道館の音源は37分くらいまで。音も映像もそれなりだけれど、ご覧ください。

ナベサダのコメントに深く頷いた

ナベサダのラジオ番組は昔からなにがしか聞いてきた。大学に入学と同時にFM東京で深夜0時からやっていたマイ・ディア・ライフは本田竹廣がレギュラーのピアノだったかな、好きだったな。1977年くらいだと思うけどハロルド・ランドHarold Landとブルー・ミッチェルBlue Mitchellが来日したときに共演した回があって、There Is No Greater Love ゼア・イズ・ノー・グレーター・ラブとかスタンダードをばりばりやって、カセットテープに「エアチェック」して長く聞いていた。しまいには、PC時代に入ってからカセットをWAV化してCDに焼いた。なので、今でもテープならば伸びたり切れたりすることもあるけれど、その心配なく聴ける。

現在のナベサダの番組は、渡辺貞夫 Nightly Yours。全国のJFNネットワークで放送されているが、夜中の3時とかからなので、Radikoolなどで録音予約して聴くしかないね。PC用録音ソフトではRadikaが有名で、ぼくも使用していたけれどバージョン・アップしなくなったため、Radikoolに乗り換えた。

先月の新しいミュージシャンを紹介する回で、スタンフォード大卒で統合失調症を患いながら数々の賞を獲得しているトランペットのトム・ハレルTom Harrell、イスラエル出身のコーエン3兄妹のトランペッターのアヴィシャイ・コーエンと同姓同名のベース屋さんの(ややこしいね。日本で言えば鈴木一郎さんのような名前だとか。)アヴィシャイ・コーエンAvishai Cohen、それとブラジル南東部のフォルクローレの土壌とサンバ・ボサノバのが混ざった不思議な雰囲気のジゼリ・ジ・サンチGisele di Santiを紹介。80歳のナベサダは言う。「若いミュージシャンは基本的に<買う>。僕らがジャズを始めたときは、ディキシーランドからスウイング、そしてビバップと発展してきていたアメリカン・ジャズ。今は世界が狭くなってカリビアン、ブラジルの音楽や、さらには東南アジア、中近東と世界の伝統音楽をジャズが吸収している。世界のミュージシャンがジャズに影響を受け、ジャズをハプニングしている。」として、ジャズにおける異質のものの出会いが、世界が狭くなったおかげでさらに活発になっている、としたうえで、「若いミュージシャンは評価するが、ミュージシャンシップというべきもの、すなわちセンス、テイストが重要であって、そこにGrooveがあるかどうかが問題だ。」と言っていた。「ミュージシャンが<雑食化>して、テイストやセンスが幅広くなってきたということで、ジャズはContemporary Musicというものになったのではないか」

さすが、ナベサダ。伊達に年を取っていない(偉そうにすみません)。センスとかテイストというホンワカした用語を使って話していたけど、ナベサダが言うミュージシャンシップの内容には、ミュージシャンを評価する要素として、技術、経験、音楽の伝統理解、異質なものの対決・止揚、そうしたものから紡ぎだされるオリジナリティといったものが入ってくるのだろう。深いね。